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私が知る最古の科学実験の記録は、皮肉にも、エリヤとバアルの祭司たちの物語である。
イスラエルの民はエホバとバアルのあいだで揺れていた。そこでエリヤは、決着をつけるため実験を行うと宣言する――当時としては、まったく斬新な発想だ! バアルの祭司たちは自分たちの雄牛を祭壇に置き、エリヤはエホバの雄牛を祭壇に置くが、どちらも自分で火をつけてはならない。実在するほうの神が、自らの生贄に天から火を降らせるのだ。バアルの祭司たちはエリヤにとっての対照群になる。同じ木の燃料、同じ雄牛、同じように祭司が祈りを捧げるが、相手は偽りの神である。次にエリヤは自分の祭壇へ水を注ぐ――実験の対称性を台なしにするが、何しろ実験科学の黎明期だった――ことで、0.05の有意水準を要求するように、立証責任を意図的に引き受ける姿勢を示す。エリヤの祭壇に火が降る。これが実験的観察である。見守っていたイスラエルの民が「主こそ神である!」と叫ぶ――査読である。
それから人々は、バアルの祭司450人をキション川へ引きずって行き、喉をかき切る。厳しいが、必要なことだ。反証された仮説は、自己防衛のための言い訳を生み出す前に、断固として、速やかに捨てなければならない。バアルの祭司たちを生かしておけば、宗教は証明も反証もできない別個の権威領域なのだと、たわごとを並べ始めるだろう。
昔の人々は、自分の宗教を実際に信じていたのであって、ただ宗教を信じるべきだと信じていたのではない。ノアの方舟を探しに出た聖書考古学者たちは、時間を無駄にしているとは思っていなかった。有名になれるかもしれないと予期していた。確証する証拠を見つけられず、代わりに反証する証拠を見つけて初めて、宗教家たちはウィリアム・バートリーがコミットメントへの退却と呼んだものを実行した。「信じているから、信じる」である。
昔は、宗教が別個の権威領域だという概念などなかった。旧約聖書は、意識の流れのような文化の投棄物である。歴史、法律、道徳的寓話、そしてもちろん、宇宙がどう働くかについてのモデルが詰まっている。旧約聖書には、宇宙の複雑さを超越的に驚嘆する話など、一節たりとも見つからない。しかし、宇宙が6日間で創造された(これはビッグバンの比喩である)とか、ウサギは反芻するとか、科学上の主張なら大量に見つかる。(これは……何の比喩だろう?)
昔なら、土地の宗教は「証明できない」と言えば火あぶりにされただろう。正統派ユダヤ教の中心的信念の一つは、神がシナイ山に現れ、雷鳴のような声で「そう、そのすべてが真実である」と語った、というものだ。ベイズ的な観点からすれば、これは超人的な力を持つ存在について、とんでもなく明瞭な証拠である。(ただし、その存在がそれ自体として神であることや、その存在が善意を持つことまでは証明しない――異星人の若者たちかもしれない。)人類史上の宗教の圧倒的多数は――きわめて最近になって発明されたものだけを除き――実際に起きていたなら完全に紛れもない証拠となる出来事を物語っている。宗教と事実問題とが直交するという考えは、近年の、厳密に西洋だけの概念である。原典の聖典を書いた人々は、その違いさえ知らなかった。
ローマ帝国は古代ギリシャ人から哲学を受け継ぎ、属州内に法と秩序を課し、官僚的な記録を保存し、宗教的寛容を実施した。ローマ帝国の時代に成立した新約聖書には、その結果として近代性の痕跡がいくらかある。神がローマの都市を(ソドムとゴモラのように)完全に消滅させたという物語を作ることはできなかった。ローマの歴史家たちが誤りを指摘するだろうし、彼らをただ石打ちにするわけにもいかなかったからだ。
対照的に、旧約聖書の物語を作った人々は、ほとんど好きなことを何でもでっち上げられた。初期のエジプト学者たちは、ヘブライ人の部族がエジプトにいた痕跡がまったくないと知り、本当に衝撃を受けた。十の災いの記録が見つかるとは予想していなかったが、何かは見つかると予想していた。結局、彼らは何かを実際に見つけた。出エジプトが起きたとされる時代、エジプトがカナンの大部分を支配していたと突き止めたのだ。これは途方もなく大きな歴史上の誤りだが、図書館がなければ、誰にも誤りを指摘されない。
