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……あらゆる魅力は逃げ去るのではないか
冷たい哲学がほんの少し触れただけで?
かつて天空には畏怖すべき虹があった。
今や私たちはその横糸も、その織り目も知り、虹は
ありふれたものの退屈な目録に載せられている。
「ただの」ものなど、何一つない。
「ありふれたものの退屈な目録」とは、感心させられる言い回しだ。いったい何が、この目録に載るのだろう? 虹のほかには?
もちろん、平凡なものだ。普通のもの。魔法めいていないもの。知られているもの、あるいは知りうるもの。規則に従うもの(あるいは何らかの規則に従ってしまうからこそ、つまらないもの)。ごく普通の宇宙の一部であるもの。一言で言えば、現実のもの。
これこそ、自分から落とし穴にはまりに行くようなものだ。
それでは、遅かれ早かれすべてに失望することになる。存在しないとわかるか、さらに悪いことには、現実のものだとわかるか、そのどちらかなのだから。
ただ現実であるものに喜びを見いだせないなら、私たちの人生はいつまでも空虚なままだ。
虹は何の罪で、ありふれたものの退屈な目録へと格下げされたのか? 科学的な説明があるという罪でだ。キーツは「私たちはその横糸も、その織り目も知る」と言う。「私たち」とは興味深い言葉遣いだ。私は、キーツ自身はその説明を知らなかったのではないかと思っている。ほかの誰かが知っていると言われるだけで、彼には耐えがたかったのではないか。虹は原理的には科学的に説明できる、という考えだけで耐えがたかったのではないか。キーツがそう考えていなかったとしても、まあ、私はそんなふうに考える人をいくらでも知っている。
本質的に神秘的なものなどないことは、すでに述べた。少なくとも、実際に存在するものの中にはない。ある現象について私が無知だとすれば、それは私の心の状態についての事実であって、現象についての事実ではない。すばらしく神秘的に思えるからという理由で現象を崇めるのは、自分自身の無知を崇めることだ。地図の空白は、空白の土地に対応するのではない。そこは単に、私たちがまだ訪れたことのない場所なのだ、等々……。
つまり、すべて――実際に存在するすべてのもの――は、遅かれ早かれ「ありふれたものの退屈な目録」に載ることになりかねない。
あなたの選択肢は、次のどちらかだ。
- 魔法めいていなくても、知ることができても、科学的に説明できても――一言で言えば、現実のものであっても――それでも大切にする価値はあるのだと認めること。
- あるいは、残りの人生を、解消できない実存的な倦怠に苦しみながら過ごすこと。
(自己欺瞞は、ほかの人にとっては選択肢かもしれないが、あなたにとっては違う。)
そう考えると、科学者と呼ばれる風変わりな人々がふける奇妙な習慣も、まったく違って見えてくる。彼らは突然、ポケットの綿ぼこりや鳥のふんや虹、あるいは世慣れて人生に倦んだ人なら見向きもしないような、ほかの何かありふれたものに夢中になるのだ。
科学者――少なくとも一部の科学者――とは、現実の宇宙での人生を原理的に楽しむことのできる人々だ、と言ってもよいだろう。