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ときどき、無神論は「宗教」なのかと人々が言い争っているのを見かける。別のところの「目的と実用主義」でも触れたが、言葉の意味をめぐって議論しているときは、ほぼいつも、もともとの問いを見失っている。そもそも、この議論はどのように始まるのだろうか。
無神論者が熱弁を振るい、異端審問、十字軍、イスラムとの対立やイスラム内部のさまざまな争いを、「宗教」のせいだと責めている。宗教を信じる人はこう返すかもしれない。「でも無神論も宗教だ。あなたも神についての信念を持っている。神はいないと信じているではないか」。すると無神論者は、「無神論が宗教なら、切手を集めないことは趣味になる」と答え、言い争いが始まる。
あるいはこう返すかもしれない。「だが、同じくらい恐ろしいことをしたスターリンは無神論者で、無神論の名のもとに教会を弾圧した。だから、暴力を宗教のせいにするのは間違いだ」。今度は無神論者が「スターリンの宗教は共産主義だった」と言って、「真のスコットランド人」の論法を使って言い返したくなるかもしれない。宗教を信じる人は、「共産主義が宗教なら、スター・ウォーズのファン集団は政府だ」と答え、言い争いが始まる。
「宗教的な」人とは、少なくとも一柱の神の存在について明確な意見を持つ人と定義すべきだろうか。たとえば、ゼウスが存在する確率を10%未満、または90%超とする人だ。それとも、少なくとも一柱の神の存在を肯定的に、たとえば90%超の確率で捉える人と定義すべきだろうか。前者ならスターリンは「宗教的」であり、後者なら「宗教的ではない」。
だが、それはまさに問題の捉え方が間違っている。本当に知りたいこと、議論のもともとの主題は、人類の歴史のある時点で、なぜ大勢の人が、表向きはある思想の名のもとに虐殺され、拷問されたのかということだ。言葉を定義し直しても、歴史上の事実はどちらにも変わらない。
共産主義は複雑な惨事であり、単一のなぜ、つまり因果の鎖の中のたった一つの決定的なつながりはないかもしれない。だが、根源的な誤りを一つ挙げるとしたら……そうだ、代わりに神に語ってもらおう。
あなたと父または母を同じくする兄弟、あなたの息子や娘、あなたが抱く配偶者、あるいは最も親しい友が、ひそかにあなたを誘い、「行って、他の神々に仕えよう」と言ったなら――あなたも、あなたに先立つ祖先も知らなかった神々、近くであれ遠くであれ、世界のどこかの、あなたを取り囲む民の神々に――あなたは同意してはならない。彼の言葉に耳を貸してはならない。彼を哀れんではならず、見逃してはならず、その罪を隠してはならない。いや、彼を殺さなければならない。彼を死に至らしめる最初の一撃はあなたの手で加え、その後に他のすべての民の手が続かなければならない。あなたは彼を石打ちにして殺さなければならない。彼はあなたの神ヤハウェから、あなたをそらそうとしたからだ。
これは同じく、スターリンが共産主義に、ヒトラーがナチズムに課した規則だった。兄弟がマルクスはなぜ間違っているかを話そうとしたら、息子がユダヤ人は世界征服を計画していないと話そうとしたら、議論したり自分の証拠を示したりしてはならない。再現可能な実験をしたり、歴史を調べたりしてはならない。すぐに秘密警察へ突き出せ、ということだ。
私は、感情の死のスパイラルに抵抗する鍵の一つとして、「細部には立証の負担が伴う」という原則を提案した。「偉大な思想」について新しい好ましい主張が加わるたび、その具体的な細部を疑問に付すことを、ただ忘れないようにするのだ。(これは些細な助言ではない。未来学者が明日の驚異について、驚くほど細かな予測を描くのを聞くとき、人はしばしばこれを忘れる。まして、大好きな思想について考えているときはなおさらだ。)これでハロー効果がなくなるわけではない。だが、共鳴を臨界未満に抑え、一つの好ましく聞こえる主張から生まれる新しい好ましい主張が、平均して1.0個未満になることを期待できる。
