非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

手と指

Hand vs. Fingers

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もとの話題、還元主義と心の投影の誤謬に戻ろう。楽しいものであるには根本的なものでなければならない、と考えると、還元主義を受け入れるうえで感情的な問題が生じることがある。だが、この立場を取れば、クォークより複雑なものには決して喜びを見いだせないことになる。だから私は、その立場を退けたい。

おさらいすると、還元主義の主張は、計算上の理由で私たちは複数の階層を持つモデルを使うが、物理的現実には階層が一つしかない、というものだ。

ここで、次の難問を出したい。水の入ったコップを持ち上げるとき、それを持ち上げているのは、あなたの手だろうか。

もちろん、ほとんどの人は素朴で一般的な答えを選ぶ。「はい」だ。

だが最近、科学者たちは驚くべき発見をした。コップを支えているのは手ではない。実は、指、親指、そして手のひらなのだ。

わかる、わかる! 私も衝撃を受けた。しかし科学者たちが、指一本一本、親指、手のひらがそれぞれコップに及ぼす力を測定したところ、余った力はなかったらしい。したがって、手が及ぼす力はゼロのはずだ。

ここでの要点は、上位の階層がどのように下位の階層へ還元されるかを見て取れれば――還元されると知っているだけではなく――自分の地図の中で、それらが別のものには思えなくなるということだ。指がある場所にあり、手は別のどこかにあると考えるのが、どれほど馬鹿げているか見えるようになる。コップを持ち上げるのは手か指かと言い争うことが、どれほど馬鹿げているか見えるようになる。

ここで大事なのは「見える」という言葉だ。具体的に思い描くという意味である。手を思い浮かべると、指、親指、手のひらも思い浮かぶ。逆に、指、親指、手のひらを思い浮かべると、その心的イメージの中に手を見いだす。こうして、自分の地図の上位の階層と、自分の地図の下位の階層が、心の中で強く結びつく。

もちろん現実では、それらの階層はそれ以上に強く結びついている。ありうる最も強い結びつき、物理的な同一性によって。このことは見て取れる。(1)「手」と言っても、(2)「指と親指と手のひら」と言っても、指すものが違うのではなく、視点が違うのだと見て取れる。

だが、地図の階層をそれほど強く結びつける知識がなかったとしよう。たとえば、昔のレーダー画面のように、地図上の点として「手」を示す「手スキャナー」があり、指、親指、手のひらにも同様のスキャナーがあるとする。すると、手の点の周りに点の集まりが見えるが、手の点がほかの点から離れて動くことを想像できるだろう。つまり、手という物理的現実、すなわちその点に対応するものは、指と親指と手のひらという物理的現実と同一であり、それらだけから厳密に構成されているにもかかわらず、その事実が見えないのだ。誰かに教えられたり、点の対応関係から推測したりしても、還元されるという事実を知っているだけで、それが見えるわけではない。センサーの物理的な構造を変えなければ実際に起きることは物理的に不可能なのに、手の点だけが独立して動き回ることを、依然として想像できるのである。

あるいは、結びつきがさらに弱い場合、ただ「あそこに手があって、あそこに指がいくつかある」と教えられるだけかもしれない。その場合、意味ありげな名前のLISPトークンで状況を表す、古き良き人工知能と大して変わらない知識しか持たないだろう。次のように断定しても、明らかな矛盾はない。

⊢Inside(Room,Hand)

⊢¬Inside(Room,Fingers) ,

なぜなら、次の知識を持っていないからだ。

⊢Inside(x,Hand) ⇒ Inside(x,Fingers) .

だからといって、手が実際に指から存在を切り離し、幽霊のように部屋を這い回れるわけではない。命題による表現を使う古き良き人工知能は、それができないとは知らないかもしれない、というだけだ。地図は土地そのものではない。

とりわけ、ある特定の人の心の中で、指、親指、手のひらという構成要素から手を切り離すことが概念的には可能に思えるからといって、そこからあまり多くの結論を引き出すべきではない。概念的な可能性は、論理的な可能性や物理的な可能性と同じではない。

235,757が素数であることは、あなたにとっては、概念的には可能だ。そうではないと知らないからだ。しかし、235,757が素数であることは、論理的には不可能だ。もし論理的に全知なら、235,757が合成数だということは明白であり、その因数もわかるだろう。だからこそ、不可能な可能世界という概念がある。実際には論理的に不可能かもしれないし、そうでないかもしれない命題に、確率分布を与えられるようにするためだ。

そして、「手」は本当には存在しないと言って直接的な経験の事実に反する――何しろ私たちは、手でコップを支えていると感じられるのだから――「消去的指主義者」を批判する哲学者を想像できる。手が存在しないなら、コップが落ちるのは明らかだ、というわけだ。また、指の特定の配置がどうやって手を存在させるのかを説明するために、「手と指の橋渡し法則」を提案する哲学者もいるだろう。もちろん、私たちの世界にはその特定の橋渡し法則があるものの、法則は別のものでもありえたと考えられるので、いかなる意味でも必然的な事実ではない、等々と断りを添えながら。

これらはすべて、心の投影の誤謬であり、私が「素朴な哲学的実在論」と呼ぶものの例だ。哲学的直観を、現実についての直接的で正しい情報と取り違えている。何かを想像できないというのは、あなたの脳が何を想像でき、何を想像できないかについての計算上の事実にすぎない。別の脳は違う働き方をするかもしれない。