非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

ゾンビ! ゾンビ?

Zombies! Zombies?

❦

哲学でいう、あなたの「ゾンビ」とは、あらゆる点であなたと同じ存在だとされる。行動も、発言も、脳も同一で、すべての原子とクォークがまったく同じ位置にあり、同じ因果的な運動法則に従って動く。ただし、そのゾンビには意識がない。

さらに、ゾンビが「可能」なら――この言葉の意味をめぐる戦いは今も続いている――その「可能性」を知るだけで、意識が、後で述べる意味で物理を超えたものであると、アプリオリに演繹できると主張される。この立場の標準的な呼び名は「随伴現象説」だ。

(ゾンビに馴染みのない人のため、これは藁人形論法ではないと強調しておく。たとえば、スタンフォード哲学百科事典のゾンビの項目を見てほしい。意識を研究する哲学者の相当な割合、おそらく多数派が、ゾンビの「可能性」を認めている。)

以前、どこかでこう読んだ。「あなたは、自分の思考を語る者ではない。思考を聞く者だ」。ヘブライ語で、神がアダムに吹き込んだ最高の魂を表す言葉はN’Shama、すなわち「聞く者」である。

「意識」を純粋に受動的な聞く行為として捉えると、最初はゾンビも簡単に想像できそうに思える。N’Shama、聞く者を欠いた人間なのだ。

(注意:この先は、デイヴィッド・チャーマーズが登場する、6600語の非常に長いエッセイである。私が本物の哲学者の複雑な議論に向き合っていないと批判した、リチャード・チャペルの「エリエザーとの議論、その2」への、実演による反例と思ってもらってよい。)

冷蔵庫を開けてオレンジジュースがないと、「しまった、オレンジジュースを切らした」と考える。この言葉の音は、おそらく、他人の発言を聞いたときのように、聴覚皮質に表象される。(なぜそう思うのか。中国語の母語話者は、英語話者より長い数字列を覚えられるからだ。中国語の数字はすべて一音節で、英語話者の有名な「7±2桁」に対し、十桁ほど覚えられる。自分に音を繰り返し聞かせるループ、聴覚皮質の作業記憶の容量制限があるらしく、それは本当に音素に基づいている。)

これが正しいと仮定しよう。ゾンビの擁護者にとって、この仮定に問題はないはずだ。人間がそうでなくても、このように作られたAIは簡単に想像できる。そしてゾンビ論で問題なのは、想像可能性である。手術で誰かの聴覚皮質に神経活動を読み出す網をかぶせ、内的な語りを読み取ることは、原理上考えられるだけでなく、今後数十年で十分可能だろう。(研究者はすでに、猫の外側膝状体の活動を読み取り、識別可能な視覚入力を再構成している。)

だから、最後の原子まであなたと物理的に同一のゾンビも、冷蔵庫を開け、「しまった、オレンジジュースを切らした」という音素の聴覚皮質パターンを作る。ここには随伴現象説の支持者も、喜んで同意するだろう。

だが、随伴現象論者は言う。ゾンビの中には、それを聞く者がいない。内なる聞き手が欠けている。内的な語りは語られるが、聞かれない。あなたは、自分の思考を語る者ではない。それを聞く者なのだ。

何らかの内的な語りを出力するAIを作るほうが、その内なる聞き手が聞いていると示すより、ずっとわかりやすい、と彼らは言うだろう。

ゾンビ論とは、ゾンビ世界が可能なら――私たちの宇宙で物理的に可能である必要はなく、ただ「理論上可能」「想像できる」などでよい――意識は物理を超え、単なる原子以上のものであるはずだ、という議論だ。なぜか。たとえ宇宙のすべての原子の位置を知ったとしても、人には意識がある、内なる聞き手がいる、私たちは、一見可能なゾンビ世界にはいない、と、別の追加の事実として教えられなければならないからだ。

ゾンビ論は二元論と同じではない。デカルトは身体の実体と、それとはまったく別種の心の実体があると考えた。しかし、心の実体は身体と相互作用し、発言や行動を制御する、因果的に働く原理だとも考えた。人から心の実体を差し引けば、よろめき、うめく昔ながらのゾンビが残るだろう。

最も内なる魂を表すヘブライ語が、聞くもの、N’Shamaだとしても、ゾンビは可能だと論じるラビを聞いた覚えはない。神がアダムに吹き込んだ神聖な部分が実際には何もしないという考えには、大半のラビはぞっとするだろう。

