Yudkowsky Sequences 日本語訳
非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

科学を広めるには、秘密にせよ

To Spread Science, Keep It Secret

ピタゴラス教団の考えは正しかったのではないか、と時々思う。

そう、私は「科学」が本質的に公的なものだと書いてきた。科学的実験を原理的には自分で再現し、権威に頼らず知ることができる点で、「科学」は単に合理的な知識から区別されると書いた。「科学」は公に利用できる人類の知識と定義すべきだと述べた。オープンアクセス誌に掲載されなかった論文はすべて非科学だと、未来の世代は見なすだろうとさえ示唆した。読むために料金を払わせるなら、人類の公的知識の一部にはなれない、ということだ。

だが、それは未来像の一つにすぎない。別の未来像では、現在「科学」と呼ぶ知識が公的領域の外へ出される――書籍と雑誌は隠され、ローブをまとったグル神秘教団が守り、アクセスするには恐ろしい通過儀礼が必要になる――その結果、より多くの人が実際に科学を学ぶ。

つまり、今この瞬間、人々は科学を学ぶことができるのに、学んでいない

社会心理学では「希少性」と呼ばれる。供給が限られているように見えるものは、より高く評価される。そしてこの効果は情報についてとりわけ強い――秘密だと信じる情報ほど手に入れようとし、手に入れたときにより高く評価する可能性が、はるかに高い。

科学について、人々は情報が自由に手に入るなら重要であるはずがない、と考えるのだと思う。だから代わりに、〈大いなる真理〉を秘密にしておく分別のある教団へ入る。〈大いなる真理〉は実際には意味不明かもしれないが、首尾一貫した科学より満足できる。秘密だからである。

科学は現代の偉大な〈盗まれた手紙〉であり、目の前に置かれたまま無視されている。

確かに科学の開放性は、科学のエリートには役立つ。彼らはすでに通過儀礼を済ませている。だが地球上の残りの人々にとって、科学を自由に利用可能にすることは、書籍を金庫で守り、アクセスするため燃える炭の上を歩かせるより100倍も効果的に、科学を秘密にする。(これは実に恐ろしい試練である。断熱の大いなる秘密は、第三位階の物理学者入門者しか利用できないからだ。)

科学的知識が、利用しにくい有料アクセス誌ではなく、古代の金庫に隠されていたなら、少なくとも人々は金庫へ入ろうと試みるだろう。科学を学ぼうと必死になるだろう。第八位階の物理学者が振るえる力を見て、その説明を知ることは許されないと告げられたなら、なおさらである。

そして、たとえばサイエントロジーを中心とする教団を始めようとすれば、最初はある程度、世間の関心を集めるだろう。だが人々はすぐに、居心地の悪い問いを発し始める。「物理学者のように、第八位階の力を公に実演してみせないのはなぜ?」「数学の達人が一人も、あなたの教団へ入りたがらないのはなぜ?」「開祖が自分の教団の外では何の第八位階でもないのに、なぜ従うべきなの?」「〈破滅の歯科医〉のほうがずっと印象的なことをできるのに、なぜあなたの教団を最初に学ぶべきなの?」

この観点から見ると、数学がピタゴラス教団から脱出したことは、人類にとって重大な戦略的失策だったように思えてくる。

さて、あなたが何と言うかは分かっている。「でも科学は恐ろしい通過儀礼に囲まれている! そのうえ学ぶのが本質的に難しい! なぜそれは数に入らない?」世間は科学が自由に利用できると思っているからだ。学ぶことを許されているなら、学ぶほど重要ではないに違いない。

これは、人々が他人の態度を手がかりにすることから生じる、イメージの問題である。誰でもスーパーマーケットへ入って電球を買えるから、畏敬と崇拝をもって見る者はいない。その物理は秘密ではないとされ(あなたは知らないのに)、新聞には漠然と権威と説得力がありそうな、一段落の説明が載っている――要するに、電球を聖なる神秘として扱う者がいないので、あなたもそうしない。

