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あるところに、自分は偉大なアイデアを持っていると確信した男がいた。そのアイデアを考えれば考えるほど、それは偉大なアイデアの一つどころか、史上最高にすばらしいアイデアだとわかった。そのアイデアは、宇宙の謎を解き明かし、腐敗と誤りに満ちた体制の権威に取って代わり、使う者に魔法に近い力を与え、飢えた者を養い、病人を治し、世界全体をよい場所にする。等々、等々。
男の名はフランシス・ベーコン。その偉大なアイデアは科学的方法だった。人類へのそれほどの恩恵を主張し、完全に正しかったと判明した変人は、歴史上彼しかいない。
(もちろん、ベーコンが一人で科学を発明したわけではない。だが貢献はしたし、その力に最初に気づいた人だったかもしれない。)
何であれ、そこまで称賛することはしないと決めると、こういう問題がある。本当にそれほど優れたアイデアもあるのだ。もっとも、ベーコン以上に大胆な主張を実現した人はいない。少なくとも、まだ。
では、科学そのものについての幸福な死の螺旋には、どう抗えるだろう。何かをあまりにすばらしいと思い、ハロー効果のために、褒めることが次から次へ見つかり、ますますすばらしく見える。そうして深淵へと、上に向かって螺旋を描いていくのが、幸福な死の螺旋だ。もし科学が実際にあまりに有益なので、その真の栄光を認めながら正気を保つことができないとしたら? 褒め言葉として、よさそうだろう? まずい、始まった、逃げろおおお……。
科学を称賛しすぎるなという話について、お決まりの、キャッシュされた深い知恵を取り出すと、「科学はエアコンをくれたが、水爆も作った」とか、「科学は星や生物学について教えてくれるが、車庫の竜を証明も反証もできない」といった考えが出てくる。しかし、そうした考えを最初に生んだ人たちは、幸福な死の螺旋に抗おうとしたのではない。科学への自分の賛美が暴走するのを心配していたのではない。おそらく、科学が自分のお気に入りの信念について言うことが気に入らず、その権威を弱める方法を探していたのだ。
科学についてのお決まりの否定的な言葉は、科学の高揚感を本当に感じている人には響きそうにない。そういう読者を想定した言葉ではないからだ。だから、別の否定的な点を探さなければならない。
だが、幸福な死の螺旋に抗うためであっても、科学について否定的なことだけを選んで探せば、それだけで後づけの正当化をしていることにならないか。自分を操作しようとしているとわかっていながら、なぜ自分の考えに耳を傾けるのか。
私は一般に、一つのバイアスで別のバイアスを打ち消せるという主張には懐疑的だ。車の修理工が、右のワイパーのモーターは壊れているが、修理する代わりに左も壊して釣り合いを取ろう、と言うように聞こえる。こういう知恵は、自分の足を撃つことにつながる。どんな解決策であれ、真実を信じるものであるべきだ。偽だと信じることを、自分は信じていると信じるようなものではなく。
科学への賛美を狭い領域に限れば、幸福な死の螺旋を防げるだろうか。この螺旋の一部は、偉大なアイデアをどこにでも見いだすことだ。共産主義に機会さえ与えれば、がんを治せると考えるように。カルトの教祖を見抜く最も確かな兆候は、おそらく、一分野でも関連分野のまとまりでもなく、あらゆることの専門家だと主張することだろう。信者が何を食べ、何を着て、何を仕事にし、誰とセックスし、どの芸術を見て、どの音楽を聴くべきか、教祖は知っている……。
残念ながら、この作戦には問題がある。科学が収まるべき、こぎれいな小箱を説明しようとすると、大半の人はひどく失敗する。「科学はがんを治せない」という、いつもの手は使えない。「科学は親の子への愛については何も言えない」。悪いが、それは単純に間違いだ。科学を親の愛などから切り離そうとすれば、認知科学や進化心理学だけでなく、マーティン・ロスブラットが娘の肺高血圧症の治療法を求めてユナイテッド・セラピューティクスを設立したことも否定してしまう。(付け加えると、成功した。)科学は何らかの形で、人間の存在の重要なほぼすべての側面と、正当に結びついている。
では、科学について言える、好意的だが誤った主張には何があるだろう。
私見では、科学はあまりにすばらしいので、科学者は自分の仕事に倫理的な責任を持とうとする必要さえなく、自動的によい結果になる、というのは誤りだ。この主張は、科学が人類に恩恵をもたらす過程を誤解しているように思える。科学者も人間であり、ほかの大半の人と同じく、社会の役に立ちたいと思っている。それが、科学が悪より善を多く生む理由の、少なくとも一部なのだ。