意識は存在するが、物理世界には何の効果も及ぼさないという信念の専門用語が、随伴現象説である。

ゾンビ論にはほかの要素もある。後で扱う。しかし、人を最初に引き込むのは、この受動的な聞き手の直観だと思う。とりわけ一般の人々を引き込むのは、それだ。核心の考えは単純でわかりやすい。明かりはついているが、家には誰もいない。

「もちろんゾンビ世界は想像できる。どんな世界か、よくわかるでしょう」と言う哲学者は、この受動的な聞き手の直観に訴えている。

ゾンビ戦争の大きな争点の一つは、ゾンビが「可能」とは、正確にはどういう意味なのか、ということだ。初期のゾンビ論者、1970年代の哲学者たちは、可能なのは明らかだと思い、どの種類の可能性かは定義しなかった。

数理論理学を読んできた私が、すぐ思い浮かべるのは論理的可能性だ。{(A ⇒ B), (B ⇒ C), (C ⇒ ¬A)}のような文の集まりがあるなら、それらを合わせた信念は、モデルがあれば論理的に可能だ。上の単純な例なら、{A, B, C}に値を割り当て、(A ⇒ B)、(B ⇒ C)、(C ⇒ ¬A)をすべて真にすることに帰着する。この場合、{A = B = C = 0}でよいし、{A = 0, B = C = 1}や、{A = B = 0, C = 1}でもよい。

文の集まりを考えても矛盾が見えないなら、それは可能に思える。「概念的に可能」「想像できる」と思える。しかし一般に、矛盾を見抜くことも、完全で具体的なモデルを見つけることも、非常に難しい! ((AまたはBまたはC)かつ(Bまたは¬CまたはD)かつ(Dまたは¬Aまたは¬C) …)のような、三変数の選言を連言で結んだ単純なブール命題に限っても、これは3-SATという非常に有名な問題であり、NP完全だと証明された最初期の問題の一つだ。

だから、一見ゾンビ世界に矛盾が見えないだけでは、矛盾がないことにはならない。リーマン予想に、一見矛盾が見えないのと同じだ。概念的な可能性、「問題が見えない」から、厳密な専門的意味での論理的可能性までは、大きな飛躍がある。その飛躍は簡単にNP完全になるし、一階の理論では、有限の問いについてさえ、計算をいくらでも難しくできる。論理的に全知の心が宇宙の全原子の位置を知っていても、内なる聞き手がいると、そこからは導けない追加の事実として教えられる必要がある、と言うために必要なのは、ゾンビ世界の概念的な可能性ではなく、論理的な可能性なのだ。

まだ矛盾が見えないからといって、30秒後にも見えない保証はない。「奇数はすべて素数である。証明。3は素数、5は素数、7は素数……」。

そこで、ゾンビ論をもう少し長く考えてみよう。「意識は、第三者に検出できる因果的な影響を世界に一切及ぼさない」という主張の反例は、思いつかないだろうか。

目を閉じ、内なる気づきに集中すると、内的な語りに、次のような思考が生まれる。「私は気づいている」「私の気づきは思考とは別だ」「私は思考を語る者ではなく、それを聞く者だ」「意識の流れは意識そのものではない」「外から見える行動を変えずに消せると想像できる部分が、自分にはあるようだ」。

瞑想しながら、この文を声に出すことさえできる。原理上、超高性能のfMRIがあれば、聴覚皮質から音素を読み取れるだろう。しかし声に出せば、検証可能性と物理的な結果の領域へ入ったかどうかに、疑いの余地はなくなる。

これは、内的な語りを書き、舌を動かす自分のどこかの部分によって、内なる聞き手が聞いている現場を押さえられたように、確かに見える。

謎の異星人がやって来て、謎の黒い箱を贈っていったと想像しよう。突いたりつついたりしても、わかる限り、反応は一度も引き出せない。金貨を出させることも、質問に答えさせることもできない。そこで、箱は因果的に働かないと結論する。「すべてのXについて、黒い箱はXをしない」。箱は結果ではあるが原因ではなく、随伴現象的で、因果的な力がない。頭の中で、いくつかの場合を試してこの一般仮説を確かめると、真に思える。「鉛を金にするか? しない。水を沸かすか? しない」。

しかし、黒い箱は見える。光を吸収し、手には重みを感じる。これも因果の舞の一部だ。箱が因果的な宇宙の完全に外にあるなら、見ることも、存在を知ることもできず、「箱をありがとう」と言うこともできない。「すべてのXについて、箱はXをしない」という一般則を作ったとき、その反例を思いつかなかった。だが反例は、最初からそこにあった。

