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「信念」「真理」「現実」の区別をめぐる混乱の主な原因は、信念について質的に考えることだと私は考える。
賢く見せようとする、典型的なポストモダニストの試みを考えよう。
「太陽は地球の周りを回る」は狩猟採集民フンガにとって真だが、「地球は太陽の周りを回る」は天文学者アマラにとって真だ! 社会が違えば、真理も違う!
違う。社会が違えば、信念が違う。信念と真理は異なる型である。リンゴと確率を比べるようなものだ。
ああ、しかし、あなたが「信念」という語を使う仕方と、「真理」という語を使う仕方には違いがない! 「私は『雪は白い』と信じる」と言っても、「『雪は白い』は真だ」と言っても、まったく同じ意見を表している。
違う。この二つの文はまったく異なることを意味する。だからこそ、自分の信念が誤っている可能性を考えることができる。
おや、あなたはそれを考えられると主張するが、決してそうだとは信じない。ウィトゲンシュタインが言ったように、「『誤って信じる』を意味する動詞があったとしても、その直説法現在一人称には意味のある用法がないだろう」
まさにこの理由から、問題の根源は質的推論にあると私は指摘している。信じることと信じないことの二分法は二値なので、真と非真の二分法と紛らわしいほど似ている。
そこで、代わりに量的推論を使おう。雪が白いという命題に、私が70パーセントの確率を割り当てるとする。すると、「雪は白い」という文が真だと判明する見込みを、およそ70パーセントと考えていることになる。「雪は白い」という文が真なら、その命題への私の70パーセントという確率割当ても「真」なのだろうか? まあ、60パーセントの確率を割り当てた場合よりは真に近いが、80パーセントを割り当てた場合ほど真に近くはない。
確率割当てと現実との対応について語るとき、「真理」よりよい言葉は「正確さ」だろう。「正確さ」は、矢を射る射手のように、より量的に聞こえる。自分の確率割当ては、標的の中心からどれほど近いところに当たっただろうか?
長い話を短く言えば、確率割当ての現実に照らした正確さを採点する、きわめて自然な方法があるとわかる。現実の事態に割り当てた確率の対数を取るだけでよい。
したがって、雪が白いなら、「70%:『雪は白い』」という私の信念は、−0.51ビットという得点になる。log2(0.7) = −0.51である。
しかし、30パーセントの確率があると私も認めたように、雪が白くなかったらどうなるか? 「雪は白い」が偽なら、「30%の確率:『雪は白くない』」という私の信念は−1.73ビットを得点する。−1.73 < −0.51なので、成績は悪くなっている。
私は自分の信念がどの程度正確だと考えているだろうか? 得点の期待値は、70% × −0.51 + 30% × −1.73 = −0.88ビットである。雪が白ければ、私の信念は予想したより正確になる。雪が白くなければ、予想したより不正確になる。しかし、どちらの場合にも、私の信念が、平均として予想したのと正確に同じだけ正確になることはない。
このすべてを、「『雪は白い』ことに70パーセントの確信度を割り当てる」という言明と混同してはならない。その命題自体は、約1の確率で信じているかもしれない――これが実際に自分の信念だと、かなり確信しているかもしれない。その場合、「約1:『私は「雪は白い」ことに70パーセントの確信度を割り当てる』」というメタ信念は、正確さについて約0ビットを得点すると予想する。これは得られる最高の値である。
私が雪について不確実だからといって、自分の引用符で囲んだ確率的信念について不確実だとはかぎらない。雪は外にあり、私の信念は私の内にある。雪についてどれほど不確実かについての不確実性は、雪についての不確実性より、はるかに小さいかもしれない。(もっとも、信念についての信念が常に正確とはかぎらない。)
この確率的な状況を、私がただ、雪は白いと信じ、雪は白いと自分が信じていると信じ、「『雪は白い』は真だ」と信じ、「『「雪は白い」は真だ』という私の信念は正しい」と信じる、等々という質的推論と対比してほしい。関わる量がすべて1なので、容易に混同してしまう。
しかし、「『「雪は白い」の確率は70パーセント』は真である」と考え始めれば、量的推論の見事な区別は短絡してしまう。それは型エラーである。あなたが「70%の確率:『雪は白い』」と信じていることは、あなたについての真なる事実である。しかし、その確率割当てそれ自体が「真」であり得るわけではない。その信念は、現実の実際の状態に応じて、正確さについて−0.51ビットまたは−1.73ビットを得点する。
事情に通じた者なら、「『「雪は白い」の確率は70パーセント』は真である」が、確率を物に内在する性質と考える間違いだとわかるだろう。
内側からは、世界についての信念は世界のように見え、信念についての信念は信念のように見える。世界を見るとき、あなたは信念を内側から経験している。自分が何かを信じていることに気づくとき、信念についての信念を内側から経験している。したがって、信念と、信念についての信念に対する内部表現が似ていなければ、両者を混同して心的投影の誤謬を犯す可能性は低くなる――ことを願う。
確率で考えるとき、信念と信念についての信念は、信念と正確さを混同したり、正確さと現実を混同したりするほど似た形では表現されないことを願いたい。世界について確率で考えるとき、信念は(0, 1)の範囲の確率で表現される。命題の真理値が{ 真, 偽 }という集合に属するのとは異なる。確率的信念の正確さは、(−∞, 0)の範囲で表現できる。自分の信念についての確率は、通常、極端な値を取る。そして物そのものはといえば、赤かったり青かったり、重さが20ポンドだったり、何であれ、ただそうであるだけだ。
こうすれば、おそらく地図と領土を混同しにくくなる。
この型の区別は、不確実性が心の状態であることを思い出す助けにもなるだろう。硬貨は、どちら向きに着地するかについて、50パーセント内在的に不確実なわけではない。硬貨は信念処理装置ではなく、自分自身について部分的情報を持ってもいない。質的推論では、「硬貨は表を上にして着地する」のように、硬貨ときわめて直接的に対応する信念を作れる。この信念は、硬貨に応じて真または偽になり、その信念の真偽から硬貨の上を向いた面への関係は明白である。
しかし質的推論のもとでさえ、硬貨そのものが「真」または「偽」だと言えば、重大な型エラーになる。硬貨は信念ではない。硬貨である。領土は地図ではない。
硬貨が真にも偽にもなれないなら、まして自分自身に50パーセントの確率を割り当てるなど、どうしてできるだろうか?