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ライト兄弟より何年も前から、人々は魔法の薬で飛ぶことを夢見ていた。飛びたいという生の欲求には何も不合理なところはなかった。雲を上から見下ろしたいという願いには、何も汚れたところはなかった。不合理だったのは「魔法の薬」の部分だけである。
スペースシャトルの打ち上げを見る私をfMRIスキャナーへ入れ、脳の活動水準を動画に撮ったとしよう。(宇宙へ行きたいというのは「現実的」ではないが、本質的に法則的な夢――法則的な宇宙で実現可能な夢――である。)そのfMRIは、降誕場面を見る敬虔なキリスト教徒のfMRIと似るかもしれない――似ないかもしれないが。
実験者がこの結果を得たなら、キリスト教徒にも一部の無神論者にも、得意げにこう言う人が大勢いるだろう。「ははあ、宇宙旅行がお前の宗教なんだな!」
だが、それは誤ったカテゴリーの境界を引いている。かつて不合理な手段で飛ぼうとした人がいたから、飛行機の窓から眼下の雲を見ることを誰も楽しむべきではない、と言うようなものだ。
ロケットの打ち上げによって美的超越の感覚を得られるなら、私はそれを宗教の代用品とは見なさない。それは神型論――信心深くない者は誰でも心に埋めたがっている穴があると仮定する、得意げな宗教者の見方――である。
さて、公平を期して宗教者の側から見れば、これは単なる得意げな仮定ではない。心に宗教の形をした穴を持つ無神論者は実際にいる。無神論、さらにはトランスヒューマニズムを宗教の代わりにしようとする試みを、私は実際に見てきた。その結果は例外なくひどい。徹底的にひどい。絶対的に、卑屈なまでにひどい。
私はそうした試みを「神の不存在を讃える賛歌」と呼ぶ。
誰かが「讃えよ、おお知性なき宇宙よ」云々と、無神論の賛歌を書こうとすれば、その結果は例外なく駄作になる。
なぜか? 模倣しているからだ。教会には賛歌があるから自分たちにも一つ必要だ、という漠然とした感覚以外に、賛歌を書く動機がないからだ。そして純粋に芸術の水準では、そのことによって、何かの模倣ではなく感情の独自な表現である本物の宗教芸術より、はるかに下に置かれる。
宗教的賛歌は(しばしば)、強く感じ、正直に書き、作品の韻律とイメージへ真剣な努力を注いだ人々によって書かれた――それが、その作品にある芸術的誠実さの優美さを与える。
では、無神論者には永遠に賛歌がないのだろうか?
有神論後の試みには決定的な試験がある。その試験はこうだ。「人類の間に宗教が一度も存在しなかったなら――私たちが最初の過ちを一度も犯さなかったなら――この歌、この芸術、この儀式、この考え方は、それでも意味をなすだろうか?」
人類が最初の過ちを一度も犯さなかったなら、神の不存在を讃える賛歌はないだろう。だが結婚は依然としてあるから、無神論の結婚式という観念は完全に意味をなす――神は存在しないという講義を突然始めないかぎり。宗教が一度も存在しなかった世界なら、遠く離れた仮想的概念のありそうもなさを語るため、結婚式を中断する者はいないだろう。愛、子ども、約束、誠実、献身について語るだろうが、いったい誰が神など持ち出す?
そして宗教が一度も存在しなかった人間世界にも、スペースシャトルの打ち上げを見て目に涙を浮かべる人はいるだろう。
だから、実験によって、シャトルの打ち上げを見ると超越感に関係する、脳の「宗教」関連領域が光ると分かったとしても、私はそれを宗教の代用品とは見なさない。宗教が一度も発明されなかった世界に住んでいても、同じ理由で同じ脳領域が光ると予想する。
優れた「無神論の賛歌」とは、たまたま宗教的でない、歌う価値のある何かについての歌にすぎない。
また、愚かさを反転しても知性にはならない。世界一の馬鹿が太陽は輝いていると言うかもしれないが、だから外が暗くなるわけではない。重要なのは、あらゆる表面的側面において、できるかぎり宗教に似ていない人生を作ることではない――それは神の不存在を讃える賛歌を生み出すのと同じ種類の思考である。人類が最初の過ちを一度も犯さなかったなら、宗教にぼんやり似たものを避けようとする者はいないだろう。正確に信じ、それからそれに応じて感じよ。宇宙打ち上げが実際に存在し、ロケットが昇るのを見て歌いたくなるなら、いいから歌を書け。
スペースシャトルの打ち上げで私の目に涙が浮かんでも、宗教の残した穴を埋めようとしているという意味ではない。私の感情的エネルギー、私が大切に思う心が、現実世界へ結びついているという意味である。
もし神が明瞭に語り、祈りに確実に答えたなら、神は退屈なほど現実的なものの一つになるだけで、郵便配達人以上に信仰する価値はなくなる。神が現実なら、埋め合わせとして外向きの熱狂を生む、内なる不確実性を破壊する。そしてほかの誰もが神を現実だと信じるなら、選民の一人であるという特別さを破壊する。
感情的エネルギーを宇宙旅行へ投じるなら、そうした脆弱性はない。スペースシャトルが昇るのを、畏敬を失わずに見られる。ほかの誰もがスペースシャトルは実在すると信じても、その特別さは少しも失われない。私は自分を袋小路へ追い込んでいない。
神と人類の選択は、単なる薬物の選択ではない。何よりも、人類は実際に存在する。