だが、その点にはどうやら異論もある。もっと簡単な、好意的だが誤った主張を挙げよう。「がん患者は、十分な数の学術論文を出版するだけで治る」。あるいは、「ソシオパスも、再現された実験的証拠がp < 0.05を満たすまでは何も信じないと決めさえすれば、完全に正常になれる」。
こうした主張を信じないための方法は、感情に上限を設け、科学は少しだけよいものだと決めることではない。論文の出版ががんを引き起こすと信じる理由を探すことでもない。科学はがんについて何も言えないと信じることでもない。
そうではなく、科学の仕組みを十分具体的に知れば、「科学ががんを治す」ことは可能でも、がん患者が論文を書いて、奇跡的に寛解するわけではないとわかる。その特定の因果の連鎖は、うまく働かないのだ。
幸福な死の螺旋が感情の問題になるのは、ハロー効果という知覚の問題があるからだ。最初の好意的な主張を受け入れると、その後も好意的な主張を受け入れやすくなる。この効果は、願うだけでは消えない。おそらく、いつも多少は影響を受けるだろう。だが、速度を落とし、立ち止まり、新たな褒め言葉を一つ一つ、新たに加わる立証すべき細部として扱い、好意的かどうかとは別に、その具体的な内容へ注意を向けることはできる。
ある好意的な主張は「反証できない」が、「賛否双方」の論拠があるなら、どうだろう。実は、こうした言葉は一般に警戒すべきだ。人が証拠を繰り返し唱えたり、本当の弱点を避けたりするときによく使うからだ。幸福な死の螺旋の危険を考えれば、未決着の主張で喜ばないようにするのが筋だ。それを、すでに好きなものへの、さらなる好感の源にしないようにするのだ。
幸福な死の螺旋が大きな感情上の問題になるのは、過剰な正のフィードバックのため、過程が臨界に達しうるからだ。ハロー効果は完全には消せないかもしれないが、十分な批判的推論を加えれば、臨界未満に保てる。共鳴が爆発するのでなく、減衰するようにすればよい。
問題のすべては、中心的な前提を受け入れた途端、追加される一つ一つの細部を批判的に検討しなくなることから始まる、とさえ言える。複雑性を埋め合わせるのに十分な証拠を求め、支持だけでなく欠陥も探し、好奇心を働かせることを、しなくなるのだ。連言錯誤がなければ、ハロー効果は残っても、幸福な死の螺旋は起きないかもしれない。
既知の宇宙で最もすばらしいものについてでも、新たな好意的主張の一つ一つに、必要な証拠を正確に要求する完全な合理主義者なら、感情の共鳴は起こらない。それはできなくても、幸福感が制御不能な螺旋を描かないほどには、合理性に近づける。
本当に危険なのは、その偉大なものに関するどんな好意的主張でも、批判すると不快になったり、社会的に受け入れられなかったりする場合だ。論拠は兵士だ。好意的な主張はすべて味方の兵士で、味方を背後から刺すのは反逆だ。そうなると連鎖反応は、臨界を超える。これについては後で述べる。
スチュアート・アームストロングは、密接に関連する助言をしている。
自分の偉大なものを、もっと小さな独立したアイデアに分け、独立したものとして扱うこと。
たとえばマルクス主義者なら、マルクスの偉大なものを、労働価値説、階級間の政治的関係の理論、賃金の理論、人類の最終的な政治体制の理論に分ける。そのうえで、それぞれを独立に評価し、一つの真偽がほかにハロー効果を与えないようにする。それができれば、螺旋からは安全でいられるだろう。一つ一つの理論は、単独で螺旋を起こすには狭すぎるからだ。
比喩的に言えば、臨界未満のプルトニウムの塊が、一つに集まらないようにすることだ。偉大なアイデアが一つあるより、三つあるほうが、気が狂う可能性はずっと低い。アームストロングの助言は、具体性を高める助けにもなる。誰かが「十分な数の論文を出版すれば、がんが治る」と言ったら、すぐ尋ねる。「それは実験的方法の恩恵ですか? そうなら、実験過程のどの段階でがんが治るのですか? それとも、社会的過程としての科学の恩恵ですか? そうなら、個々の科学者ががんを治したいと望む必要があるのですか、それとも利己的でもよいのですか?」。うまくいけば、好悪の感情から離れ、混乱や根拠不足に気づく方向へ導かれる。
まとめると、幸福な死の螺旋を避ける方法は、次のとおりだ。
- 偉大なアイデアを部分に分ける。
- 追加される細部はすべて、立証の負担が増すものとして扱う。
- 好悪の感情ではなく、因果の連鎖の具体的な内容を考える。
- 証拠を繰り返し唱えない。
- 「間違っていると証明できない」主張から、幸福感を追加しない。
一方、次の方法ではない。
- 何であれ、あまり強く称賛しないことにする。
- 再び不愉快になるまで、否定的な点を偏って探す。
- アイデアを、安全な箱に無理やり押し込める。