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哲学用語としての「ゾンビ」は、あらゆる点であなたと完全に同じ存在だとされる。行動も、発話も、脳も同一であり、すべての原子とクォークがまったく同じ位置にあり、同じ因果的な運動法則に従って動く。ただし、例外として、あなたのゾンビには意識がない。
さらに、ゾンビが「可能」であるなら(この語をめぐる戦いは今も続いている)、この「可能性」についての知識だけから、意識は物理を超えたものだと、後述する意味でア・プリオリに推論できる、と主張される。この立場の標準的名称は「随伴現象説」である。
(ゾンビに馴染みのない人のために強調しておくが、これは藁人形論法ではない。たとえば、スタンフォード哲学百科事典の「ゾンビ」の項目を参照してほしい。意識を研究する哲学者の相当な割合、おそらく過半数が、ゾンビの「可能性」を受け入れている。)
私は以前、どこかでこう読んだ。「あなたは自分の思考を語る者ではない――自分の思考を聞く者である」。ヘブライ語で、神がアダムへ吹き込んだ最上位の魂を表す語はN’Shama――「聞く者」――である。
「意識」を純粋に受動的な聴取と捉えるなら、ゾンビという考えは初め、容易に想像できるように思える。N’Shama、すなわち聞く者を欠く人のことである。
(警告。この先はデイヴィッド・チャーマーズを扱う6,600語の非常に長いエッセイである。リチャード・チャペルが、私は本物の哲学者の複雑な議論に向き合っていないと非難した「エリエザーとの議論 パートII」に対する、実演による反例と捉えてもよい。)
冷蔵庫を開けてオレンジジュースがなくなっていると、「ちぇっ、オレンジジュースを切らした」と考える。この言葉の音は、ほかの誰かがそう言うのを聞いたかのように、おそらく聴覚皮質に表象されている。(なぜそう考えるのか? 中国語の母語話者は、英語話者より長い数字列を記憶できるからである。中国語の数字はすべて一音節なので、中国語話者は約十桁を覚えられる。英語話者について有名な「七プラスマイナス二」と対照的である。聴覚皮質には、自分自身へ音を繰り返し返すループと、作業記憶の容量制限があり、それは真に音素に基づいているらしい。)
以上が正しいとしよう。仮定として、ゾンビの擁護者にも何の問題もないはずである。人間がこのようでなくても、このように構築されたAIなら十分簡単に想像できそうだ(そもそもゾンビ論証で問題になるのは想像可能性である)。外科医が誰かの聴覚皮質へ神経タップの網を載せ、内的語りを読み出すことは、原理上考えられるだけでなく、今後二十年ほどで十分可能になる。(研究者はすでに、猫の外側膝状体から信号を取り出し、識別可能な視覚入力を再構成している。)
したがって、最後の原子まであなたと物理的に同一のゾンビも、冷蔵庫を開け、「ちぇっ、オレンジジュースを切らした」という音素に対応する聴覚皮質パターンを形成する。この点には、随伴現象論者も喜んで同意するだろう。
しかし随伴現象論者によれば、ゾンビの内側には聞く者が誰もおらず、内なる聞き手が欠けている。内的語りは語られるが、聞かれない。あなたは自分の思考を語る者ではない。聞く者である。
何らかの内的語りを出力するAIを作るほうが、内なる聞き手がそれを聞くと示すより、はるかにわかりやすいように思える(と彼らは言うだろう)。
ゾンビ論証は、ゾンビ世界が可能なら――この宇宙で物理的に可能である必要はなく、単に「理論上可能」「想像可能」など、その種の意味で可能なら――意識は物理を超えたもの、単なる原子に加えて存在するものでなければならない、とする。なぜか? 宇宙にある全原子の位置を何らかの方法で知っていても、人には意識があること、すなわち内なる聞き手を持つこと、一見可能に思えるゾンビ世界に私たちはいないことを、別個の追加的事実として教えられなければならないからである。
ゾンビ主義は二元論と同じではない。デカルトは、身体実体と、まったく異なる種類の精神実体があると考えた。しかしデカルトは、精神実体が、身体実体と相互作用し、私たちの発話と行動を制御する、因果的に能動的な原理だとも考えた。人間から精神実体を差し引けば、よろめき、うめく種類の従来型ゾンビが残るだろう。
そして、最も内奥の魂を表すヘブライ語がN’Shama、すなわち聞くものであっても、ゾンビの可能性を主張するラビの話を聞いた覚えはない。神がアダムへ吹き込んだ神的な部分が実際には何もしないという考えに、大半のラビはおそらく愕然とするだろう。
意識は存在するが物理世界には影響を与えない、という信念の専門用語が随伴現象説である。
ゾンビ論証にはほかの要素もあるが(後で扱う)、人を最初にゾンビ主義へ誘惑するのは、受動的な聞き手という直観だと思う。とりわけ、一般聴衆をゾンビ主義へ誘惑するのがこれである。核心となる考えは単純で、把握しやすい。明かりはついているが、家には誰もいない。
哲学者が「もちろんゾンビ世界は想像できる。どのようなものか、あなたは正確にわかっている」と言うとき、受動的な聞き手という直観へ訴えている。
ゾンビ戦争における大きな戦いの一つは、ゾンビが「可能」だと言うとき、正確には何を意味するかをめぐるものである。初期のゾンビ主義哲学者(1970年代)は、ゾンビが「可能」なのは明らかだと考え、どの種類の可能性を意味するか定義しようともしなかった。
