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最近、コメントを寄せた何人かが、自分が絶えず途方もない数の別人へと分かれていくという考えに、不安を表している。だが、それは量子力学の素直で避けられない予測なのだ。
また、多世界が計画を立てるうえで何を意味するのか、よくわからないと打ち明けた人もいる。この世界でシートベルトを締めると決めたら、別の自分がシートベルトを外す確率が上がるのか? 別の自分を犠牲にして、自分勝手に振る舞っているのか?
イーガンの法則を思い出せばよい。すべてを合わせれば、いつもの世界になる。
(グレッグ・イーガン『宇宙消失』より。1)
フランク・サロウェイはこう述べている。2
皮肉にも精神分析がダーウィニズムより有利なのは、まさにその予測が突飛で、説明が直感に反しているために、私たちが本当なのか? なんと革新的なのだろう!と思うからです。フロイトの考えはとても興味をそそるので、人はお金を払う気になります。一方、ダーウィニズムの大きな不利の一つは、もう知っているように感じることです。ある意味では、実際に知っているからです。
アインシュタインがニュートン版の重力を覆したとき、リンゴは落ちなくなったわけではなく、惑星が進路を変えて太陽へ飛び込んだわけでもない。新しい物理理論はどれも、置き換えた古い理論の当たっていた予測を取り込まなければならない。空は緑ではなく青いと予測するべきなのだ。
だから、多世界は奇妙で過激でわくわくする予測をするためにあるのだと思わないでほしい。すべてを合わせれば、いつもの世界になる。
それなら、なぜ気にする必要があるのか?
かつて、合理主義者にはたまらなく魅力的な問いが発せられたからだ。何を合わせると、いつもの世界になるのか?
この問いへの答えは、量子力学だとわかる。いつもの世界を作り上げるのは、量子力学なのだ。
量子力学の代わりに別の何かがあったら、そのときこそ世界は奇妙で異常に見えるだろう。
多世界という奇妙な新しい宇宙でどう生きればよいか迷うときには、このことを覚えておこう。あなたは、ずっとそこにいた。
人類学者によれば、宗教は通常、最小限の反直感性と呼ばれる性質を持つ。記憶に残る程度には意外だが、覚えるのが難しいほど奇妙ではない。アヌビスは犬の頭を持つため印象に残るが、それ以外の体は人間のものだ。霊は壁の向こうを見通せる。だが、それでも腹は減る。
しかし物理学は、記憶に残るのにちょうどよいだけ驚かせるよう作られた宗教ではない。根底の現象はあまりにも直感に反するので、人間がつかむには長い勉強が要る。だが、表面の現象は完全に普通だ。目の端に別の世界がちらりと見えることなど、決してない。別の自分の声が聞こえることなど、決してない。それは法則によって、はっきりと禁じられている。悪いが、それは単に統合失調症だ。
決断をする行為は、世界を分岐させる過程と特別な相互作用を持たない。あなたの心の中、想像の中では、決断は、世界が二つの方向へ進みうる分岐点のように見える。だが、世界が一つしかなくても、同じ不確かさを感じ、同じ選択肢を思い描くだろう。量子力学以前の何世紀もの間、人々は世界が一つだと考えていた。それでも、自分の決断から生じうる別の結果を思い描いていた。
決断とデコヒーレンスは、まったく独立した概念だ。脳が一度もデコヒーレンスを起こさなかったとしても、その一つの認知過程は、異なる選択とそれぞれの結果を想像しなければならない。そして、何の決断もしない石も、ほかのすべてと同じ量子力学の法則に従い、一か所に横たわったまま、猛烈に分岐している。
とりわけ決断したときに分岐するわけではない。息を吸うときに、とりわけ分岐するわけではないのと同じだ。選択とは無関係なデコヒーレンスの結果として、ただ、いつも分岐しているのだ。
世界の集まりがあり、その一つ一つで、すべてを合わせればいつもの世界になる。リンゴは落ち続ける。どの世界でも、人々は自分にとって最善に見える道を選ぶ。違う考え筋をたどり、新しい含意に気づいたり別の含意を見落としたりして、違う選択に至ることはあるかもしれない。だが、各選択肢を一つの世界が一つずつ選ぶということではない。ある版の自分が最善に見えるものを選び、別の版が最悪に見えるものを選ぶということでもない。どの世界でも、リンゴは落ち続け、人々はよさそうに思えることをし続ける。
もちろん、この規則の例外をほじくり出すことはできる。だが、それは普通の例外だ。どの世界でも、すべてを合わせればいつもの世界になる。
「どの世界に行き着くか」を選ぶことはできない。どの世界でも、人々の選択は、世界が一つだけの場合と同じように結果を決める。
