非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

説明することと、説明して消し去ること

Explaining vs. Explaining Away

❦

ジョン・キーツの『ラミア』(1819年)1には、「もっとも有名ないらだたしい詩」の賞でも贈るべきだろう。

……冷たい哲学がほんの少し触れただけで、
あらゆる魅惑は逃げ去ってしまうのではないか?
かつて天には、畏れを抱かせる虹があった。
今やその横糸も、その織り目もわかり、虹は
ありふれた物事の退屈な目録に収められた。
哲学は天使の翼を切り落とし、
定規と線であらゆる謎を征服し、
精霊の漂う空からも、ノームのすむ鉱山からも住人を払い、
虹をほどいてしまう……。

私のいつもの返答は、「ただ現実であるものに喜びを見いだせるようにならなければ、私たちの人生は本当に空っぽになる」で終わる。これについては、後でもっと詳しく述べよう。

ここで取り上げたいのは、別の点だ。次の行だけを見てみよう。

精霊の漂う空からも、ノームのすむ鉱山からも住人を払い、
虹をほどいてしまう……。

どうやら、「冷たい哲学がほんの少し触れただけで」、つまり真実によって、次のものが破壊されたらしい。

すると、ずいぶん違う歌の一節を思い出す。

この中に一つ
ほかとは違うものがある
この中に一つ
仲間でないものがある。

空から精霊は追い払われ、鉱山からノームはいなくなった。だが、虹はまだそこにある!

「間違った問いを正す」で、私はこう書いた。

因果の鎖を一つずつさかのぼると、自分は靴下を履いているという私の信念は、私が靴下を履いているという事実によって完全に説明されるとわかる……。一方、砂漠に湖の蜃気楼が見えたとき、その見え方の正しい因果的説明には、砂漠に実際に湖があるという事実は含まれない。この場合、湖への私の信念は、単に説明されるだけでなく、説明によって根拠を失う。

虹は説明された。空の精霊や鉱山のノームは、説明によって消し去られた。

これこそ、反還元主義者が還元主義について理解していない、肝心な区別だと思う。

この区別がわかっていないことは、還元主義に対する定番の反論にも表れている。

還元主義が正しいなら、還元主義へのあなたの信念さえ、分子の運動の単なる結果にすぎない。そんなあなたの言うことに、なぜ耳を傾けるべきなのか?

ここで鍵になるのは、単なるという語だ。還元主義を受け入れると、錯視が説明されて消し去られるのと同じように、自分が還元主義を受け入れるに至った推論の過程すべてが、説明されて消し去られることになる、とほのめかす語である。

だが、認知過程がどう働くかを説明しても、それが「単なる」ものになるとは限らない! 靴下を履いているという私の信念は、靴下が反射した光子を受け取った網膜から送られてきた神経信号を、視覚野が再構成した、その単なる結果だ……。つまり、科学的還元主義によれば、靴下を履いているという私の信念は、私が靴下を履いているという事実の、単なる結果なのである。

反還元主義者が、虹や還元主義への信念を、精霊やノームと同じカテゴリーに入れるとき、その心の中で何が起きているのだろう。

いくつかのことが同時に起きている。だが今は、以前の論考で紹介した基本的な考え、多層の地図と単層の土地のあいだで起きる心の投影の誤謬に注目しよう。

(つまり、ボーイング747をクォーク一つひとつの水準でモデル化するのは不可能なので、翼や気流などを明示的に心の中で表現した、多層の地図を使わなければならない。だからといって、土地が多層だということにはならない。私たちの知るかぎり、真の物理法則が対象にするのは、素粒子の場だけだ。)

物理学者が「基礎的な実体としての虹は存在しない」と言うと、反還元主義者には「虹は存在しない」と聞こえるのだと思う。

多層の地図と単層の土地を区別しないと、虹は物理学の基礎的な実体ではないと誰かに説明されたとき、それを受け入れることは、多層の地図から虹を消すことのように感じられる。そしてそれは、世界から虹を消すことのように感じられるのだ。

科学が「トラは素粒子ではなく、クォークからできている」と言うと、反還元主義者には、「あなたのガレージでドラゴンを探したが、ただの空気しかなかった」と同じ種類の否定に聞こえる。

科学者が虹にしたことと、科学者がノームにしたことは、キーツには同じように感じられたらしい……。

この補助的な主張を裏づけるため、私はキーツの詩について論じる際、心の投影の誤謬を含む表現をわざと何度か使った。もし気づかなかったなら、こうした誤謬は見過ごされるほど当たり前になっている、ということだろう。

たとえば、

空から精霊は追い払われ、鉱山からノームはいなくなった。だが、虹はまだそこにある!

実際には、科学は空気のモデルから、精霊への信念を取り除いたのだ。鉱山の地図から、ノームの表象を取り除いたのである。キーツの詩が描くように、本物の天使の翼を取り、真実の冷たい一触れで破壊したわけではない。現実には、空の精霊も鉱山のノームも、初めからいなかったのだ。

別の例を挙げよう。

科学者が虹にしたことと、科学者がノームにしたことは、キーツには同じように感じられたらしい。

科学者は、ノームに何かをしたわけではない。「ノーム」に何かをしただけだ。引用された表現は、それが指すものとは違う。

だが、心の投影の誤謬を犯すと——特に意識しなければ、自分の信念はただ世界がそのようにあることとして感じられる——時刻T = 0には鉱山にノームがいる(ように見える)。時刻T = 1に科学者が踊りながら現れ、時刻T = 2には鉱山は空っぽだ(と見える)。明らかに、前にはノームがいたのに、科学者が殺したのだ。

悪い科学者め! ノーム殺しに贈る詩などないぞ!

まあ、ノームに愛着を抱いてから、科学者にノームなどいないと言われたら、そう感じるだろう。そのとき、「真実によって壊せるものは壊されるべきだ」「科学者はノームを奪ったのではなく、私の妄想を取り除いただけだ」「そもそもノームへの信念を抱く正当な権利など、私にはなかった。正当に所有していたものを何か奪われたわけではない」「ノームがいるなら、いると信じたい。いないなら、いないと信じたい。望まないかもしれない信念に執着しないでいよう」など、合理主義者がそうした場面で言うべきことを口にするには、強い心、深い誠実さ、そして意識的な努力が必要だ。

だが、虹については、そこまでする必要さえない。虹はまだそこにあるのだから!

John Keats, “Lamia,” The Poetical Works of John Keats (London: Macmillan) (1884). ↩︎