数理論理学を読んできたため、私の心へ即座に浮かぶのは論理的可能性である。{(A ⇒ B), (B ⇒ C), (C ⇒ ¬A)}のような言明の集合があるとき、複合信念が論理的に可能であるのは、それがモデルを持つ場合である。以上の単純な場合には、{A, B, C}への値の割当てで、すべての言明(A ⇒ B)、(B ⇒ C)、(C ⇒ ¬A)を真にするものを見つけることに帰着する。この場合、{A = B = C = 0}が使える。{A = 0, B = C = 1}や{A = B = 0, C = 1}も同じである。
何かが可能に思える――「概念的に可能」または「想像可能」に思える――のは、矛盾を見ることなく言明の集合を考えられる場合である。しかし一般に、矛盾を見ることや、完全で具体的なモデルを見つけることは、非常に難しい問題である! 単純なブール命題、すなわち((A or B or C) and (B or ¬C or D) and (D or ¬A or ¬C) …)という形の、三変数の選言を連言したものに限定しても、これは3-SATと呼ばれる非常に有名な問題であり、NP完全だと証明された最初期の問題の一つである。
したがって、一見してゾンビ世界に矛盾が見つからないからといって、矛盾が存在しないことにはならない。一見してリーマン予想に矛盾が見つからないのと同じである。概念的可能性(「問題が見えない」)から、完全に技術的な意味での論理的可能性までは、非常に大きな飛躍がある。容易にNP完全な飛躍になり、一階理論なら、有限の問いでさえ計算をいくらでも難しくできる。そして必要なのは、概念的可能性ではなく、ゾンビ世界の論理的可能性である。この可能性があって初めて、論理的に全知の心が宇宙の全原子の位置を知りながら、それでも内なる聞き手を持つことを、含意されない追加的な事実として教えられる必要があると仮定できる。
矛盾がまだ見えないからといって、あと三十秒で矛盾が見つからない保証にはならない。「すべての奇数は素数である。証明:3は素数、5は素数、7は素数……」
そこでゾンビ論証をもう少し長く考えよう。「意識は、第三者が検出可能な因果的影響を世界へまったく与えない」という主張への反例を思いつけるだろうか?
目を閉じ、内なる気づきへ集中すると、内的語りのなかで、次のような思考を形成し始める。「私は気づいている」「私の気づきは思考とは別である」「私は自分の思考を語る者ではなく、聞く者である」「私の意識の流れは、私の意識ではない」「外向きの行動を変えずに取り除けると想像できる、自分の一部があるように思える」
瞑想しながら、この文を声に出して言うことさえできる。原理上、超fMRIを持つ誰かなら、おそらく聴覚皮質から音素を読み取れる。しかし声に出して言えば、検証可能性と物理的帰結の領域へ入ったかどうかについて、疑いはすべて取り除かれる。
これは確かに、内的語りを書き、舌をぱたぱた動かすあなたの部分によって、内なる聞き手が聞いている現場を押さえられたように見える。
謎めいた異星人種族があなたを訪ね、謎めいた黒い箱を贈り物として置いていったところを想像してほしい。黒い箱を突ついたり、つつき回したりするが、(わかるかぎり)反応を引き出すことには一度も成功しない。黒い箱に金貨を出させたり、質問へ答えさせたりできない。そこで、黒い箱は因果的に不活性だと結論する。「すべてのXについて、黒い箱はXをしない」。黒い箱は結果ではあるが、原因ではない。随伴現象的で、因果的な力がない。心のなかで、この一般仮説がいくつかの試行事例において真かを検証すると、真であるように思える。「黒い箱は鉛を金へ変えるか? いや。黒い箱は水を沸騰させるか? いや」
しかし黒い箱を見ることはできる。光を吸収し、手に載せれば重い。これも因果の舞踏の一部である。黒い箱が因果的宇宙の完全に外側にあるなら、見ることはできない。存在を知る方法がなく、「黒い箱をありがとう」と言えない。一般規則を定式化したとき、この反例を考えなかった。その規則は「すべてのX:黒い箱はXをしない」というものだった。しかし、その反例は最初からそこにあった。
(実のところ、異星人はもう一つ黒い箱を置いていった。こちらは純粋に随伴現象的であり、居間にあることをあなたはまったく知らない。それが彼らの冗談だった。)
目を閉じ、自分が感知していることを感知できるなら――自分が気づいていることに気づき、「私は自分が気づいていることに気づいている」と考え、声に出して「私は自分が気づいていることに気づいている」と言えるなら――あなたの意識は、内的語りや動く唇へ影響を与えないわけではない。自分が見ているところを見ることができ、それは内的語りに反映され、声に出して言うことを選べば唇にも反映される。
以上の議論が「聞き手が聞いている現場を押さえられる」という、この特定の形で書かれたものは見たことがない。もっとも、以前にも言われていた可能性は十分ある。
しかし、ゾンビ世界の哲学者は、私たちの哲学者と原子一つひとつまで同一なので、意識の哲学について同一の論文を書く、というのは標準的な論点であり、ゾンビ主義哲学者も受け入れている!