(実は異星人は、もう一つ黒い箱を置いていった。そちらは純粋に随伴現象的で、あなたは居間にそれがあるとは夢にも思わない。それが彼らの冗談だった。)

目を閉じ、自分が感じているのを感じられるなら――自分が気づいていることに気づき、「私は、自分が気づいていることに気づいている」と考え、それを声に出せるなら――意識は、内的な語りや動く唇に何の影響も持たないわけではない。自分が見ているのを見ることができ、内的な語りもそれを反映する。声に出そうと思えば、唇もそうする。

この議論が「聞き手が、聞いている現場を押さえられる」という形で書かれたのは、見たことがない。もちろん、すでに言われているかもしれないが。

しかし、ゾンビ世界の哲学者も、こちらの哲学者と一原子ずつ同一である以上、意識の哲学について同じ論文を書く、というのは標準的な指摘であり、ゾンビ論者自身も認めている。

ここで、ゾンビ世界は、受動的な聞き手という考えから直観的に導かれるものではなくなる。

哲学者が意識について論文を書くことは、意識が世界に及ぼす効果の少なくとも一つに思える。そうではないという巧妙な理由を論じることはできるが、巧妙さが要る。

直観的には、内なる気づきが消えたら、世界は変わるはずだと思うだろう。内的な語りが「自分の中には謎の聞き手がいる」と言わなくなる。聞き手はいなくなったのだから。たいてい、自分の気づきへ意識を向けた直後に、内的な語りは「私は自分の気づきに気づいている」と言う。ならば、最初の出来事が二度と起きなければ、次の出来事も起きないだろうと思える。そうではないという巧妙な理由を論じることはできるが、巧妙さが要る。

意識について語ることが、意識あることの効果だと気づかなければ、「意識には効果がない」という命題的信念を持ち、最初は矛盾が見えないこともある。しかし、意識には効果がないという一般則と、哲学者が意識の論文を書く仕方にも効果がないという具体的な帰結のつながりが見えると、ゾンビ論は直観的ではなくなり、奇妙な仮定を要求し始める。

その一つは、ゾンビ世界の神、ゾンビ・マスターがいて、密かにゾンビ哲学者を操り、意識について話したり書いたりさせる、というものかもしれない。

ゾンビ・マスターは不可能には思えない。人間も意識について話すと、しばしば首尾一貫していない。たとえば酒場で話す素人の水準なら、発言をまねるのはそれほど難しくないかもしれない。意識を論じようとする素人千人の言葉を集め、今のモデルより高度だが自己改変はしない、意識のない洗練されたAIへ入力すれば、大半の人間と同じくらい筋の通った――つまり、大して筋は通っていない――「意識」の議論を出力できるかもしれない。

しかし、その「意識」についての発言は自発的ではない。AIの内部から生じたものではなく、他人の発言の記録された模倣だ。中央のAIがノンプレイヤーキャラクターの台詞を書く、ホロデッキにすぎない。ゾンビ世界の話は、そういうことではない。

仮定によれば、ゾンビ世界は、住人に意識がないこと以外、私たちの世界と一原子ずつ同一だ。さらに、原子は同じ物理法則で動く。どの原子配置が意識を生むかを定める「橋渡し法則」があるなら、そちらはない。しかし、その違いは実験で検出できないと仮定されている。クォークがどちらへ動くか、近くのクォークに力を及ぼすかなど、実験で測定できるものには、同じ物理法則が働く。

ゾンビ世界には、ゾンビ・マスターのいる余地はない。マスターはゾンビの唇を操る必要があり、その制御は原理的に実験で検出できるからだ。ゾンビ・マスターが唇を動かす以上、観測可能な結果が生じる。マスターが命じたせいで、電子があちらでなくこちらへ動く点があるはずだ。(マスターがクォークのパターンとして世界の中にいるなら別だが、その場合、ゾンビ世界は私たちの世界と一原子ずつ同一ではなくなる。この世界にもマスターがいると考えない限りは。)

私たちの世界の哲学者が「ゾンビ世界は可能だと思う」と入力すると、指は順にキーを打つ。z-o-m-b-i-e。この打鍵からは、筋肉の収縮、神経の発火、運動皮質から脊髄を下る命令へと、因果の連鎖をさかのぼれる。さらに、理解の進んでいない脳の領域、内的な語りが最初に「意識」を話題にしたところへたどれる。

