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前のエッセイは、こう締めくくった。
何かについて正確な信念を持つには、本当にそれを観察しなければならない。これはきわめて物理的で、現実の過程だ。合理的な心はどれも、頭を使うというだけでなく、熱力学的な意味で「仕事」をする……。だから、自分の議論のどの具体的な段階が、物理法則を破って、見ていないものについての真の知識を与えるのか説明できないなら、大きくて込み入った巧妙な議論にもそれができると、私に信じてもらえると思わないでほしい。
熱力学と認知の数学的な類似から得られる、主な教訓の一つは、確率の制約からは逃れられないということだ。確率は「主観的な信念の状態」かもしれないが、確率の法則は鋼鉄より硬い。
従来の学校教育のもとで、人はこう学ぶ。先生が何かを言ったら、それを信じなければならず、そのまま答え返さなければならない。だが、ただの生徒が何かの信念を持ち出した場合には、従う必要はない。こうして、信念の領域を権威の領域に重ね合わせ、確実な信念は従うべき命令のようなものだが、確率的な信念は単なる提案のようなものだ、と考えるようになる。
彼らは宝くじを見て、「でも、私が当たらないと証明はできないんでしょ?」と言う。その意味はこうだ。「あなたは当選確率が低いと計算したかもしれないけれど、確率なのだから、ただの提案だ。だから私は、信じたいことを信じてかまわない」
ちょっと実験してみよう。卵を床に叩きつけて割る。卵がひとりでに元の形に戻って、手の中へ跳び上がってはこない、という規則は、単に確率的なものだ。言ってみれば提案だ。熱力学の法則は確率的なのだから、「殺すなかれ」が法であるような意味で、本当の法則であるはずはない……そうだろう?
それなら、その提案を無視すればいいではないか。そうすれば、卵は自分で元通りになる……そうだろう?
不確かな信念には拘束力がない、という直感がまだ残っているなら、こう考えると助けになるかもしれない。
現実には、卵がひとりでに元に戻る確率は、ごく小さいながらもあるかもしれない。だが、元に戻ると予期することはできない。割れると予期しなければならない。持つことを義務づけられる信念は、卵がひとりでに元に戻る確率はほぼ0だ、というものだ。確率は確実性ではないが、確率の法則は定理なのだ。
疑うなら、熱力学の提案を無視し、卵がひとりでに組み上がり直すと予期して、床に数デシリオン回ほど落としてみるといい。何が起こるか確かめよう。確率は主観的な信念の状態かもしれないが、それを支配する法則は、鋼鉄よりはるかに強い。昔、車輪と歯車の仕組みで、反作用のない推力が得られると確信している人を知っていた。彼はそれを証明するExcelの表計算を持っていると言った。もちろん、まだ開発中だから私たちには見せられないという。古典力学では、運動量保存則を破るのは不可能だと証明できる。だから、古典力学の規則に従って計算するExcelの表なら、反作用のない推力は存在しないことを、必ず示す。機械が十分に複雑で、計算を間違えてしまったのでない限りは。
それと同じように、半人前、あるいは十分の一人前の合理主義者が自分の技法を放棄し、今回だけは証拠なしで信じようとするとき、彼らはよく正当化の巨大な建物を築く。魔法の段階を隠せるだけ、自分を混乱させるのだ。
魔法がどこで起きているか特定するのは、かなり骨が折れることがある。問いただすと、議論の構造が姿を変え、身をよじって逃げていきがちだからだ。だが必ずどこかに、小さな確率が大きな確率へと変わる段階がある。証拠なしで信じようとするところ、「誰も私が間違いだと証明できない」と考えながら、未知へ一歩踏み出すところがある。
当然、その足が踏むのは空中だ。可能性の領域には、地面より空中のほうがはるかに多いのだから。ああ、だが、可能性の中にも(指数関数的にごく小さいながら)地面はあるし、運よくそこに当たる確率も(指数関数的にごく小さいながら)ある。だから今回は、足が正しい場所に着くかもしれない! たかが確率なのだから、たかが提案にすぎないはずだ。
コップ一杯の煮えたぎる湯の正確な状態を、あなたは知らないかもしれない。実際、正確な状態を知らないからこそ、分子の運動エネルギーは、回転するはずみ車の運動量のような、取り出すのを待つ仕事ではなく、「熱」になる。だから、その湯は手を温めずに冷やすかもしれない。その確率はほぼ0だが。
熱力学の法則を無視すると決め、それでも手を入れれば、やけどすることになる。
「でも、そんなことはわからないでしょ!」
確実にはわからない。だが、そうなると予期することは必須だ。確率は論理的真理ではないが、確率の法則はそうなのだ。
「でも、沸騰した水の状態を当てずっぽうで言って、たまたま当たったら?」
偶然正しく当てる確率は、沸騰した水が偶然あなたの手を冷やす確率より、さらに低い。
「でも、私が当てられないと証明はできない」
その出来事に極端に低い確率を割り当てることはできる。実際、そうしなければならない。
「でも、それは確実性とは違うよね」
おや、議論に車輪や歯車を十分に付け足せば、温かい水を電気と氷に変えられるかもしれない! というより、そうならないはずの理由が、もう見えなくなるだろう。
「その通り! そうならないはずの理由がわからない! だから、そうなるかもしれない!」
歯車をもう一つ? それでは機械の効率がますます下がるだけだ。もともと永久機関ではなかったのに、歯車を一つ足すごとに、それよりさらに効率が下がる。
議論に付け足す細部は一つひとつ、必ず同時確率を下げる。証拠なしで沸騰した水の正確な状態を当てたことで、どうやったかは正確にわからないまま熱力学第二法則を破り、そのために指を入れてもやけどしない、という確率は、沸騰した水に指を入れてやけどしない確率より、必ずさらに低くなる。
こんなことを言うのは、人は証拠なしに信じようとするとき、本当にこれほど巨大な議論の建物を築くからだ。これは、あの人が反作用のない推進装置に車輪や歯車を次々に付け加え、ついにExcelの表計算で間違いを犯すだけの複雑さを集めてしまったのと同じだ、と見抜けるようにならなければならない。