この時点で、ゾンビ世界は受動的な聞き手という考えの直観的な帰結ではなくなる。
哲学者が意識について論文を書くことは、少なくとも意識が世界へ与える一つの影響であるように思える。そうでない理由を巧妙に論じることはできるが、巧妙でなければならない。
内なる気づきが消えたなら、内的語りが「私のなかには謎めいた聞き手がいる」のようなことを言わなくなるという意味で、世界は変わると直観的には考えるだろう。謎めいた聞き手がいなくなるからだ。通常、気づきを自分の気づきへ集中した直後に、内的語りが「私は自分の気づきに気づいている」と言う。このことは、最初の出来事が二度と起きなければ、二つ目も起きないだろうと示唆する。そうでない理由を巧妙に論じることはできるが、巧妙でなければならない。
意識について語ることが、意識を持つことの結果だと気づかなければ、「意識は影響を与えない」という命題的信念を形成し、初めは何の矛盾も見ないことができる。しかし、意識は影響を与えないという一般規則から、意識は、哲学者が意識について論文を書く仕方にも影響を与えないという具体的含意までのつながりを、ひとたび見れば、ゾンビ主義は直観的ではなくなり、奇妙なものを仮定する必要が生じ始める。
仮定し得る奇妙なものの一つは、ゾンビ世界の内なる神、ゾンビ・マスターである。ゾンビ哲学者を密かに支配し、意識について語らせ、書かせる神である。
ゾンビ・マスターは不可能には思えない。人間は意識について語るとき、あまり一貫して聞こえないことが多い。たとえばバーで語る人間の素人程度の基準なら、その言説を偽造するのは、それほど難しくないかもしれない。意識を論じようとする人間の素人千人分をコーパスとして取り、意識はないが洗練された、現在のモデルより優れているものの自己改変はしないAIへ入力する。そして、大半の人間と同じほど、つまりあまり大したことのない程度に、もっともらしく聞こえる「意識」についての言説を返させることもできるかもしれない。
しかし、この「意識」についての発話は自発的ではない。AIの内部で生み出されるのではない。誰かほかの人の発話を記録して模倣したものである。それは、中央AIがノンプレイヤーキャラクターの台詞を書くホロデッキにすぎない。ゾンビ世界とはそのようなものではない。
仮定により、ゾンビ世界は、住人が意識を欠くことを除けば、私たちの世界と原子一つひとつまで同一である。さらに、ゾンビ世界の原子は、私たちの世界と同じ物理法則のもとで動く。どの原子配置が意識を呼び起こすかを支配する「橋渡し法則」があるなら、ゾンビ世界にはその法則がない。しかし仮説上、その違いは実験で検出できない。クォークが右へ動くか左へ動くか、近くのクォークへ力を加えるか、つまり実験で測れるあらゆることについて、同じ物理法則が支配する。
ゾンビ世界には、ゾンビ・マスターを置く余地がない。ゾンビ・マスターはゾンビの唇を制御しなければならず、その制御は原理上、実験で検出できるからだ。ゾンビ・マスターは唇を動かすので、観察可能な帰結を持つ。ゾンビ・マスターがそう命じたため、電子が左ではなく右へ動く地点があるだろう。(ゾンビ・マスターがクォークのパターンとして、実際に世界のなかにいるなら別だが、その場合、ゾンビ世界は私たちの世界と原子一つひとつまで同一ではない。この世界にもゾンビ・マスターがいると考えるなら別だが。)
私たちの世界の哲学者が「ゾンビ世界は可能だと思う」と入力するとき、その指は順番にキーを叩く。z-o-m-b-i-eである。この打鍵からは、因果の連鎖を逆にたどれる。筋肉が収縮し、神経が発火し、運動皮質から脊髄を下って命令が送られ、さらに理解の進んでいない脳領域へ至る。そこで哲学者の内的語りが初めて「意識」について語り始めた。
そして、その哲学者のゾンビ双生児も、因果的に言えば同じ理由で、同じキーを叩く。哲学者がそのように書く理由についての説明の連鎖には、ゾンビ双生児にも存在しない原因は一つもない。ゾンビ双生児も「意識」についての内的語りを持ち、超fMRIなら聴覚皮質から読み出せる。そして、その内的語りへ至ったほかの思考や、どんな種類のほかの原因もすべて、私たちの宇宙とゾンビ世界でまったく同じである。
したがって、哲学者は意識が理由で意識について書く一方、ゾンビ双生児はゾンビ・マスターやAIチャットボットが理由で意識について書く、とは言えない。キーボードの背後にある因果の連鎖を、聴覚皮質にこだまする内的語りへ、さらに語りの原因へとさかのぼれば、私たちの世界とゾンビ世界に同じ物理的説明を見つけなければならない。
ゾンビ主義の最も手強い擁護者、デイヴィッド・チャーマーズは、次のように書いている。1
隣の宇宙にいる、私のゾンビ双生児を考えてほしい。彼はいつも意識経験について語っており、実際、それに取り憑かれているように見える。馬鹿げるほど長い時間、コンピュータの前にかがみ込み、意識の神秘について章を次々と書く。ある種の感覚的クオリアから得る喜びについて、たびたび論評し、深い緑と紫をとりわけ愛すると公言する。ゾンビ唯物論者と頻繁に議論し、彼らの立場では意識経験の実在を正当に扱えないと論じる。
それなのに、彼には意識経験がまったくない! 彼の宇宙では、唯物論者が正しく、彼が間違っている。意識経験についての主張の大半は、完全に偽である。しかし、彼がそのような主張をする理由には、物理的または機能的説明が確実にある。結局、彼の宇宙は完全に法則に支配され、そのなかの出来事は一つも奇跡ではない。したがって、彼の主張には何らかの説明がなければならない。
……私の双生児の行動を説明するものは、どれも同じく私の行動の説明になる。彼の身体内部の過程は、私の身体内部の過程によって正確に写し取られているからだ。彼の世界には意識が存在しないので、彼の主張の説明が意識の存在に依存しないのは明らかである。したがって、私の主張の説明も、意識の存在から独立している。
チャーマーズはゾンビに反対して論じているのではない。これが彼の実際の信念である!
