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「人を殺すのは悪い」と言うなら、それは道徳だ。「神が禁じたから、人を殺してはいけない」や、「宇宙の流れに逆らうから、人を殺してはいけない」と言うなら、それはメタ倫理だ。
特殊相対性理論については「科学とは何か?」についてより、はるかに合意がある。それと同じく、人々にとって「殺人は悪い」に合意するのは、何がそれを悪くするのか、あるいは何かが悪いとはどういう意味なのかに合意するより、ずっと簡単だ。
人は自分のメタ倫理に執着する。実際、自分のメタ倫理が間違っていたら、道徳はすべて必ず崩壊する、とよく言い張る。有神論者、オブジェクティビスト、プラトン主義者などのメタ倫理論者を集めて討論会を開くと面白いかもしれない。全員が殺すのは悪いと同意し、何かが「悪い」とはどういう意味かでは全員意見が異なり、しかも全員が、自分のメタ倫理が真でなければ道徳は崩壊する、と言い張るのだ。
明らかに、かなり多くの人は、哲学的に進歩するなら、人生のどこかでメタ倫理を変える必要がある。あなたも、そうしなければならないかもしれない。
そのとき、退路が開けていると役に立つだろう。道徳からの退路ではなく、「あなたの現在のメタ倫理」からの退路だ。(ほら、それが真でなければ、人を殺してはいけない根拠が何一つなくなる、あのメタ倫理から。)
そこで、考えられる退路をいくつか以下にまとめた。対処されていない執着があるままでは、メタ倫理上の信念を変えることは、ほぼ不可能だと学んだからだ。
たとえば、「殺すなかれ」の権威は神に由来すると信じる人には、いきなり神の存在のもっともらしさを攻撃する代わりに、退路を用意するのに役立つ、よく知られた言い方がいくつかある。こう言える。「自分で責任を取ろう! 神から命令を受けたとしても、それに従うか決めるのは自分だ。神が道徳的であれと命じなくても、そのまま道徳的に振る舞えばいい」
実はこの議論は、かなり多くのメタ倫理へ一般化できる。「神」を、相手が好む道徳の源、あるいは「道徳」という言葉そのものに置き換えればいい。あなたの道徳的権威の源が駄目になっても、それでも線路から子どもを引きずり出せるのではないか? そもそも、その道徳的権威の源に従うと決めたのは、あなた以外の誰だったというのか? 本当は、どんな責任を転嫁しているというのだろう?
だから最も大切な退路は、こうだ。自分のメタ倫理が命を救えと言わなくなっても、それでも線路から子どもを引きずり出せばいい。ピアズ・アンソニイの言葉を借りれば、道徳を持っているかどうかを心配するのは、道徳を持つ者だけだ。自分のメタ倫理が人を殺せと言うなら、なぜ耳を貸すべきなのか? 道徳がなくてもするであろうことこそが、あなたの道徳なのかもしれない。
もちろん、言いたいのは道徳が存在しないということではない。道徳の性質についての考えが変わっても、自分の意志は保てるし、自分にとって大切なものを見失うと恐れなくてよい、ということだ。
とりわけ、もっと自然主義的なメタ倫理への退路を用意するために、いくつかエッセイを書いた。「ただ現実であることの喜び」と「説明することと、説明して退けること」では、人生のどんな側面も、本来謎めいているのではなく説明できるとわかっただけで、がっかりするべきではないと論じた。ただ現実であるものを喜べないなら、私たちの人生は本当に空っぽになってしまうからだ。
「誰にでも必ず通じる議論はない」は、自分たちの道徳的議論に誰もが同意することを望む気持ちからの退路を用意する。自分たちの道徳的議論が正しいなら、当然、人に説明できるはずだ、という強い道徳的直感がある。人間同士では、それは妥当かもしれない。だが、岩に道徳的議論を説明することはできない。完全に空っぽの理想的な哲学生がいて、モーダス・ポネンスを持たないところから、モーダス・ポネンスを使うよう説得できる、などということはない。あなたの道徳的議論に動かされるものを含まない心は、その議論に応答しない。
だが、それなら道徳はすべて循環論法であり、崩壊するのではないか? 「再帰的な正当化が底に達するところ」と「私なりの内省」では、メタ水準を通る自己整合的な循環と、本物の循環論法の違いを説明した。「宇宙は単純だ。単純だからだ」「殺人は悪い。悪いからだ」と言うべきではない。だが、オッカムの剃刀が働く確率を評価するときにオッカムの剃刀を捨てようとするべきでもないし、「殺人は悪いか?」を自分の脳の外のどこかから評価しようとするべきでもない。自分をほどいて戻れる、完全に空っぽの理想的な哲学生などいない。立つための完璧な岩を探そうとすれば、自分が岩になってしまう。だから代わりに、自分の基礎を調べるときは、知性の全力、合理性のすべて、道徳のすべてを使おう。
道徳がどう生まれたかの説明で、進化に因果的な役割を認めることを恐れる人にも、退路を用意できる。(道徳理論の中で、進化に正当化する地位を与えることとは、まったく違う点に注意してほしい。)愛は、何らかの仕方で生まれなければならない。生まれうるものを喜べないなら、私たちの人生は本当に空っぽになってしまう。進化は、愛が生まれる道筋として、とくに気持ちのよいものではないかもしれない。だが、出所でなく、最後にできたものを判断しよう。そうしなければ、発生論的誤謬という、まさにふさわしい名の誤りを犯すことになる。原因と正当化は、同じ概念ではない。進化から与えられた脳の外へ踏み出せるわけではない。自然への反逆は、自然の内側からしかできないのだ。
前の進化心理学シリーズを読めば、普通の人間が、意思決定の際に、無意識にせよ自分の繁殖適応度を考えていると信じるメタ倫理上の混乱は、取り除けるはずだ。遺伝的適応度をどう定義するかさえ知っているのは進化生物学者だけであり、彼らはそれが道徳を定義すると考えるほど無分別ではない。
道徳は自分の心の中で計算されているのかもしれない、という考えは、確かに不安をかき立てる。だがそれは、道徳がただの思考だということではないのか? 自分が正しいと思うことは何でも、正しいに違いない、ということではないのか?
違う。ある量が頭の中で計算されるからといって、計算される量があなたの思考についての量だとは限らない。「2 + 3はいくつか?」を計算する電卓と、「誰かが『2』『+』『3』を押したら、自分は何を出力するか?」を出力する電卓は、違う。
最後に、人生がつらいなら、還元主義が本当の問題の源ではないかもしれない。単なる粒子の世界で生きるのは耐えられないと思えるなら、いまの人生があまり面白くないだけかもしれないのだ。
どうせ最後は道徳的な当たり前の結論に帰着する——子どもを線路から引き離せと教えるのであって、その逆ではない——のに、なぜ私がメタ倫理を重要だと考えるのか、疑問に思うなら……。
実際、合理性は宇宙から意味を奪うと考え、それに反対する人々はいる。
そしてこれは、自分の道徳がどこから来るかを誤解することで、非常に多くの人が振り回される、という一般的な現象の一例だ。拙いメタ倫理は、多くのカルトの教えの一部をなす。大きなものも含めて。私が想定する読者は、人生は無意味なのではと恐れる人だけではない。本当の道徳とは包括適応度の最大化を伴わなければならないので、愛は妄想だと結論した人や、本当の道徳は利己心からしか生じないので、見返りのない親切は悪だと結論した人なども、含まれる。