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敵を包囲するとき
必ず逃げ道を残せ。
死とは別の道があると
敵に見せなければならない。
圧力を上げず、壁を下げよ。
あるとき、地元の合理主義者の集まりへ、どういうわけか迷い込んだ非合理主義者と話すことになった。彼女は、(a) 魂を信じている、(b) 凍った身体には魂が留まらないと信じているので、人体冷凍保存を信じない、と言ったばかりだった。「でも、どうしてそう分かるのです?」と尋ねた。彼女の顔に浮かんだ困惑から、この問いを一度も考えたことがないのは、かなり明らかだった。悪い意味で言っているのではない。ほかの人類の大半とまったく同じく、合理性の訓練を一切受けていない、感じのよい人に見えた。私は本当に、あの本を書かなければならない。
その後の会話の大半は、すでにOvercoming Biasで扱った項目についてだった。何かを本当に知りたいなら、それを検証する優れた方法を、おそらく見つけられる。まず正確な信念を得ようとし、それから感情をそこから流れさせる。そういったことだ。だが、その会話によって、ここではまだ扱っていない考えを一つ思い出した。
私は彼女に提案した。「魂が存在しないなら世界はどのようなものか、そして自分がどうするかを、必ず思い描いてください。そうでありえない理由をすべて考えず、単に前提として受け入れ、それから帰結を思い描くのです。そうすれば、直面するには恐ろしすぎるものになる代わりに、『まあ、魂がないなら、人体冷凍保存に申し込めばよい』、あるいは『神が存在しなくても、ともかく道徳的であり続ければよい』と思えるでしょう。先ほど言ったとおり、自尊心の問題としては、どれほど不快でも真実を信じようとすべきです。だが人間の本性の問題としては、その信念に関する証拠を評価しようとする前に、信念を不快でないものにすると役立ちます」
この技法の背後にある原則は単純である。孫子が敵に対してそうするよう勧めるとおり、自分自身に対しても行わなければならない。自分が退くとき、苦労が少なくなるよう、退路を残す。たとえば、職を失う見込みは、それについて考えることにさえ耐えられないときには、貯金が正確にどれだけ持つかを計算し、地域の求人市場を調べ、そのほか次に何をするかを正確に計画したあとより、はるかに恐ろしく見えるかもしれない。そのとき初めて、来月予定される人員削減で、自分の職を維持できる確率を公平に評価する用意ができる。真の臆病者になり、自分の退却を詳細に計画しよう。一歩一歩を思い描こう。できれば、戦場へ初めて来る前に。
期待するのは、不快な事態を思考実験として思い描くには、それが真である可能性の高さを考えるほどの勇気を要さないことだ。だが前者を行ったあとでは、後者も行いやすくなる。
ベイズ主義は精密であることを覚えておこう。恐ろしい命題が本当にありそうにないとしても、賛成と反対のすべての証拠を厳密に公平に数え、合理的で定量的な確率へ到達することは、なお重要である。恐ろしい信念を思い描くことは、その信念がおそらく真実だと心の底では思っていると認めることを意味しない。優れた心の整理整頓の一般原則として、恐ろしい信念を思い描くことができる。「考えられない思考は、声に出す思考より強くあなたを支配する」——考えられない思考が偽りであっても、これは起きる!
退路を残す技法を正しく使うには、ある最小限の自己への誠実さが必要である。
まず少なくとも、どの思想が自分を怖がらせ、どの思想に執着しているかを、自分に認められなければならない。だがこれは、自分を怖がらせる思想を支持する証拠を公平に数えるより、はるかに容易な試練である。私自身もこの技法を使う機会があると言えば、役立つだろうか? 合理主義者も、結局、あらゆる感情を拒むわけではない。私を怖がらせるが、今なお偽りだと信じている思想がある。自分が執着していると知りながら、今なお真実だと信じている思想もある。それでも私は、退却することを計画しているからではなく、あらかじめ退却を計画することで、執着せずに問題を考えやすくなるので、退却を計画する。
だが、自己への誠実さを試す、もっと大きな試験は、不快な命題を前提として本当に受け入れ、本当ならどう対処するかを考え出すことだ。不快な思想に直面すると、最初の衝動は当然、それが絶対に真実でありえない理由をすべて考えることだ。そのため、〈最も大切な信念〉が偽り、あるいは〈最も恐れる信念〉が真実なら、世界が正確にはどうなるか、自分がどうするかを思い描こうとすれば、自分の中にある程度の心理的抵抗が見つかる。
神なしには道徳は不可能だと言う人を、全員思い浮かべよう。(そう、この話題は実際に会話へ出た。だから私は藁人形を出しているのではない。)神は存在しないと事実として信じることへの、自分の本当の反応を有神論者が思い描けたなら、いや、自分が赤ん坊を殺して回ることはないと理解できるだろう。無神論者も、神が存在しないと信じるようになった自分たちと、ほぼ同じように反応しているのだと理解できる。このことを述べるのは、強く抱く信念と反対のことを信じた場合、自分が本当にはどう反応するかを思い描くことは、相当な難題であると示すためだ。
それに、そう、人は物事を乗り越えるのだと理解することは、いつでも直観に反する。四肢麻痺になったばかりの人は、六か月後、予期していたほど悲しんではいない、など。恐ろしい信念が真実だと分かっても、自分は何らかの仕方でそれを受け入れられるだろう、と理解することも、同じほど直観に反する場合がある。四肢麻痺の人々は対処する。あなたも対処するだろう。
ジェンドリンの連祷とタルスキの連祷も参照せよ。真実であるものは、すでにそうである。それを認めても、悪くはならない。恐れる世界を、ただ思い描くことを怖がるべきではない。その世界がすでに現実なら、思い描いても悪くはならない。現実でないなら、思い描いても害はない。そして思い描くとき、想像している恐ろしいことが本当に真実なら——真実でないかもしれない!——確かに自分はそれを信じたいはずであり、そのことも思い描くべきだと覚えておこう。信じなくても助けにはならない。
神が存在せず、自分自身が無神論者になった仮想世界を正確に思い描けたなら、何人の宗教者が神への信仰を保つだろう?
退路を残すことは強力な技法だが、簡単ではない。誠実な想像は、神は存在しないと率直に認めるほどの努力を要さないが、それでも努力は要する。