この逆説的な状況は、喜ばしくもあり、不穏でもある。非還元主義的立場にとって明らかに致命的ではないが、少なくとも、私たちが向き合わなければならないことではある……。
これは史上最大の、あえて受け入れられた不都合な帰結として、真剣に推薦したい。そしてこれは、デイヴィッド・チャーマーズへの意地悪な賛辞である。それより劣る凡人なら、含意に気づかないか、直面するのを拒むか、そうではないとする理由を合理化しただろう。
なぜ、これほど巨大な不都合な帰結を受け入れる者がいるのか? なぜ、私たち自身の本当に意識ある哲学者とまったく同じ理由で意識について論文を書く、意識のないゾンビを仮定するのか?
私が最初に書いた直観、すなわち受動的な聞き手という直観のためではない。この直観からは、ゾンビが車を運転し、数学を行い、恋に落ちることさえ導かれるかもしれない。しかし、ゾンビが自分の受動的な聞き手について哲学論文を書くことは導かれない。
ゾンビ論証は、受動的な聞き手という直観だけに依拠しているわけではない。もしそれがゾンビ論証のすべてだったなら、この論証はもう死んでいたと思う。自分の内的語りが、聞き手が聞いている現場をしょっちゅう捉えているように思えると気づいた途端、「聞き手」を除いても何の影響もないという直観は消えるだろう。
いや、これほどの不都合な帰結を受け入れさせる力は、まったく別の直観から来る。それは、いくつ原子を足し合わせようと、いくつの質量と電荷が互いに相互作用しようと、決して必然的に、赤の神秘的な赤さという主観的感覚を生み出すことはない、という直観である。ある原子群をある位置に置くことが呼び起こすのは、赤さの感覚である、というのは私たちの物理的宇宙についての事実かもしれないと、チャーマーズは言う。だがそうだとしても、それは必然的な事実ではなく、原子の運動とは別に、それ以上のものとして説明されねばならないというのだ。
しかし、受動的な聞き手という直観なしに、第二の直観だけを考えるなら、それがなぜゾンビ主義を導くのかはわかりにくい。ひょっとすると、原子とは別で、しかも原子に加わる異なる種類の実体があるのかもしれない。因果的に受動的ではない魂、実際に何かをする魂であり、私たちが「赤の神秘的な赤さ」について書く理由の中で、本物の因果的役割を果たす魂である。魂を取り去れば……そうだ、その場で昏睡して倒れるのでないとしても、意識についての論文をそれ以上書くことは間違いなくないだろう!
これこそデカルトと、そのほか大半の古代思想家がとった立場である。魂は異なる種類のものだが、身体と相互作用する。デカルトの立場は、専門的には実体二元論と呼ばれる。思考の実体、心の実体があり、それは原子のようなものではない。しかし因果的な力を持ち、相互作用し、この宇宙に目に見える痕跡を残すのである。
ゾンビ主義者は性質二元論者である。彼らは別個の魂を信じているのではない。私たちの宇宙の物質には、物理的性質を超える追加の性質があると信じている。
「物理を超える」とは? どういう意味か? 追加の性質は存在するが、電荷や質量の性質とは違って、原子の運動には影響しない、という意味である。追加の性質は第三者によって実験的に検出できない。あなたは自分の追加の性質の内側から、自分に意識があると知っているが、外側からそれを直接検出できる科学者は決していない。
したがって、追加の性質は存在するが、因果的には作用しない。追加の性質は原子を動かさない。だから第三者には検出できないのである。
それゆえ、すべての原子が同じ場所にある、この宇宙とそっくりの宇宙で、ただし追加の性質だけが欠けており、すべてが以前と同じように進むのに、誰にも意識がない宇宙を、私たちは(とされるところでは)想像できる。
ゾンビ世界は物理的には可能でないかもしれないと、ゾンビ主義者は言う。この宇宙のあらゆる物質が追加の性質を持つ、または意識を呼び起こす橋渡し法則に従うのは、事実だからである。しかしゾンビ世界は論理的に可能である。橋渡し法則は異なっていたかもしれないからだ。
しかし、想像可能性は論理的可能性と同じではないと気づき、ゾンビ世界がそれほど直観的ですらないと気づいたなら、なぜゾンビ世界は論理的に可能だと言うのか?