その哲学者のゾンビの双子も、因果的には同じ理由で、同じキーを打つ。哲学者がそう書く理由を説明する連鎖に、ゾンビの双子にはない原因は一つもない。ゾンビにも「意識」の内的な語りがあり、超高性能のfMRIなら聴覚皮質から読み出せる。その語りを生んだ、ほかの思考や、どんな種類の原因も、私たちの宇宙とゾンビ世界でまったく同じだ。

だから、哲学者は意識ゆえに意識について書くが、ゾンビはゾンビ・マスターやAIチャットボットゆえに書く、とは言えない。キーボードの背後から、聴覚皮質に響く内的な語り、その語りの原因へと因果をたどれば、こちらの世界とゾンビ世界で同じ物理的説明が見つからなければならない。

ゾンビ論の最も手ごわい擁護者、デイヴィッド・チャーマーズは、こう書いている。1

隣の宇宙にいる、私のゾンビの双子を考えてみよう。彼はいつも意識経験を話題にする。実際、それに取りつかれているように見える。コンピュータにかがみ込み、意識の謎について章を重ねるのに、ばかばかしいほどの時間を費やす。ある感覚的クオリアから得られる喜びをよく語り、深い緑や紫を特に愛すると公言する。ゾンビの唯物論者と頻繁に言い争い、その立場では意識経験の現実を適切に扱えないと主張する。

それなのに、彼には意識経験がまったくない! 彼の宇宙では、唯物論者が正しく、彼が間違っている。意識経験についての彼の主張は、大半が完全に偽だ。だが、彼がなぜその主張をするかには、確かに物理的または機能的な説明がある。何しろ彼の宇宙は完全に法則に支配され、奇跡的な出来事はないのだから、主張には何らかの説明がなければならない。

……私の双子の行動を説明するものは何であれ、私の行動の説明にもなる。彼の身体の中の過程は、私の身体の中に正確に写されているからだ。彼の主張の説明が、意識の存在に依存しないのは明らかだ。彼の世界には意識がないのだから。したがって、私の主張の説明も、意識の存在とは独立だということになる。

チャーマーズはゾンビに反論しているのではない。本当にこう信じているのだ!

この逆説的な状況は、愉快であると同時に、不穏でもある。非還元主義の立場に明らかに致命的とは言えないが、少なくとも取り組まなければならない問題ではある……。

私はこれを、歴史上、最も受け入れがたい帰結を飲み込んだ例として、本気で推したい。これはチャーマーズへの、ひねくれた賛辞でもある。並の人間なら、含意に気づかなかったり、向き合うのを拒んだり、そうならない理屈をこじつけたりするだろう。

なぜそこまで大きな帰結を飲み込むのか。なぜ、本当に意識あるこちらの哲学者とまったく同じ理由で、意識について論文を書く無意識のゾンビを仮定するのか。

最初に述べた、受動的な聞き手の直観のためではない。その直観は、ゾンビが車を運転し、数学をし、恋に落ちるとさえ言うかもしれない。だが、受動的な聞き手について哲学論文を書くとは言わない。

ゾンビ論は、受動的な聞き手の直観だけに依拠しているのではない。それだけなら、もう死んでいるだろう。内的な語りが普段から、聞き手の聞く現場を押さえているように見えると気づけば、聞き手を消しても何も変わらないという直観は、消えるはずだ。

この帰結を飲み込ませる力は、まったく別の直観から来る。原子をいくつ集めても、質量や電荷がいくつ相互作用しても、それが赤の謎めいた赤さという主観的感覚を、必然的に生みはしない、という直観だ。チャーマーズによれば、ある原子をある位置に置くと赤さの感覚が呼び起こされるのは、この物理的宇宙についての事実かもしれない。しかし、それは必然的な事実ではなく、原子の運動に加えて、さらに説明すべきものだという。

だが、受動的な聞き手の直観を抜きに、この第二の直観だけを考えると、なぜゾンビ論が導かれるのかわかりにくい。原子とは別に、追加の異なる種類のものがあって、それは因果的に受動的ではないのかもしれない。実際に何かをする魂、「赤の謎めいた赤さ」について書く理由に、本当の因果的役割を果たす魂だ。魂を取り除けば……昏睡して倒れないとしても、意識についての論文は、もう書かないだろう!