十字架像のような完全に不活性な物体でさえ、誰もが魔法であるかのように見るなら、魔法になりうる。だが、遠く離れた〈電気技師の僧院〉を見つけるため山へ登らなくても、電球が働く理由を知ることが理論上許されているので、実際にわざわざ学ぶ必要はない。

さて、科学には実際に社会的にも認知的にも通過儀礼があるため、科学者は自分たちの科学に完全に不満なわけではない。問題は、現在の世界では、そもそも科学を学ぼうとする人がほとんどいないことだ。科学は真の〈秘密の知識〉ではありえない。誰でも知ることを許されているからだ――実際には知らないとしても

〈忘れられざるダーウィン〉から伝わる〈自然選択の大いなる秘密〉が、2000ドルを支払い、たいまつとローブと仮面と雄牛の生け贄を含む儀式を経て初めて伝授されるなら、そのとき、化石を見せられ、顕微鏡で網膜を通り抜ける視神経を見せられ、ついに〈真理〉を告げられたとき、あなたは「これは史上もっとも見事なものだ!」と言い、満足するだろう。その後で、別の教団が、実は6000年前に空にいたひげの男の仕業だと語ろうとしたなら、大笑いするだろう。

そしてね、そのように物事を行うほうが、実際もっと楽しいかもしれない。とりわけ次の位階へ進む準備ができたと〈科学先生〉へ伝えられるようになる前に、自分で――一人で、または同級生と一緒に――証拠の一部を組み立てることを通過儀礼が要求するなら。確かに効率的ではないが、楽しいだろう。

もし人類が一度も過ちを犯さず――宗教の道へ一度も進まず、宗教の匂いがするものを恐れることも一度も学ばなかったなら――博士号の授与式には連祷と詠唱が含まれていたかもしれない。何しろ、人々はそれが好きなのだ。なぜ何もかもから楽しさを奪う?

もしかすると、私たちはただやり方を間違えているのかもしれない。

いや、この500年の開放性を逆転させ、すべての科学を秘密に指定しようと、本気で提案しているわけではない。少なくとも今は。現時点では、とりわけ医学研究のような分野では効率が重要である。私が説明しているのは、青さと赤さの言葉にできない違いが単なる原子から生じる仕組みの〈秘密〉を、10万ドル未満では誰にも教えない理由にすぎない――

えへん! つまり、私がこの別の地球の未来像を語るのは、科学を教団と平等に扱ってもらうためだ。科学的真理を学んだとき、その価値にふさわしく守られていないように見えるというだけで、過小評価しないためだ。ローブと仮面を想像しよう。自分が金庫へ忍び込み、失われたニュートンの知識を盗み出すところを思い描こう。そしてローブと仮面を実際に使う組織には、データも見せてくれないかぎり騙されないように。

人々の心には、秘教的知識、深い秘密、隠された真理のためのがあるように見える。そして私はこの心理を批判してさえいない! 量子力学やベイズ構造のような、深く秘密で、秘教的で、隠された真理は実際にある。私たちは〈隠された真理〉を、偽りの日常性に包んだ、ひどく満足できない方法で提示する習慣を身につけてしまっただけだ。

だが秘密の知識のための穴が真の信念で埋まらなければ、偽の信念で埋められる。学ぶべきものは科学以外に何一つない――感情的エネルギーは現実へ投資されるか、まったくの戯言に浪費されるか、破壊されるかのいずれかでなければならない。私自身は、感情的エネルギーを投資するほうがよいと思う。楽しさをむやみに捨てるべきではない。

今、私たちは両世界の悪いところを手にしている。授業は高価で教科書も高価だから、科学は本当には無料でない。だが世間は、誰もが知ることを許されていると思っているので、重要でないに違いない。

理想を言えば、物事を逆に配置したいところである。