なぜ、いったいなぜ、追加の性質は随伴現象的で、検出不可能だと言うのか?
このジレンマは、非常に鋭い形で提示できる。チャーマーズは、意識と呼ばれる何かが存在すると信じており、この意識は、赤の神秘的な赤さの、真の言語化できない実質を体現している。それは質量と電荷を超える性質かもしれないが、そこにあり、それこそが意識なのだ。ここまで言った上で、チャーマーズはさらに、意識の真の実体は随伴現象的で、因果的な力を持たないと指定する。しかしなぜそう言うのか?
なぜ、この意識の真の実体を差し引いても、すべての原子は同じ場所で同じことをし続けると言うのか? それが本当なら、チャーマーズが「赤の神秘的な赤さ」を語る理由には、別個の物理的説明が必要になる。すなわち、物理の外にある、赤の神秘的な赤さが存在するのと同時に、それとは完全に別の理由が物理の内部に存在し、そのためにチャーマーズは「赤の神秘的な赤さ」を語るのである。
チャーマーズも、この二つは関連しているはずだと思えると認めている。だが実際、なぜ両方が必要なのか? どちらか一方だけを選べばよいのではないか?
赤の神秘的な赤さがあると仮定したのなら、それが自分の内的語りと相互作用し、「赤の神秘的な赤さ」について語らせるのだと、そのまま言ってはなぜいけないのか?
ここではデカルトのほうが簡単なアプローチをとっているのではないか? 厳密により簡単なアプローチを?
なぜ物質外的な魂を仮定し、そのあとで魂は物理世界に影響しないと仮定し、そのあとで内的語りに意識経験のことを語らせる、神秘的で未知の物質的なプロセスを仮定するのか?
たんなる機械的原子をいくら合計しても生み出せない、意識の真の実体を仮定して、そのあと、そこまで踏み込んだのだから、哲学者に意識について語らせるなど、この意識の真の実体に因果的効果を持たせてはなぜいけないのか?
私はデカルトの見方を支持しているのではない。だが少なくとも、デカルトがどこからそう考えたかは理解できる。意識は神秘的に思える。だから、神秘的な意識の実体を仮定する。それはわかる。
しかしゾンビ主義者は今度は、この神秘的な実体が何もしないと仮定する。だから、自分に意識があるとあなたが言う理由には、まったく新しい説明が必要になる。
それは生気論ではない。生気論者ですらコーヒーを吹き出すほど異様な主張である。「火が燃えると、フロギストンを放出する。しかしフロギストンは私たちの宇宙に実験で検出できる影響を何も与えないから、火が雪を溶かせる理由には別個の説明を探さなければならない」。何だって?
性質二元論者は、観察可能なものに因果的影響を与える新しい能動的な力を仮定すれば、度を越して思い切った主張をすることになる、と思い込んでいるのだろうか?
私に言わせれば、位置と速度を超えて、神秘的で、独立した、追加の、本質的に心的な意識の性質を仮定したなら、その時点で、あなたはすでに可能な限り首を突っ込んでいる。この意識の実体を仮定し、そのうえでそれが何もしないとさらに仮定するとは——可愛い子猫たちに免じて教えてほしい、なぜなのか?
わかりやすいキャリア上の動機さえない。「こんにちは、私は意識の哲学者です。私の研究対象は宇宙で最も重要なもので、研究費をたくさんもらうべきですか? そう言ってくれるのはありがたいのですが、実は私が研究している現象は、どんなこともまったくしません」。(キャリアへの影響からの論証は妥当ではないが、私がこれを言うのは退路を残すためである。)
チャーマーズは、意識を説明できそうな新しい物理理論や、物質と相互作用する新しい実体がいったいどのようなものか、想像しにくいことを理由に、実体二元論を批判する。だが、性質二元論にはまったく同じ問題がある。どのような二元的性質を語ろうと、それがいったいどう意識を説明するのか?
チャーマーズが意識そのものである追加の性質を仮定したとき、彼はその説明不能の隔たりを飛び越える跳躍を実際にした。その追加の性質が何も影響しないとさらに指定することが、どう彼の理論を助けるのか? それに因果的役割をそのまま持たせればよいではないか?