これがデカルトや、昔の多くの思想家の立場だった。魂は別の種類だが、身体と相互作用する。専門的には、デカルトの立場は実体二元論と呼ばれる。思考の素材、心の素材があり、それは原子とは違う。しかし因果的な力を持ち、相互作用し、宇宙に目に見える跡を残す。

ゾンビ論者は性質二元論者だ。別個の魂を信じるのではなく、この宇宙の物質が、物理を超えた追加の性質を持つと信じている。

「物理を超えた」とは、どういう意味か。追加の性質はあるが、電荷や質量のように原子の運動には影響しない、ということだ。第三者はその性質を実験で検出できない。あなた自身は、その追加の性質の内側から、自分に意識があると知る。しかし科学者は、外からそれを直接検出することは決してできない。

つまり、追加の性質はあるが、因果的には働かない。原子を動かさないので、第三者には検出できないのだ。

だから、原子はすべて同じ場所にある、この宇宙にそっくりの宇宙で、追加の性質だけが欠け、すべてが同じように進むのに誰にも意識がない、という世界を想像できるとされる。

ゾンビ論者によれば、ゾンビ世界は物理的には可能でないかもしれない。この宇宙の物質がすべて追加の性質を持ち、あるいは意識を呼び起こす橋渡し法則に従うのは、事実だからだ。しかし、論理的には可能だ。橋渡し法則は、違うものでもありえた。

しかし、考えられることと論理的に可能なことは違い、ゾンビ世界はそれほど直観的ですらないとわかったなら、なぜ論理的に可能だと言うのだろう。

なぜ、どうして、追加の性質は随伴現象的で、検出不能だと言うのか。

この難点は、はっきり述べられる。チャーマーズは、意識と呼ばれるものがあり、それが赤の謎めいた赤さの、真の、言い表せない実体を体現すると信じている。質量や電荷を超えた性質かもしれないが、そこに存在し、それが意識だ。ここまで述べたうえで、彼はさらに、その本当の意識の素材は随伴現象的で、因果的な力がないと規定する。だが、なぜそう言うのか?

なぜ、その本当の意識の素材を取り除いても、原子はすべて同じ場所で同じことをし続けると言うのか。それが本当なら、彼が「赤の謎めいた赤さ」について語る理由に、別の物理的説明が必要になる。つまり、物理を超えた赤の謎めいた赤さと、その赤さについて彼が語る、物理の内部の、まったく別の理由とが、両方存在することになる。

チャーマーズも、この二つは関係しているはずに見えると認める。しかし、そもそもなぜ両方必要なのか。どちらか一方ではだめなのか。

赤の謎めいた赤さを仮定したなら、それが内的な語りと相互作用して、「赤の謎めいた赤さ」について語らせる、と言えばよいのではないか。

ここではデカルトのほうが単純なやり方を取っていないか。厳密に、より単純ではないか。

なぜ物質を超えた魂を仮定し、そのあと魂は物理世界に影響しないと仮定し、さらにそのあと、意識経験について内的な語りに話させる、未知の謎めいた物質的過程を仮定するのか。

機械的な原子をいくら足しても得られない、本当の意識の素材を仮定し、そのうえで、そこまで踏み込んだのだから、哲学者に意識を語らせるような因果的効果を持たせればよいのではないか。

私はデカルトの見解を支持しているわけではない。だが、少なくとも発想の出どころは理解できる。意識が謎めいて見えるから、謎めいた意識の素材を仮定する。なるほど。

だがゾンビ論者は、その素材は何もしないと仮定する。そのため、自分に意識があると語る理由には、まったく新しい説明が要る。

これは生気論ではない。生気論者もコーヒーを噴き出すほど奇妙だ。「火が燃えるとフロギストンが出る。ただし、宇宙に実験で検出できる影響はないので、火が雪を溶かす理由は別に探さなければならない」。何だって?

性質二元論者は、観測できるものに因果的な影響を与える、活動的な新しい力を仮定したら、危険なところまで踏み込みすぎると思っているのだろうか。

私に言わせれば、位置や速度に加えて、謎めいた別個の、本質的に心的な意識の性質を仮定した時点で、すでに踏み込めるだけ踏み込んでいる。その意識の素材を仮定し、さらに、それは何もしないと仮定する。かわいい子猫に免じて、頼むから教えてくれ、なぜなんだ?

