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(こほん)日本のフィクションの全体像には、よく繰り返される主題がある。力は、守るべきものがあることから生まれる。
西洋の物語のように、友人が脅かされるとスーパーヒーローがパワーアップする、というだけの話ではない。日本の描き方では、もっと深いところで働いている。
『X』では、善い側の者たちはそれぞれ、守りたい誰か、たった一人がいることで力を得ていると、明示される。誰なのか? それは『X』の筋書きの一部だ。「いちばん大切な人」は、いつでも思ったとおりの人とは限らない。だが、その人が殺されたり、ある種の傷つけられ方をしたりすると、守る者は力を失う。魔法の反動というより、ただ絶望のために。これは西洋のコミックのように、善玉一人につき毎週一度起きることではない。本当に退場させられること、盤上から取り除かれることに等しい。
西洋のスーパーヒーロー漫画では、善玉は放射能を浴びたクモにかまれる。そして、力の使い道、退屈せずに済む何かが必要になり、犯罪と戦うことにする。その後は、ヒーローの務めにどれほど時間を取られるか、普通の人間になって釣りにでも行けたらいいのに、と愚痴を言い続ける。
同じく、西洋の現実では、不幸な人は「人生の目的」が必要だと言われる。だから、素敵な居間のカーテンを選ぶように、自分の性格に合う利他的な活動を選べばいい。それが、素敵な居間のカーテンのように、彩りを添えて毎日を明るくするのだ。ただし、あまり高くつくものは選ばないよう気をつけるべきだ。
西洋のコミックでは、まず魔法があり、次に目的がある。驚くべき力を手に入れ、罪のない人を守ろうと決める。日本のフィクションでは、順序が逆になることが多い。
もちろん、フィクションを証拠に一般化するために、この話をしているのではない。伝えたい概念があり、それと紛らわしいほど近い西洋の類例は、私の意味するものではないのだ。
合理主義者には「合理性」より大切なものがなければならない、という考えには以前も触れた。この技には、それ自体とは別の目的が必要だ。さもなければ、無限再帰へ崩れ落ちる。だが、誤解しないでほしい。合理性だけではそれほど重要でないので、何かすることを得るため、合理主義者は素敵な利他的活動を選ぶべきだと勧めているのではない。違う。私が問うているのは、合理主義者はどこから来るのか、私たちはどうやって力を手に入れるのか、ということだ。
「合理性の十二の徳」には、こうある。
合理性についての自分の考え方は、どうすれば改善できるのか。「合理的であるのは私の義務だ」と言い聞かせることによってではない。それでは、間違った考え方を祭り上げるだけだ。あなたにとって合理性とは、大師の言葉を信じることかもしれない。その大師が「空は緑だ」と言い、あなたが見上げると青く見える。「空は青く見えるかもしれないが、合理性とは大師の言葉を信じることだ」と考えたら、間違いを発見する機会を失う。
歴史的にいえば、人類がついに権威の罠を抜け出し、そう、実際の空に注意を向け始めたのは、実験に基づく信念が、権威に基づく信念よりはるかに役立つとわかったからだ。
好奇心は人類の夜明けからあった。だが、焚き火の周りで物語を紡ぐことでも、好奇心を満たすには同じくらい役立つという問題がある。
歴史的には、科学が勝ったのは、技術という形で、より大きな実力を示したからであり、科学がもっと理にかなって聞こえたからではない。今も、訓練されていない耳には、魔法や聖典のほうが科学よりもっともらしく聞こえる。だから、信念体系のあいだには社会的な緊張が続く。科学が魔法より役立つだけでなく、そのうえ直感的にももっともらしく聞こえたなら、今ごろ完全に勝っていただろう。
ここで、こう言う人がいる。「真理より大切にすべきものがあるなどと、よく言えたものだ! 合理主義者は、単なる有用性より真理を愛すべきではないのか?」
そういう人に歴史的に何が起きたかは、ひとまず忘れよう。まさにそんな考え方の人々が、単なる正確さより真理を愛するがゆえに、聖書を守ったということは。命題として述べる道徳は見事なものだが、自由度が多すぎる。
いや、本当の論点は、合理主義者と真理との恋愛は、感情的な関係として、ただもっと複雑だということだ。
真理を、純粋に道徳的に望ましいものとしても、もっていて楽しいものとしても大切にしなければ、熟達した合理主義者にはなれない。音楽を嫌う大作曲家が、大勢いるとは思わない。
だが、合理性の好きなところの一つは、信念に予測を生み出すことを要求する規律だ。その結果、一日じゅう居間で真理に執着するよりも、真実にはるかに近づける。真に見える考えを愛しながら、いつでも窓から投げ捨てる用意もしていなければならない、その複雑さが好きなのだ。美しさより単なる有用性に価値を置くと宣言する、その見事な美的純粋ささえ好きだ。これは矛盾に近いが、厳密にはそうでない。そして、そのことにも美的な質、なんともおいしいユーモアがある。
そしてもちろん、単なる有用性への愛をどれほど公言しても、実際に、役立つ偽りを意図的に信じることになってはならない。
だから、真理を愛することと有用性を愛することの関係を、単純化しすぎないでほしい。どちらか一方ではない。複雑なのだ。そして、個々の出来事の道徳的な美しさにとって、それは必ずしも欠点ではない。
