非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

発見する喜び

Joy in Discovery

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ニュートンは、かつて生きた最も偉大な天才であり、最も幸運な人でもあった。世界の体系を見いだして確立することは、二度とはできないからである。

私は、教科書で読むより、自分で発見するほうが楽しい。それは正しく、もっともなことで、当然でもある。

だが、ほかの誰も知らないことを発見し、その秘密を最初に解き明かすのは――。

こんな話がある。恒星が核融合で燃えていることに最初に気づいた人の一人が――私が見たもっともらしい説では、フリッツ・ホウターマンスともハンス・ベーテともされる――ある夜、恋人と歩いていた。彼女が星の美しさについて何か言うと、彼は答えた。「ああ。そして今、なぜ星が輝くのか知っているのは、世界中で僕一人なんだ」

大きな謎を最初に解く人になるという経験が、ものすごい高揚感をもたらすことは、数々の情報源が証言している。おそらく、薬物を使わずに得られる、薬物使用に最も近い体験なのだろう。私には分からないが。

それは健全ではないはずだ。

陶酔感に反対しているのではない。気になるのは、独り占めという条件だ。なぜ、ほかの誰かがすでに答えを知っているだけで、発見の価値が下がるのか。

この心理に対する最も好意的な解釈は、図書館で調べれば済む問題には、何か月も何年も取り組まない、というものだ。そして大きな高揚感が生じるのは、思いつくかぎりの角度から問題に挑んでは跳ね返され、考えられるすべての発想と手に入るすべてのデータを使って、何度も分析し直し、少しずつ前進してきたからだ。ついに問題を突破したとき、ばらばらだった断片と未解決の問いが、一度に収まるべき場所に収まる。まるで、一つの手がかりで十数件の密室殺人事件が一斉に解けるように。

しかも、そこで得る理解は本物の理解だ。まだ答えを知らなかったころ、問題を解くために調べた、あらゆる手がかりを含む理解である。毎日問い続け、問いを手放さず考えることで生まれる理解である。問題が解かれたあとでも、その歴史的な文脈に沿って何か月も研究しなければ、いくら答えを教えても、ほかの誰にも得られない理解だ。それでも、一気に解けたときの高揚感までは得られない。

これが、ジェームズ・クラーク・マクスウェルがマクスウェル方程式を発見したときのほうが、あなたがそれを読んだときより楽しかったかもしれない、一つの理由である。

少し好意を減らした解釈では、その高揚感は、社会心理学のお上品な言い方で「コミットメント」「一貫性」「認知的不協和」と呼ぶものから生じる。手に入れるのに苦労したというだけで、それを高く評価する部分のことだ。学生友愛会の入会希望者に厳しい入会儀式を課すと、会の価値をより強く信じるようになるという研究や、高価なボトルに入れた同じワインのほうがおいしいと評価される話などが、これに当たる。

もちろん、考える作業そのものが楽しいから、パズルの答えを聞くより自分で解くほうが楽しい、というだけなら何も悪くない。好意的でない解釈が当てはまるのは、パズルの答えを聞くのに100ドル取られたせいで、無料で答えを知ったときより、答えが面白く、価値があり、重要で、意外だ、などと思ってしまう場合である。

(科学が一般の人々にうまく理解されない問題の大きな部分は、無料で配られる知識なら重要なはずがない、と本能的に信じる人々にあるのではないかと、私は強く疑っている。進化についての真実を教わるために恐ろしい入会儀式を経験しなければならなかったら、人々はもっと答えに満足するのかもしれない。)

本当に好意的でない解釈は、最初の発見の喜びは地位の問題だ、というものだ。競争。希少性。誰よりも先んじること。家が3部屋か4部屋かは関係ない。大切なのは、お隣のジョーンズ家より大きな家を持つことだ。ジョーンズ家がもっと小さいと保証できるなら、2部屋の家でも構わない。