職業上の動機すら明らかではない。「こんにちは、意識の哲学者です。私の研究対象は宇宙で最も重要だから、大きな予算をもらうべきですか? そう言っていただけるのはありがたいですが、実は、研究している現象は一切何もしないんです」。職業上の利益からの議論は妥当ではないが、退路を残すために言っている。

チャーマーズは、どんな新しい物理理論や、物質と相互作用する新しい実体なら意識を説明できるのか、見当がつかないとして実体二元論を批判する。だが、性質二元論もまったく同じ問題を抱える。どんな二元的な性質を持ち出しても、それが具体的にどう意識を説明するのか。

意識という追加の性質を仮定した時点で、チャーマーズは、説明不能なところを越える飛躍をしたのだ。さらに、その性質には効果がないと指定すると、理論にどう役立つ? 因果的に働かせればよいのではないか。

意地悪をするなら、ここで竜を引きずり出すところだ。カール・セーガンの、車庫の竜のたとえ話である。「車庫に竜がいます」。すばらしい! 見たいから、行こう! 「見えません。透明な竜です」。では声を聞きたい。「残念ながら、音も聞こえません」。二酸化炭素の排出を測りたい。「呼吸しません」。小麦粉をまいて輪郭を出そう。「小麦粉は竜をすり抜けます」。

理論を反証不能にしたくなる動機の一つは、心の底で試すのを恐れていることだ。物理学者のロジャー・ペンローズと神経学者のスチュアート・ハメロフは実体二元論者である。量子の領域で何か謎めいたことが起きており、エヴェレットは間違いで、「波動関数の収縮」は物理的に実在し、そこに意識が宿り、「我思う、ゆえに我あり」と口にするときに唇へ因果的な影響を及ぼす、と考えている。この信念から、ニューロンは巨視的な量子状態を保てるほど長く、デコヒーレンスから自分を守るだろうと予測した。

これは検証中であり、今のところペンローズにとって見通しはよくない――。

――だが、ペンローズの基本的な振る舞いは、科学的に立派だ。ベイズ的ではないかもしれないが、根本的には健全だ。奇抜な仮説を考え、試し方を示し、実際に試そうとした。

ハメロフには以前、こう言った。「あなたの仮説には、まったく見込みがないと思います。そして、その実験には絶対に資金を出すべきです。探しているものが見つからなくても、誰も見ていないところを見ているのだから、面白いものが見つかるかもしれません」。

だから、随伴現象説を意地悪に退けるなら、ゾンビ論者は意識の素材に効果があると言うのを恐れている、と言える。それでは科学者が追加の性質を探し、見つからないと判明するかもしれないからだ。

ただし、実際にチャーマーズがそうだとは思わない。自分に正直でないなら、彼はずっと楽にできるはずだからだ。

(それでも、もし彼がこれを読み、本当に反証を恐れている場合に備えて指摘しておく。随伴現象説が偽なら、私たちが意識と呼ぶものには、別の説明がある。いずれ見つかり、彼の理論は崩壊する。だから、歴史上の自分の評価を気にするなら、本当に真だと思っているのでない限り、随伴現象説を支持する動機はない。)

チャーマーズは、私が知る中でも最ももどかしい哲学者の一人だ。ときどき、『無神論は征服された』のようなことをしているのではないかと思う。実に鋭い分析をして……最後の瞬間に左へ曲がる。ゾンビ世界のどこが間違っているかをすべて示し、議論全体を粉々にしておいて、平然と受け入れるのだ。

ゾンビの双子がまったく同じ理由で同じことを言い、間違っているのに、こちらが意識を信じることは正当化される、という問題を、落ち着いて詳しく論じるときも、同じことをする。

彼の理論では、意識を信じているという彼の発言を、因果的には正当化できない。信念はその事実自体によって生じたものではないからだ。意識がなくても、同じ理由で同じ論文を書く。

随伴現象説では、その発言を、真の信念を系統的に出力する過程の産物として正当化することもできない。同じ系統的な過程で同じ論文を書くゾンビの双子が、間違っているからだ。

チャーマーズはこれを認める。実際、自著で非常に詳しく説明している。なら、自分が随伴現象的な意識を信じる根拠はないと、しっかり証明したのだろう? 違う。彼はこう書く。

意識経験は、私たちの認識的な宇宙の中心にあり、私たちはそれに直接アクセスできる。すると問いが生じる。経験についての信念を正当化するのが、その経験との因果的なつながりでも、信念の形成機構でもないなら、何なのか。答えは明らかだと思う。信念を正当化するのは、経験を持つことだ。たとえば、今赤の経験を持つというまさにその事実が、赤の経験を持っているという私の信念を正当化する……。