ここでの選択が、どこかほかの世界に奇妙な釣り合いの作用を及ぼすことはない。デコヒーレンスした世界同士の間には、因果的な通信はない。どの世界でも、人々の選択が左右するのは、その世界の未来であって、ほかの世界ではない。
一つの世界で意思決定することを想像できるなら、多くの世界での意思決定も想像できる。それ以外は同じ規則に従いながら、世界が絶えず分かれるようにすればよい。
どの世界でも、2足す2が5にはならない。どの世界でも、宇宙船は光より速く進めない。すべての量子的な世界は、私たちの物理法則に従う。そもそも、その存在を主張しているのが、その物理法則なのだ。初めから、この世界でも、どの世界でも、異常なことは一つも起きたことがない。すべて法則に従っている。
自分ではまったく影響を及ぼせない、恐ろしい世界があるのか? もちろんだ。そして12世紀にも、自分では影響を及ぼせない恐ろしいことが起きた。だが、12世紀はあなたの責任ではない。古風な言い方をすれば、「もう起きてしまった」ことだからだ。自分の未来にない世界はすべて、「一般化された過去」の一部だと考えることを勧めたい。
自分の世界に生きよう。量子物理学を知る前は、存在しないように見える世界で生きようなどとは思わなかっただろう。あなたの意思決定も、同じいつもの世界に行き着くべきだ。通信できない量子的な世界で生きようとすべきではない。
何かが90%の確率で起こると考えても、10個の世界のうち9個で起こると考えても、意思決定理論は(ほとんど常に)同じであるべきだ。人は確率を扱うのが苦手なので、10個中9個の世界で起こると想像すると、役立つことはあるかもしれない。だが、それは普通の意思決定理論を使う助けになるだけだ。
今こそ、黙って掛け算することを学び始めるよい機会だ。「宝くじ――希望の無駄遣い」で述べたように、
人間の脳は64ビット浮動小数点演算をしない。楽しい期待の感情的な力を0.00000001倍に下げようとすると、その思考の筋自体を完全に手放さずにはいられない。
そして、「新・改良版の宝くじ」では、
金持ちになる可能性がゼロの場合とイプシロンの場合との間には、イプシロンのオーダーの差がある。疑うなら、イプシロンをグーゴルプレックス分の一にしてみればよい。
物理法則に沿って生じうるが、その確率が千兆分の一で、そこでは非常に楽しいことや非常に恐ろしいことが起きている世界を考えているとしよう……。まあ、法則に従うなら、おそらく存在するのだろう。だが、意思決定の際にその世界を適切に重みづけられるよう、報酬中枢や嫌悪中枢で放出する神経伝達物質も、千兆分の一にしようとすべきだ。それができないと思うなら……その世界を考えるのはやめよう。
そうでなければ、量子乱数を使って宝くじを買いに出かけても同じだ。その戦略なら、ごく微小な大当たりが保証されている。
あるいは、こう考えてもよい。自分の未来における頻度が一兆分の一未満の世界に、思考のエネルギーを使おうとしているのか? ならば近くのゲーム店で10面ダイスを買ってこよう。その奇妙な世界を考える前に、ダイスを振り始める。9が12回連続で出たら、そのときにその世界を考えてよい。そうでなければ、時間を無駄にしないことだ。考える時間も、賢く使うべき資源なのだから。
何回振ってもよいが、9が12回連続で出るまでは、その世界を考えてはいけない。出たら1分間考えてよい。その後は、またダイスを振るところからやり直さなければならない。
こうすると、「一兆分の一」という概念を、もっと身にしみて理解できるかもしれない。
量子物理学が日常生活に、何か奇妙で普通でない含意を持つかもしれないと考えている自分に気づいたなら、おそらく、その場で立ち止まったほうがよい。
いや、多世界が倫理にもたらす含意は、いくつかある。平均功利主義が、急にかなり魅力的に見えてくる。人をできるだけ多く生み出すことを気にする必要はない。人間の可能性の空間を探る人々は、すでに十分にいるからだ。自分が責任を持つ未来の世界で、生活の質の平均ができるだけ高くなることを望めばよい。
そして、あなた自身が知らないことなら、いつでも発見を喜ぶべきだ。知りうることがすべて、あなたの過去でも未来でもなく、あなたより前でも後でもない世界で知られているなら、あることを知る「最初の」人や「唯一の」人になると語っても、意味はない。
だが、おおむね、すべてを合わせればいつもの世界になる。多世界の理解が少しでもあやふやなのに、何か奇妙な命題を信じるか、奇妙な感情を持つか、奇妙な戦略を立てるかを考えているなら、ごく単純な助言がある。やめておこう。
量子宇宙は、あなたが突然放り込まれた奇妙な場所ではない。物事は昔から、そうだったのだ。