意地悪くなろうと思うなら、ここはドラゴンを持ち出す場面だ。カール・セーガンの寓話、ガレージのドラゴンの話である。「私のガレージにドラゴンがいる」。すごい! 見せてほしい、行こう! 「見ることはできない——透明なドラゴンだから」。それなら音を聞きたい。「残念だけど、音を出さないドラゴンなんだ」。その二酸化炭素排出量を測りたい。「呼吸をしないんだ」。小麦粉の袋を空中に投げて、輪郭を浮かび上がらせよう。「ドラゴンは小麦粉を透過するんだ」。
理論を反証不可能にしようとする動機の一つは、心の奥底でそれを検証にかけることを恐れていることだ。ロジャー・ペンローズ卿(物理学者)とスチュアート・ハメロフ(神経学者)は実体二元論者である。彼らは、量子の世界で何か神秘的なことが起こっており、エヴェレットは間違っていて、「波動関数の収縮」は物理的に実在し、ここに意識が宿り、「我思う、ゆえに我あり」と口に出すときの唇に因果的影響を及ぼす、と考える。その信念に基づき、彼らは、ニューロンは巨視的な量子状態を維持できるほど長く、デコヒーレンスから自己を守ると予測した。
これは検証中であり、現時点までの見通しは、ペンローズにとって良くない——
——しかし、ペンローズの基本的な行動は科学的に尊敬に値する。ベイズ的ではないかもしれないが、それでも根本的に健全である。彼は奇抜な仮説を思いついた。検証法を述べた。そして実際に出かけて検証しようとした。
私がかつてスチュアート・ハメロフに言ったように、「あなたが検証している仮説は完全に望み薄だと思うし、あなたの実験には絶対に資金が与えられるべきだ。探しているものそのものが見つからなくても、ほかの誰も探していない場所をあなたは探しており、何か面白いものを見つけるかもしれない」。
したがって、随伴現象説を意地悪く切り捨てるなら、ゾンビ主義者は意識の実体が効果を持つと言うのを恐れていると言える。そう言えば、科学者が追加の性質を探しにかかり、見つけられずに終わるからだ。
しかし、チャーマーズについて実際にそうだとは思わない。チャーマーズに自分自身への誠実さが欠けていたなら、彼は自分の立場をはるかに楽にできただろう。
(だが念のため、チャーマーズがこれを読んでいて、本当に反証への恐れを抱いているとしたら、こう指摘しておこう。随伴現象説が偽なら、私たちが意識と呼ぶものには、それ以外の何らかの説明が存在し、やがてそれが見つかって、チャーマーズの理論は崩壊する。したがって、チャーマーズが歴史に残る自分の評価を気にかけるなら、随伴現象説が本当に真だと思っているのでない限り、それを支持する動機は何もない。)
チャーマーズは、私が知る哲学者のなかでもとりわけ歯がゆい人物である。時々、彼は「無神論を克服した」ふりをしているのではないかと思う。チャーマーズは実に鋭い分析をする……そして最後の最後で左へ曲がる。ゾンビ世界のシナリオのあらゆる問題を詳しく述べ、論証全体を微塵にまで粉砕したあと、それを平然と受け入れるのである。
チャーマーズは、意識に関する私たち自身の信念は正当化されていると言うことの問題を、落ち着いて詳しく述べるときにも同じことをする。私たちのゾンビ双生児は、まったく同じ理由からまったく同じことを言うのに、間違っているからだ。
チャーマーズの理論では、チャーマーズが意識を信じると言うことは、因果的に正当化できない。その信念は事実そのものによって引き起こされてはいないからだ。意識が存在しなくても、チャーマーズは同じ理由から同じ論文を書くだろう。
随伴現象説では、チャーマーズが意識を信じると言うことは、真の信念を系統的に出力するプロセスの産物として正当化することもできない。ゾンビ双生児は同じ系統的プロセスを使って同じ論文を書くのに、間違っているからである。
チャーマーズもこれを認めている。実際、彼は著書でこの論証を非常に詳しく説明している。では、チャーマーズは、随伴現象的な意識を自分が信じることは正当化されないと、揺るぎなく証明したわけだ。そうだろう? いや。チャーマーズはこう書く。
意識経験は私たちの認識論的宇宙の中心に位置し、私たちはそれに直接アクセスできる。ここから問いが生じる。経験への因果的な連結も、信念が形成される機構も、経験についての私たちの信念を正当化しないなら、何が正当化するのか? 答えは明白だと私は思う。経験を持つことが信念を正当化するのだ。例えば、私が今、赤の経験を持っているという事実そのものが、私は赤の経験をしているという信念を正当化する……
私のゾンビ双生児には経験がないため、彼は私とは大きく異なる認識論的状況にあり、彼の判断には対応する正当化が欠けている。私の信念が物理的領域にあるなら、その正当化も物理的領域にあるはずだ、と異議を唱えたくなるかもしれない。しかしそれは非論理的帰結である。物理的領域に正当化がないという事実から、私の物理的な部分(たとえば私の脳)はその信念を正当化されていないと結論することはできる。だが問題は、私がその信念を正当化されているかどうかであって、私の脳がそうであるかどうかではない。性質二元論が正しければ、私には脳以上のものがある。
つまり——この主張を私が正しく理解しているなら——脳を超えたところに中核となる「あなた」がいて、それは自分がゾンビではないと信じ、ゾンビでないことを直接経験する。したがって、その信念は正当化されている。
しかしチャーマーズは、そうしたことをすべて書き留めた。しかも、自分のごく物理的な本に。ゾンビ・チャーマーズも同じである。
