非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

合理化

Rationalization

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「結論の一行」では、二つの箱のうち片方だけにダイヤモンドが入っており、さまざまな徴候や前兆を証拠に判断する問題を示した。私は、好奇心に導かれる探究者と、弁の立つ論客とを対比した。探究者は徴候や前兆をすべて書き出し、それらを処理して、最後に「したがって、箱Bにダイヤモンドが入っている確率は85%だと推定する」と書く。論客はもっとも高い報酬を出す依頼人のために働き、まず「したがって、箱Bにダイヤモンドが入っている」と書く。その後で、その上の行に並べるのに都合のよい徴候や前兆を選ぶ。

最初の手続きが合理性である。二つ目の手続きは、一般に「合理化」と呼ばれている。

「合理化」。なんとも妙な言葉だ。私なら間違った言葉だと呼ぶ。すでに合理的でないものを「合理化」することはできない。まるで「嘘をつくこと」を「真実化」と呼ぶようなものだ。

純粋に計算の水準で考えると、次の二つにはかなり大きな違いがある。

  1. 証拠から出発し、確率の流れを計算して、確からしい結論を出力する。(徴候や前兆をすべて書き出し、そこから順方向に進んで、それらの徴候や前兆に依存する確率を最後の行に書く。)
  2. 結論から出発し、確率の流れを計算して、その結論を支持するように見える証拠を出力する。(最後の一行を書き、それから逆方向に進んで、その上の行に提示する徴候や前兆を選ぶ。)

こんなにも異なる心の過程を表すのに、「合理性」と「合理化」などという紛らわしく似た言葉を考え出したのは、いったいどこの愚か者だろう。私なら、「合理性」と「何もかも吸い込む巨大な認知のブラックホール」のように、アルゴリズムの違いが一目瞭然になる用語のほうがいい。

すべての変化が改善とは限らないが、あらゆる改善は必ず変化である。固定された命題を擁護して論じても、それをより真実にすることはできない。信じる人を増やすことはできても、真実の度合いは増やせない。信念を改善するには、必ず信念を変えなければならない。合理性とは、信念を変えることによってその正確さを高めるために用いる操作だ。合理化は、信念をその場に固定するように働く。実際の結果から見ても、アルゴリズムの向きが逆なことから見ても、「反合理性」と呼ぶほうが適切だろう。

「合理性」は、証拠を集め、重みを評価し、結論を出力する順方向の流れだ。好奇心に導かれる探究者は、順方向に流れるアルゴリズムを使った。まず証拠を集め、目に見える徴候や前兆をすべて一覧に書き出し、そこから順方向に処理して、箱にダイヤモンドが入っている、それまで未知だった確率を求めた。合理性の過程が順方向に進んでいる間、探究者はずっと、自分の行き先をまだ知らなかった。だからこそ好奇心を抱いていたのだ。ベイズの道では、事前確率は事後確率の期待値に等しい。行き先がわかっているなら、あなたはすでにそこにいる。

「合理化」は、結論から選別した証拠へ向かう逆方向の流れだ。まず最後の一行を書く。その内容は既知で固定されている。処理の目的は、その上の行にどんな議論を書くべきかを見つけることだ。進行中の過程にとって未知の変数は、最後の一行ではなく、そちらなのである。

残念ながら、伝統的合理性は、順方向と逆方向の流れの違いに、使い手を十分敏感にしていないと思う。伝統的合理性においては、科学者がお気に入りの仮説を思いつき、それを証明する実験を探し始めても、何も悪くない。伝統的な合理主義者は、それを好意的に見て、「この自負こそ科学を前進させる原動力だ」と言うだろう。まあ、科学を前進させる原動力ではある。偏りのない人間を一人見つけるよりも、逆向きに偏った検察官と弁護人を見つけるほうが容易なのだ。

だが、みながやっているからといって、よいことにはならない。科学者がお気に入りの仮説を思いついたとき、好奇心からその仮説を試すことに取りかかり、自分の信念を未知の方向へ動かすような実験を考案するなら、そのほうがさらによいだろう。

本当に自分がどこへ向かうかわからないなら、おそらくあなたはその行き先に強い好奇心を覚えるだろう。好奇心は第一の徳だ。それがなければ、問いかけは目的を失い、技は方向を失う。

フォースの流れを感じ、逆流していないか確かめよう。