ローマ帝国には図書館があった。そのため新約聖書は、旧約聖書が日常的に行ったような、大きく派手な、大規模な地政学的奇跡を主張してはいない。代わりに新約聖書は、それでも同じ証拠の枠組みに収まる、より小さな奇跡を主張する。少年が倒れ、口から泡を吹く。原因は汚れた霊である。汚れた霊なら、偽預言者からは逃げなくても、真の預言者から逃げると合理的に予想できる。イエスが汚れた霊を追い出す。ゆえにイエスは真の預言者であって、偽預言者ではない。てんかんは悪霊によって起こる(そして、てんかん発作が終われば悪霊が逃げたと証明される)という基本的前提を認めるなら、これはごく普通のベイズ的推論である。
宗教はかつて、事実や科学に関する事柄について主張しただけではない。宗教はあらゆることについて主張した。立法機関より前に、宗教が法典を定めた。歴史家や考古学者より前に、宗教が歴史を定めた。女性解放運動より前に、宗教が性道徳を定めた。憲法より前に、宗教が統治の形を記述した。そして生物分類学から星の形成まで、宗教が科学上の問いに答えた。旧約聖書が宇宙の複雑さへの驚異を語らないのは、男性の服を着た女性に死刑を定めるのに忙しかったからだ。それこそ、当時の堅固で満足のいく宗教的内容だった。宗教を純粋に倫理的なものとする近代の概念は、ほかのあらゆる領域が、より優れた制度によって引き継がれたことに由来する。倫理だけが残ったのである。
より正確には、倫理だけが残ったと人々は考えている。2500年前の文化の投棄物を取り出してみよう。時がたつにつれ、人類は途方もなく進歩し、古代の文化の投棄物の各部分は、ますます目につくほど時代遅れになる。倫理も人類の進歩と無縁ではなかった。たとえば今日では、奴隷を所有するという、聖書が認めた慣行を私たちは非難する。では、倫理なら今なお論争の余地があると、人々が考えるのはなぜか。
選挙で選ばれていないファラオを説得して奴隷を解放させるため、罪のない第一子の男児を何千人も虐殺することには、それ自体として、決して小さくない倫理上の問題がある。その奴隷たちは、論理的には国外へ瞬間移動させることもできたはずなのだ。それは、バッタの脚は4本だと言う、比較的取るに足らない科学上の誤りより、いっそう目につくべきである。それでも、地球は平らだと言えば、人々はあなたを正気でないかのように見る。だが、聖書が自分の倫理の源だと言っても、女性たちはあなたを平手打ちにしない。ほとんどの人にとって合理性の概念は、何なら許されると思っているかによって決まる。聖書の倫理を支持しても許されると思っているので、聖書の道徳上の問題を見過ごすには、対処可能な程度の自己欺瞞しか要らない。居間の中の象に気づかないことに全員が同意しており、この状態はしばらく自己維持できる。
いつの日か人類がさらに進歩し、倫理の源として聖書を支持する者が、ストロム・サーモンドの大統領選挙運動を支持したトレント・ロットと同じように扱われるようになるかもしれない。そうなれば、宗教の「真の核心」は昔から系譜学か何かだった、と言われるだろう。
宗教は証明も反証もできない別個の権威領域だという考えは、〈大嘘〉である。何度も何度も繰り返され、人々が考えもせず口にするようになった嘘だが、批判的に検討すれば、端的に偽りである。宗教が歴史上どう生じたか、あらゆる聖典が自らの信念をどう提示するか、子どもたちを説得するため何を教えるか、そして地球上の宗教者の大多数が今なお何を信じるかを、途方もなく歪めている。その厚顔無恥ぶりは称賛せざるをえず、オセアニアは昔からずっとイースタシアと戦争をしていたに比肩する。検察官が血まみれの斧をさっと取り出すと、被告は一瞬衝撃を受け、素早く考えてこう言う。「でも、単なる証拠で私の無実を反証することはできない――それは別個の権威領域なのだ!」
それで駄目なら、紙切れをつかみ、「刑務所から釈放」カードを自分で走り書きすればよい。