ゾンビ・チャーマーズがその本を書いたのは、脳を超えたゾンビの中核的自己が理由ではありえない。物理法則の内部に、それとは完全に別の理由が必要である。
したがって、チャーマーズのどこかに、意識があり、意識を直接かつ無媒介に信じる部分が存在するとしても、チャーマーズには分離可能な部分空間もある。それは物理の内部だけで完全に作動する、因果的に閉じた認知サブシステムである。そしてこの「外側の自己」が、チャーマーズの内的語りを話し、意識についての論文を書くのである。
チャーマーズ自身の理論では、この分離可能な外側のチャーマーズは錯乱しているという批判を、いったいどう退けられるのか、私にはわからない。この部分は、この世界でもゾンビ世界でも同じであり、どちらの世界でも、妥当な理由が一つもないまま意識についての哲学論文を書く。チャーマーズの哲学論文は、その内側にある認識と、その認識への信念という中核から出力されてはいない。チャーマーズの指にコンピュータのキーを打たせる、内的語りのたんなる物理がそれを出力するのである。
それなのに、この錯乱した外側のチャーマーズが書く哲学論文はまたしても偶然完全に正しい。それは別の、追加の奇跡によって正しいのである。論理的に必然な奇跡ではない(そうなら、ゾンビ世界は論理的に可能ではない)。それは物理的に偶然の奇跡であり、科学が私たちの宇宙とゾンビ世界を決して区別できないにもかかわらず、私たちがこの宇宙だと思っているものの中で、たまたま真である。
すくなくとも、自ら錯乱していると告白する外側のチャーマーズが私たちに言っていることからは、そう思える。
ここは、はあ?というすべての還元主義者の声を私が代弁していると思う。
これは周転円などという次元ではない。こうである。「惑星の運動はこれらの周転円に従う——しかし周転円は実際には何もしない——私には説明できていない、惑星を周転円の言うとおりに動かす別の何かがある——それからついでに言えば、周転円が存在しなくても私はこれと同じことを言うだろう」。
私は何もかもを、AIを設計するならという視点から見るため、哲学について非標準的な視座を持っている。具体的には、安定した動機付け構造を持つ、自己改善型の汎用人工知能を設計するならと考える。
AIの設計を考えるとき、私は確率論や、ベイズ的な鑑別診断としての証拠という概念、とりわけ反省的整合性のような原理を熟考する。反省的に整合していない状態から始まる自己改変AIは、そのまま長くはいない。
自己改変AIが、条件Aのもとで「B」と結論する自己の一部を見つめるとする。それは、条件Aが真であるたびに「B」をメモリに書き込む部分である。AIがこの部分を調べ、より大きな宇宙の文脈でそれが(因果的に)どう動くかを突き止め、この部分が系統的に偽のデータをメモリに書く傾向があると判断したなら、AIは明らかなバグを見つけたことになる。そしてAIは、条件Aのもとで「B」を信念プールに書かないよう自己改変するだろう。
反省的整合性を無視する認識論は、自己改善AIの構築に用いる理論として良くない。実際に哲学を何のために使うつもりかを考えれば、これは私の立場からすれば決定的な論証である。それゆえどちらにせよ、私は反省的に整合した理論を発明しなければならない。そして実際に発明してみると、おやまあ、反省的整合性は直観にもかなうことがわかる。
これが、これらのことについて私が普通とは異なる考え方をする道筋である。そして今、チャーマーズを改めて見る。
因果的に閉じた「外側のチャーマーズ」(別個の追加の認識と信念を持つ「内側のチャーマーズ」からいかなる影響も受けない)は、系統的に信頼できず、根拠のない何らかの操作を行っているはずである。それが何か未解明の方法で内的語りに「内側のチャーマーズ」についての信念を生み出させ、その信念は、たまたま私たちの宇宙で、論理的理由が一つもないのに正しいのである。
しかし、外側のチャーマーズにも、反省的に整合した自己検査型AIにも、この神秘的な正しさを信じるためのありうる根拠は一つもない。良いAI設計は、因果システムに体現された反省的に整合した知性のようなものであるべきだと私は思う。その同じ因果システムがどのように作動するかについて検証可能な理論を持ち、その作動によって系統的に正確な信念を生み出し、目標を達成するに至るものであるべきだ。
だからAIはチャーマーズをスキャンし、完全に閉じた因果的認知システムが、たわごとを口にする内的語りを生み出しているのを見るだろう。そのたわごとは、チャーマーズが誰を道徳的価値ある人と見なすべきかと考える上で、大きな影響を持っているように思える。
これは、友好的AI(Friendly AI)理論家にとって必然的な問題ではない。随伴現象論者である場合に限って問題になる。還元主義者(意識は原子の内部で起こる)か実体二元論者(意識は因果的な力を持つ非物質的実体である)のいずれかを信じるなら、意識について語る人々は実在する何かについて語っている。反省的に整合したベイズAIは、人々に「意識」と言わせる因果の連鎖をさかのぼることで、それを見てとれる。
チャーマーズによれば、チャーマーズの内的語りという因果的に閉じた認知システムは、必然的にではなく、ただ私たちの宇宙でたまたま正しくなる方法で、(神秘的に)機能不全を起こしている。さらに内的語りは、「内的語りは神秘的に機能不全を起こしているが、随伴現象的な内側の中核が持つ正当化された思考を、奇跡的にたまたま正しく反響している」と主張する。そしてまた、私たちの宇宙では奇跡的にたまたま正しい。
おい、いいかげんにしろ!