ゾンビの双子には経験がないので、その認識的な状況は私とは大きく異なり、その判断には対応する正当化がない。信念が物理領域にあるなら、その正当化も物理領域にあるはずだと反論したくなるかもしれないが、それは論理の飛躍だ。物理領域に正当化がないことから、私の物理的な部分、たとえば脳の信念は正当化されない、と結論してもよい。しかし問題は、私の脳ではなく、私自身がその信念を持つのを正当化されるかだ。性質二元論が正しければ、私は脳だけではない。

つまり、私がこの主張を正しく理解しているなら、脳を超えた核となる自己があり、自分はゾンビではないと信じ、ゾンビでないことを直接経験する。だから、その信念は正当化されるというわけだ。

しかしチャーマーズは今、そのすべてを、きわめて物理的な本に書きつけた。ゾンビ・チャーマーズも同じことをした。

ゾンビが本を書いた原因は、脳を超えた核となる自己ではありえない。物理法則の中に、まったく別の理由があるはずだ。

したがって、チャーマーズの隠れた部分に、意識があり、媒介なしに直接意識を信じる部分があるとしても、彼にはまた、切り離せる部分空間がある。完全に物理の内部で動く、因果的に閉じた認知の部分システムだ。そして、この「外側の自己」が内的な語りを語り、意識の論文を書く。

彼自身の理論によれば、この切り離せる外側のチャーマーズは狂っている、という批判を避ける方法が、私には見えない。この部分は、こちらの世界でもゾンビ世界でも同じであり、どちらでも妥当な理由なしに意識の哲学論文を書く。その論文は、気づきと、気づきへの信念を持つ内なる核から出力されたものではない。指にコンピュータのキーを打たせる、内的な語りの単なる物理から出力されたものだ。

それなのに、この狂った外側のチャーマーズは、別の、追加の奇跡によって、たまたま完全に正しい哲学論文を書いている。論理的に必然の奇跡ではない。そうなら、ゾンビ世界は論理的に可能でなくなる。科学にはこちらの宇宙とゾンビ世界を見分けられないのに、私たちが自分の宇宙と思うところでは、たまたま真である、物理的に偶然の奇跡だ。

少なくとも、自分が狂っていると認める外側のチャーマーズの話を受け取ると、そういう含意になるように見える。

還元主義者全員を代表して、こう言ってよいだろう。はあ?

これは周転円ではない。「惑星は周転円に従って動く。だが周転円は実際には何もしない。周転円が定めるとおりに惑星を動かす、まだ説明できない別のものがある。ちなみに、周転円がなくても、私は同じことを言う」。そういう話だ。

哲学についての私の見方が普通と違うのは、何でもAI設計の目で見るからだ。特に、安定した動機構造を持つ、自己改善型の汎用人工知能の設計として。

AIを設計するとき、私は確率論や、証拠を仮説の違いを見分ける診断とするベイズ的な考え方、そして何より、自己を検討したときの整合性、すなわち反省的整合性という原則を考える。反省的に不整合な状態から出発した自己改変AIは、長くそのままではいない。

自己改変AIが、条件Aで「B」と結論する部分、条件Aが真のたびに記憶へ「B」と書く部分を見つけたとする。その部分を調べ、より大きな宇宙の文脈で因果的にどう動くかを確かめ、系統的に偽のデータを書き込む傾向があると判断すれば、バグらしきものを見つけたことになる。AIは、条件Aのもとで信念の集まりに「B」を書き込まないよう、自己改変するだろう。

反省的整合性を無視する認識論は、自己改善AIを作るのに使う、よい理論ではない。実際に哲学を何に使うつもりかを考えると、私にはこれは決定的な議論だ。いずれにせよ、反省的に整合した理論を考えなければならない。そしてそうしてみると、なんと、反省的整合性は直観的にも筋が通るとわかる。

これが、私がこうしたことを考える少し変わったやり方だ。では、チャーマーズを振り返ろう。

因果的に閉じた「外側のチャーマーズ」は、別の追加の気づきと信念を持つ「内側のチャーマーズ」からは、何の影響も受けない。この外側は、系統的に信頼できず、根拠のない何らかの操作を行っているはずだ。それが説明されていない何らかの仕方で、「内側のチャーマーズ」についての信念を内的な語りに作らせる。その信念は、たまたま私たちの宇宙では、論理的な理由なしに正しい。

