非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

ヒューマニズムは宗教の代用品なのか

Is Humanism a Religion Substitute?

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ライト兄弟が現れるよりずっと前から、人々は魔法の薬で空を飛ぶことを夢見ていた。空を飛びたいというむき出しの願いには、何の非合理性もなかった。雲を上から見下ろしたいという願いにも、何らけがれはなかった。非合理的だったのは、「魔法の薬」の部分だけだ。

スペースシャトルの打ち上げを眺めている私をfMRI装置に入れて、脳の活動の様子を動画に撮ったとしよう。(宇宙を訪れたいという願いは「現実的」ではないが、本質的には法則にかなった夢、つまり法則に従う宇宙でかなえられる夢だ。)そのfMRI画像は、敬虔なキリスト教徒がキリスト降誕の場面を見ているときのfMRI画像に似ているかもしれない。似ているかもしれないし、似ていないかもしれない。

実験者がそんな結果を得ようものなら、キリスト教徒にも、一部の無神論者にも、得意げにこう言う人が大勢いるだろう。「ははあ、宇宙旅行が君の宗教なんだな!」

だが、それはカテゴリーの境界を引く場所が間違っている。かつて非合理的な手段で空を飛ぼうとした人がいたのだから、誰も飛行機の窓から眼下の雲を眺めて楽しんではならない、と言うようなものだ。

ロケットの打ち上げが、私に美的な超越感を与えてくれるものだとしても、私はそれを宗教の代用品だとは考えない。それは神をひな型にして物事を捉える見方だ。宗教を信じていない人の心には皆、埋めてもらいたがっている穴があるはずだと決めつけ、得意になっている宗教家の視点である。

もっとも、宗教家にも公平を期すなら、これは得意げな思い込みだけではない。心に宗教の形をした穴が開いている無神論者はいる。宗教の代わりに無神論、さらにはトランスヒューマニズムを据えようとする試みを、私も見たことがある。そしてその結果は、決まってひどい。まったくひどい。徹底的に、情けないほどひどい。

私はそうした試みを、「神の不在をたたえる讃美歌」と呼んでいる。

誰かが無神論の讃美歌を書こうとして、「たたえよ、おお、知性なき宇宙よ」などとやり始めると、出来上がるものは例外なく駄作になる。

なぜか。模倣しているからだ。教会に讃美歌があるのだから、自分たちにもあるべきだ、という漠然とした気持ち以外に、それを書く動機がないからだ。そして純粋に芸術の水準で見れば、それでは、何かの模倣ではなく、感情を独自に表現した本物の宗教芸術より、はるかに劣ることになる。

宗教の讃美歌は、多くの場合、強い思いを抱き、正直に書き、作品の韻律やイメージに真剣に取り組んだ人々によって書かれた。そうした姿勢こそが、彼らの作品に、芸術的な誠実さという気品を与えているのだ。

では、無神論者には讃美歌を持てない運命が待っているのだろうか。

有神論を越えようとする試みには、決定的な試金石がある。それは、こう問うことだ。「もし人類に宗教が一度も存在しなかったら、もし私たちが最初の間違いを一度もしなかったなら、この歌、この芸術、この儀式、この考え方には、それでも意味があるだろうか?」

人類が最初の間違いを一度もしなかったなら、神の不在をたたえる讃美歌はなかっただろう。だが結婚はやはりあったはずだから、無神論の結婚式という発想はまったく筋が通っている。神が存在しない理由について、突然講義を始めたりしなければ、だ。宗教が一度も存在しなかった世界では、誰も結婚式を中断して、縁遠い仮想の概念がいかにもっともらしくないかを語ったりしないからだ。愛、子供、誓約、正直さ、献身については語るだろう。だが、いったい誰が神など持ち出すだろうか。

そして、宗教が一度も存在しなかった人間の世界にも、スペースシャトルの打ち上げを見て目に涙を浮かべる人は、やはりいるだろう。

だからこそ、シャトルの打ち上げを見ると、超越感と結びついた「宗教」関連の脳領域が私の脳で活性化すると実験で示されても、私はそれを宗教の代用品だとは考えない。宗教が一度も発明されなかった世界に住んでいても、同じ理由で同じ脳領域が活性化するだろうと思うからだ。

よい「無神論の讃美歌」とは、歌うに値する何かを歌った、たまたま宗教的ではない歌にすぎない。

それに、愚かさを裏返しても賢さにはならない。世界一の愚か者が太陽は輝いていると言ったとしても、それで外が暗くなるわけではない。大切なのは、表面的なあらゆる点で宗教とできるだけ似ていない生活を作ることではない。それは、神の不在をたたえる讃美歌を生み出すのと同じ発想だ。人類が最初の間違いを一度もしなかったなら、宗教に何となく似ているものを避けようとする人はいないだろう。正確に信じ、それに応じて感じよう。宇宙への打ち上げが実際に存在し、ロケットが昇っていくのを見て歌いたくなるのなら、さっさとその歌を書けばいい。

スペースシャトルの打ち上げで目に涙が浮かんでも、それは宗教の残した穴を埋めようとしているという意味ではない。私の感情的なエネルギー、私が大切に思う気持ちが、現実の世界に結びついているという意味なのだ。

もし神がはっきり言葉を話し、祈りに確実に答えるなら、神も、退屈なほど実在するものが一つ増えるだけで、郵便配達員より特別に信じる価値があるわけではなくなる。神が実在すれば、その埋め合わせとして外向きの熱狂を生む、内心の不確かさは消えてしまう。そして他の人も皆、神は実在すると信じていたら、選ばれた者の一人であるという特別感も消えてしまう。

宇宙旅行に感情的なエネルギーを注ぐなら、そうした弱みはない。スペースシャトルが昇っていくのを実際に見ても、私は畏敬の念を失わずにいられる。他の人が全員、スペースシャトルは実在すると信じても、その特別さが少しでも減るわけではない。私は自分を逃げ場のない隅に追い込んではいないのだ。

神と人類のどちらを選ぶかは、単にどの薬物を選ぶかという話ではない。何よりも、人類は実際に存在するのだ。