一つの考えを単に見限るべき時点が来てもいいのではないか? 加飾のない直観的な層で、ただこう言う時点が。いったい自分は何を考えていたんだ?
人類は、世界についての正しい理論がどのような姿をしているかについて、幅広い経験を蓄積してきた。これは正しい理論の姿ではない。
「信じられないという理由からの論証」だと、あなたは言う。よろしい、はっきり説明してほしいのか? このチャーマーズ的理論は、説明のない複数の複雑な奇跡を仮定する。これは確率の連言則とオッカムの剃刀によって、その事前確率を下げる。したがってこの理論は、少なくとも奇跡をより少なく仮定する次の二理論に完全に凌駕される。
- 実体二元論:
- まだ理解されていない意識の実体、すなわちこの世界に目に見える形で影響する、並外れた超物理的実体がある。そして、この実体が私たちに意識について語らせる。
- 信仰ベースとまではいかない還元主義:
- 私たちが「意識」と名づけるものは、人類がそれまで三千回神秘的なものに出くわしたときと同じように、まだ理解されていない方法で、物理の内部で起こる。
- 物質はいかなるものも意識に積み上がることがありえないというあなたの直観は、間違っている。意識について自分が語る理由を実際に、正確に知ったなら、それは今は予想できない形の新たな洞察をもたらす。そしてそのあと、通常の物理に意識の余地がないとする自分の論証は欠陥があったと気づくだろう。
次と比べてほしい。
- 随伴現象的性質二元論:
- 物質は、まだ理解されていない意識の追加性質を持つ。これらの性質は、普通に観測可能な物理に関して随伴現象的であり、粒子の運動にどんな違いも生じさせない。
- それとは別に、哲学者が意識について語り、二元的性質の理論を考案する理由として、通常の物理の内部に、まだ理解されていない理由が存在する。
- 奇跡的にも、哲学者が意識について語るとき、私たちの世界の橋渡し法則は、その意識についての語りを正しくするのに完璧に正しい。たとえそれが、哲学論文を入力する、因果的に閉じた認知システムの機能不全(論理的に根拠のない結論を導くこと)から生じているのだとしても。
ここで私が限られた経験から語っているのは承知している。だが私の限られた経験に基づけば、ゾンビ論証はあらゆる哲学のなかで最も錯乱した考えの候補かもしれない。
合理主義者である以上、自分には奇妙に思えることを信じなければならない時もある。相対性理論は奇妙に思え、量子力学は奇妙に思え、自然選択は奇妙に思える。
しかしこれらの奇妙さは、膨大な証拠で固定されている。科学が圧倒的に確認したがゆえに、奇妙な何かを信じることと——
——詳細不明の奇跡と、理解したとすら主張さえされていない巨大な空白部分を中心とした、大きく複雑な哲学的論証のために、まったく錯乱していると思える命題を信じること——
——しかも、ここまで言われたことをすべて受け入れたとしても、そのあともその現象は依然として神秘に思え、最初と同じ、驚異に満ちた不可解さを依然として持っているような場合に、その命題を信じることとの間には、違いがある。
この時点で合理主義者が言うべき正しいことは、デイヴィッド・チャーマーズの論証が一つひとつ、すべてもっともらしく思えるなら——私にはそう思えないが——次のようなものである。
「よし……意識がどう機能するのか、私にはわからない……それは認める……それに、もしかすると私は問題全体への取り組み方を間違えているか、間違った問いを立てている……しかし、このゾンビ話が正しいなど絶対にありえない。この論証は、これを私が信じるほどにはまだ固められていない——とりわけ、受け入れても混乱がまったく減らないのだから。核心の、直観的なレベルで、これは現実が機能する姿には見えない。少なくとも、現実が本当の本当に機能する姿には」。
注意してほしい。これがチャーマーズの主張の慎重で分析的な反証の代わりになると、私は言っているのではない。システム1はシステム2の代わりにはならないが、進むべき道を指し示す助けにはなる。問題が具体的にどこにあるのかは、それでも突き止めねばならない。
チャーマーズは大部の著書を書いたが、そのすべてをGoogleの無料プレビューで読めるわけではない。チャーマーズが自分自身に対する論証を落ち着いて詳しく展開する、長い論証の連鎖を私はここで再現していない。私がしようとしたのは、チャーマーズが最後に提示した擁護に対する最終的反証——私の知る限り、チャーマーズがまだ再反論していないもの——を付け加えることだけである。いわば、ボールを彼のコートに打ち返したのだ。
しかしそう、核心のレベルで言えば、ゾンビ論証の結論を見たときにすべき正気の反応は、「こんなことが正しいなど絶対にありえない」と言って、欠陥を探し始めることである。
Chalmers, The Conscious Mind. ↩︎