この助言の正反対で、ハロー効果を超臨界にするのは、偉大な思想についての好ましい主張ならどれであっても、反論するのは悪いことだと感じられる状態だ。政治は心を殺す。論拠は兵士である。どちらの側につくか決まったら、有利な主張はすべて支持し、不利な主張にはすべて反論しなければならない。そうしなければ、敵を利すること、あるいは味方を後ろから刺すことと同じになる。
もし……
- ……進化を支持する、好ましいが欠陥のある主張をした人に反論すると、創造論者を利することになると感じるなら、
- ……神についてよいことを言うたびに霊的な功徳が得られ、それに異を唱えると神との関係が損なわれると感じるなら、
- ……今回の戦争に反対すると、「われわれの兵士を支持しない」ことを理由に、その場の人々に嫌われるとはっきり感じるなら、
- ……共産主義に反することを少しでも言えば、
石打ちで殺される銃殺されるなら、
……感情の死のスパイラルは、超臨界に達している。今や、超・幸せな死のスパイラルだ。
「何が虐殺を生むのか」という最初の問いにとって、鍵となる分類は、宗教そのものではない。「超自然的」世界観と「自然主義的」世界観の区別として私が聞いた中で最もよいものは、前者は霊のような、存在論的に基本的な心的実体の存在を主張し、後者は心的現象を非心的な部分に還元する、というものだ。これを問題の原因として注目するのは、宗教を特別扱いする見方に乗ることになる。超自然的な主張を区別する価値はある。それは、かなり根本的な理由から、いつも間違いだと判明するからだ。だが、それでも誤りの一種類にすぎない。
感情の死のスパイラルは、超自然的な信念を核にして始まることがある。とりわけ、頂点に超・幸せな行為者を据え、その行為者について好ましいことを何でも認めるのを主な定義とする一神教や、不信に超自然的な罰が下ると主張するほど巧妙に進化したミーム複合体は、そうだ。だが死のスパイラルは、政治上の新機軸、カリスマ的指導者、人種の宿命への信念、経済学上の仮説からも始まりうる。歴史の教訓は、超自然主義を伴うかどうかにかかわらず、感情の死のスパイラルは危険だということだ。宗教は、誤りの一分類として、核心となる問題であるほど特別なものではない。
サム・ハリスは、信仰を非難の対象にしたとき、核心にもう少し近づいた。好ましい主張が追加されるたびに、それぞれに適切な立証責任を課さなければ、感情の共鳴はきわめて簡単に始まる。気の毒なニューエイジの人々を見てほしい。キリスト教は、信仰のすばらしさを説いて批判への防御を発達させた。ニューエイジの人々は、信仰はよいものだという出来合いの考えを文化的に受け継ぐが、競合するミームを締め出すキリスト教の排他的な聖典は持たない。その結果、星、木、磁石、食事法、呪文、ユニコーンなどを中心とする、幸せな死のスパイラルにはまる……。
だが、批判することが罪や失言や犯罪になったとき、感情の死のスパイラルは、はるかに致命的になる。この世界には大いに称賛する価値のあるものがあり、ある水準を超える称賛は禁じられると一律に言うことはできない。だが、あまりに正しい思想なので、それを支持する議論のどれにも批判してはいけない、ということは決してない。絶対にない。いついかなるときも、永遠にない。これは断言できる。自明でない答えの空間では、ありうる信念の圧倒的多数が偽である。同じように、真の信念を支持する議論も、ありうるものの圧倒的多数は偽だ。どれほど幸せな思想でも、それは変えられない。
そして、批判に暴力で応じることは、三重に超絶禁止だ。人間の合理性の技法にも、もし、でも、ただし、逃げ道の条項が一切ない戒めが、ほんの少しだけある。これがその一つだ。悪い議論には反論で応じる。銃弾では応じない。絶対に。いついかなるときも、永遠に。