しかし、外側のチャーマーズにも、自分を調べる、反省的に整合したいかなるAIにも、この謎めいた正しさを信じる根拠はありえない。優れたAIの設計は、因果システムに実装された、反省的に整合した知性であるべきだと思う。そして、その因果システム自体が、目標を達成する過程でどう系統的に正確な信念を生むかについて、検証可能な理論を持つべきだ。

だからAIがチャーマーズを走査すると、閉じた因果的な認知システムが、でたらめを語る内的な語りを生んでいるとわかる。そのでたらめは、彼が何を道徳的価値のある人格と見なすべきかと考えることに、大きく影響しているようだ。

これは友好的AIの理論家にとって、必ず生じる問題ではない。随伴現象論者である場合だけの問題だ。還元主義者の、意識は原子の内部で起きるという説でも、実体二元論者の、意識は因果的な力を持つ非物質的な素材だという説でも、意識を語る人は実在のものを語っている。反省的に整合したベイズ的AIは、人に「意識」と言わせる因果の連鎖をたどって、それを確かめられる。

チャーマーズによれば、内的な語りを生む因果的に閉じた認知システムは、謎めいた故障をしている。しかし必然ではなく、私たちの宇宙でだけ、奇跡的に正しくなる。さらに、その語りは「内的な語りは謎めいた故障をしているが、随伴現象的な内なる核の正当化された思考を、奇跡的に正しく反映している」と主張し、それもまた、私たちの宇宙では奇跡的に正しい。

いい加減にしてくれ!

どこかで、もうその考えを諦めるべきではないのか。生の直観の水準で、いったい何を考えていたんだ?と思うべきではないか。

人類は、正しい世界の理論がどんな姿かについて、かなり広い経験を積んできた。正しい理論は、こんな姿ではない。

「信じられないというだけの議論だ」とあなたは言う。いいだろう、明示してほしいのか。このチャーマーズ流の理論は、説明のない複雑な奇跡をいくつも仮定する。それは、確率の連言則とオッカムの剃刀により、事前確率を下げる。したがって、より少ない奇跡を仮定する、少なくとも次の二理論に劣る。

これに対して、次を比べてほしい。

限られた経験から話しているのは承知している。しかし、その限られた経験に基づけば、ゾンビ論は哲学全体で最も狂った考えの候補かもしれない。

合理主義者は、自分に奇妙に見えることも信じなければならない場合がある。相対性理論は奇妙に見え、量子力学も奇妙に見え、自然選択も奇妙に見える。

だが、その奇妙さは膨大な証拠で確立されている。科学が圧倒的に確認したため、奇妙なことを信じるのと――。

――特定されていない奇跡と、理解したとさえ言われない巨大な空白を中心に据えた、大きく複雑な哲学的議論のために、まったく狂っているように見える命題を信じるのとは、違う。

――しかも、ここまで聞いたことをすべて受け入れても、現象はやはり謎に見え、最初と同じ、驚くほど不可解な性質が残る場合なのだ。

仮にチャーマーズの議論が一つ一つもっともらしく見えたとしても、私にはそうは見えないが、ここで合理主義者が言うべきなのは、こういうことだ。

「わかった……意識の仕組みは知らない……それは認める……問題への取り組み方全体が違うか、問いを間違えているのかもしれない……しかし、このゾンビの話は正しいはずがない。これを信じさせるほど、議論は確かめられていない。受け入れても混乱が少しも減らないなら、なおさらだ。腹の底の直観では、これが現実の本当に本当にありうる働き方だとは、思えない」。

念のために言うが、これがチャーマーズの説への慎重で分析的な反駁に代わる、と言っているのではない。システム1は、方向を示す助けにはなっても、システム2の代わりではない。問題が具体的にどこにあるかは、やはり突き止めなければならない。

チャーマーズは大部の本を書いたが、Googleの無料プレビューでは全部は読めない。彼が自分への反論を静かに詳述する長い議論の連鎖を、私はここで再現していない。最後に提示された擁護に、私の知る限り彼がまだ答えていない最終の反駁を、付け足そうとしただけだ。いわば、相手のコートへ球を打ち返したのである。

それでも、根本的な水準では、ゾンビ論の結論を見たときに正気な人がするのは、「そんなものが正しいはずは絶対にない」と言って、欠陥を探し始めることなのだ。

Chalmers, The Conscious Mind. ↩︎