だが、道徳と美しさだけでは、「合理的」であるべきだとか、ある考え方は「美しい」と信じるだけでは、道の中心にはたどり着かない。人類を権威の穴から救い出すこともできなかっただろう。
「道徳的な気分」で、私は次のジレンマを論じた。どちらを選ぶだろうか。
- 確実に400人の命を救う。
- 90%の確率で500人を救い、10%の確率で誰も救わない。
「人の命を賭けるとは何事だ!」と、大見得を切りたくなるかもしれない。自分自身が500人の一人で、ただ誰に当たるかは知らないとしても、確実さの心地よさに頼りたくなるかもしれない。自分の命は、気持ちのよい直感より、自分にとって価値が低いことが多いからだ。
だが、その500人の中に大切な娘がいて、どの一人なのかはわからないなら、そのときは、黙って掛け算をしようという気持ちが強まるかもしれない。最初の選択では娘を救う確率が80%、二つ目なら90%だと気づくために。
そして、そう、そこにいる誰もが、誰かの息子や娘である。ならば、心配する親としてだけでなく、利他主義者としても二つ目を選ぶべきだと示唆される。
一人の命は499人より価値がある、と言いたいのではない。人が数学に頼るほど必死になるには、自分の命以上のものが懸かっていなければならない、と言いたいのだ。
選択肢1の確実さを選ぶのが「合理的」だと信じていたら? 多くの人は、「合理性」とは、確実にうまくいく方法だけを選び、不確実なものをすべて拒むことだと考える。だが願わくば、あなたは「合理性」より娘の命を大切にしているだろう。
合理主義者としての自分の徳への誇りが、助けてくれるだろうか。確実さを選ぶことが徳だと信じているなら、そうはならない。合理性について何か学べるのは、合理主義者としての誇りより、娘の命のほうが大切な場合だけだ。
その経験から合理性について何か学べるかもしれない。「合理性のせいで間違った答えになった!」ではなく、「合理性についての自分の考え方が間違っていたはずだ」と言えるほど、その技にすでに熟達しているなら。
(合理性の達人になるうえでの根本的な難しさは、学習の過程を自力で立ち上げるために、かなりの合理性がすでに必要だという点にある。)
合理的であるべきだという信念は、自分の命より重要だろうか。以前も述べたように、命を危険にさらすことは、比べればそれほど怖くない。パーティーで酒を飲んでから運転して帰る若者たちの、行動に表れた選好によれば、集団の中でただ一人の反対者になり、皆に変な目で見られるほうが、単に命を脅かされるよりはるかに怖い。群れを離れてもよいと思えるには、とてつもなく重要なものが要る。命の危険では足りない。
合理性を求める意志は、あなたの誇りより強いだろうか。その意志が、合理主義者という自己像への誇りから生じているなら、そうなれるだろうか。厳しい真実に立ち向かう人間だという自己像は役立つ。非常に役立つ。自尊心が高くて、自分にわざと嘘をついたり、証拠から目をそらしたりできないのは、役立つことだ。だがいつか、自分は合理性をまったく間違って実践してきた、と認めなければならない時が来るかもしれない。そのとき、誇り、合理主義者としての自己像が、直視することをあまりに難しくするかもしれない。
厳しく思えるときも、信じたくないときも、大師の言葉を信じることを誇ってきたなら、大師は詐欺師で、自分の高貴な自己犠牲はすべて無駄だったと認めるのは、いっそう苦いものになるだろう。
前へ進み続ける意志を、どこから得るのか。
人類全体の歴史的な旅だけでなく、私自身が合理性へ向かった道のりを振り返ると、私は、合理的であるべきだと強く信じて育った。それで、ファインマンやハインライン流の、平均以上の伝統的合理主義者にはなった。それ以上ではなかった。受けた教えを超えようとはしなかった。合理主義者としてさらに成長し始めたのは、どうしても成し遂げなければならない、とてつもなく重要なことができてからだ。命は言うまでもなく、合理主義者としての誇りよりも重要なことが。
愛している合理性の技法のどれよりも、成功に深く結びつくようになって初めて、宮本武蔵の次の言葉が身に染みる。1
長い武器でも勝てるし、短い武器でも勝てる。つまり、一の流の道とは、武器が何であれ、その大きさがどうであれ、勝つという心なのだ。
これを合理性の具体的な教えだと取り違えないでほしい。これは、どうしても成功したいという切実な必要から始まる、その道の学び方を述べている。命以上のものが懸かるまで、誰も道を極めない。快適さ以上、さらには誇り以上のものが。
趣味が必要だと感じたからといって、そんな大義を選び出せるものではない。「善い活動」を探せば、心はお決まりの紋切り型で埋めるだけだ。掛け算の仕方を学べば、本当に重要な大義を見たとき、気づけるかもしれない。
だが、もしそんな大義があるなら、そのために合理性を振るうのは、正しく、ふさわしいことだ。
合理性の美しさを、より高い大義に厳密に従わせることは、合理性の美しさの一部である。その美しさに目を向けよう。美しさそのものを味わえなければ、どんな武器でも勝てるほど、合理性を身につけることは決してない。
Musashi, Book of Five Rings. ↩︎