原則として競争に反対しているわけではない。囲碁はゼロサムだが、野蛮だから禁止すべきだとは思わない。だが、科学的発見の陶酔的な喜びが、希少性の問題でなければならないなら、ある真実について、その喜びを得られるのは、一つの文明につき一人だけになる。

科学的発見の喜びが、一つの発見につき一回きりなら、楽しさの理論の観点では、ニュートンはおそらく、地球に起源を持つ知的生命の全歴史で得られる「物理学の楽しみ」の、かなりの量を使い果たしてしまった。あの身勝手なやつは、惑星の軌道だけでなく潮の満ち引きまで説明してしまったのだ。

実際には、状況はもっと悪い。物理学の標準模型――ほかの全員にパズルの答えをばらした連中が発見したもの――では、宇宙は空間的に無限で、インフレーションで分岐し、デコヒーレンスでも分岐する。つまり、現実は少なくとも三つの異なる仕方で、指数関数的または無限に大きい。

だから、異星人も、別のニュートンも、あるいはテグマーク的なニュートンの複製も、私たちのニュートンより先に重力を発見していたかもしれない。そのような隔たりに対して「先に」という言葉が何かを意味すると思うなら、だが。

初めてこれを思いついたとき、私はむしろ、かなり明るい気持ちになった。広大な時空のどこかでは、答えられる問いならどんな問いにも、すでに答えを知る誰かがいる。生物学の問いにも、歴史の問いにもだ。デコヒーレンスで分かれた別の地球があるのだから。そのことに気づくと、発見の喜びを一人に限るべきだと考えるのが、いかにばかげているか分かった。

その考えは、逃げようのない、解消できない実存的不安の源になってしまう。私はそれを、背理法による反証だと見なしている。

楽しみの可能性を保てる首尾一貫した解決策は、ほかの人が何を知っているかを気にするのをやめることだ。あなたが答えを知らないなら、それはあなたにとって謎である。手を上げ、指を握って拳を作れるのに、脳がどうやってそうさせているか、あるいは皮膚の下に具体的にどんな筋肉があるかさえ分からないなら、自分は狩猟採集民と同じくらい無知だと考えなければならない。確かに、ほかの誰かは答えを知っている。だが、狩猟採集の時代にだって、別の地球の誰かや、そう言うなら未来の誰かが、答えを知っていた。謎と、それを解く喜びは、個人的なものか、そもそも存在しないものか、どちらかだ。私は個人的なものだと言うほうを選ぶ。

自分の文明がまだ知らないことを教えて役立つ喜びは、確かに、一つの文明で一つの発見につき一度きりになりがちだ。その種の価値は、ノーベル賞と同じように、総量が保存される。そして、その報酬への期待があるからこそ、本当に深い理解を育てるのに必要な何年間も、一つの問題へ集中し続けられるのかもしれない。加えて、自分の文明がまだ答えを知らない問題に取り組めば、ネタバレを読んでしまうのを確実に避けられる。

だが、合理主義者は楽しみが少ないという考えを覆す、私の包括的な取り組みの一環として、私は世界のうち、あなたが個人的には理解していないあらゆる部分に、魔法と謎を取り戻したい。時空の遠い彼方に、あるいはすぐ隣の家の人の頭の中に、どんな知識が存在していようとも。あなたが知らないなら、それは謎だ。では、自分の知らないことが、いったいどれほどあるか考えてみよう!(何も思いつかないなら、別の問題を抱えている。)世界が急に、ずっと謎めいて、魔法に満ちて、面白い場所にならないだろうか。まるで別の次元へ飛ばされ、すべての法則を一から学ばなければならなくなったように。

ある友人が、君は世界を初めて見たかのように眺めるね、と言ったことがある。いい褒め言葉だな、と思った……待てよ! 実際、今まで見たことなんてないじゃないか! え、ほかの人はみんな予告編を見せてもらったの?