非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

群選択主義の悲劇

The Tragedy of Group Selectionism

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1966年以前には、真面目な生物学者が、今なら魔術的思考と見なすような進化の仮説を唱えるのも珍しくなかった。この混乱した考えは、その後の進化理論の発展に、歴史上重要な役割を果たした。誤りが訂正を呼び起こしたのだ。イングランドの王たちの愚行が、マグナ・カルタと立憲民主政の誕生を促したように。

そんな夢想の例として、ヴェロ・ウィン=エドワーズ、ウォーダー・アリー、J・L・ブレアトンらは、捕食者は生息地で増えすぎて獲物を食べ尽くさないよう、自発的に繁殖を控えると考えていた。

だが、進化は、どんな目的でも持ち込んでよいと門戸を開くものではない。ガラガラヘビが音を立てるのは、そうしなければかまれる他の動物を利するためだ、と説明することはできない。遺伝子がいつ広まるべきかを決める、外部の進化の妖精などいない。遺伝子の効果が、何らかの仕方で、その遺伝子を次世代にもっと広める直接の原因にならなければならない。ウサギを食べ尽くしたキツネの個体数が激減するのを見て、人間の美意識が「何とかするべきだった!」と叫ぶのは、よくわかる。だが、よりによって繁殖を抑える遺伝子複合体が、どうやって自分の頻度を次世代で高められるのか。

人間が、鉄道模型のような娯楽として、小さな整った生態系のおもちゃを設計するとしよう。丹念に作ったキツネとウサギの集団が、キツネがウサギを食べ尽くし、その後自分たちも飢え死にすることで自滅したら、いらだつかもしれない。だから人間は、生態系がきれいに整って見えるまで、おもちゃをいじるだろう。人間の心にすぐ浮かぶ明白な解決策は、キツネの繁殖を抑える仕組みだ。もちろん自然にはそんな人間はいない。だがそんなことで止まる必要はない。美的な理由から自分たちが何を望むかはわかったのだから、自然にも進化上の理由から同じことを望むよう説得する、もっともらしい議論を考えればよいのだ。

明らかに、個体の水準での選択は、個体による繁殖の自制を生まない。自制せずに繁殖する個体は、当然、自制する個体より多くの子を残す。

(個体選択は、個体が繁殖機会を犠牲にすることを生まない。利用可能な資源をすべて獲得したあと、それを使って小さい卵を八個でなく、大きな卵を四個産む個体なら、もちろん生み出しうる。それは社会全体の資源を節約するためではなく、その個体にとって、卵の数×卵の生存確率が最もよくなる点だからだ。これで共有資源の問題がなくなるわけではない。)

だが、種の個体群が、ほぼ隔離され、ときおりしか交雑しない部分集団に分かれているとしよう。すると、繁殖を控える部分集団は絶滅しにくく、もっと多くの移住個体を送り出し、崩壊した集団の領域に新しい集団を作って再び住みつくだろう。

この筋書きの問題は、数学的に不可能だったことではない。可能ではあるが、非常に難しいことだった。

根本的な問題は、繁殖を控える利益を得るのが、控える個体だけではないことだ。一部のキツネがウサギを食べる子を産むのを控えても、食べ残されたウサギを得るのは、繁殖抑制の適応を持つ子だけではない。自制しないキツネと、そのはるかに多くの子たちが、狩られずに残ったウサギを喜んで食べる。自制する遺伝子がこの圧力に負けずに残れる唯一の道は、自制の利益が、自制する者に優先的に行き渡ることだ。

具体的な条件は、C/B < FSTである。Cは利他行動をする側の費用、Bは受け手の利益、FSTは個体群の空間構造を表す。無作為に選んだ個体と、その隣接個体を無作為に選んだときの、平均的な血縁度だ。ここで「隣接個体」とは、利他的なキツネの自制の恩恵を受ける他のキツネをいう。1

では、キツネとウサギの個体群の実際の空間構造に比べて、繁殖抑制の費用は十分小さく、飢饉が減る実際の利益は十分大きいので、群選択の議論は成り立つのだろうか。

数学からは、その可能性はかなり低そうだ。たとえばこのシミュレーションでは、利他的な個体の費用は適応度の3%、全員が利他的な集団の適応度は全員が利己的な集団の二倍、部分集団の大きさは25個体、すべての死亡の20%は他の集団からの移住個体で補われる。その結果は、利己性と利他性の両方が残る多型になる。部分集団を二倍の50個体にすると利己性が固定する。利他行動の費用を6%にしても利己性が固定する。利他的な利益を半分にすると、利己性が固定するか、圧倒的多数になる。利他行動の費用が10%を超えても群選択が働くには、近隣の集団は5個体程度と非常に小さくなければならない。繁殖を控えるキツネがこれに当てはまるとは思えない。

ここまで読めば、群選択主義者が最終的に科学的論争に負けたことは想像できるだろう。決め手は数学的な議論ではなく、実際の観察だった。キツネは繁殖を控えていなかったのだ。(実際に争点となった種は忘れた。キツネとウサギではなかった。)実際、捕食者と被食者の系は、しょっちゅう崩壊する。群選択主義はその後、かなり違う形で、ある程度復活した。数学的には、近隣構造は存在し、それはゼロでない群選択圧を意味する。対抗する個体選択圧に勝てるとは限らないが、考慮しなければ計算は間違う。ただそれだけだ。また、進化した強制機構は、もとは仮定されていなかったが、状況を一変させる。では、今や歴史となったこの科学上の論争は、なぜOvercoming Biasで扱う価値があるのか。

論争から十年後、ある生物学者が興味深い考えを思いついた。群選択が個体選択に勝るための数学的条件は、自然界には見つからないほど極端だった。ならば実験室で人工的に作ってはどうか。マイケル・J・ウェイドはまさにそれを行い、部分集団あたりの成虫数が少なくなるよう、昆虫の集団を繰り返し選択した。2結果はどうだったか。昆虫は繁殖を控え、皆に十分な食べ物がある、静かで平和な暮らしをしたのだろうか。

違う。成虫は、卵と幼虫、とりわけ雌の幼虫を共食いするよう適応した。

当然ながら、部分集団の規模を小さくする選択は、自分の繁殖を抑える個体を選ぶのではない。他の個体の子を食べる個体を選ぶ。とりわけ、女の子を。

この実験結果がわかると――後知恵では圧倒的に明白なのだが――もとの群選択主義者たちが、人間の美意識という夢想によって、自然に関する予測を曇らせていたことが、突然はっきり見えてくる。

これは、先に決めた結論に後づけの理屈をつけ、見せかけの正当化を作り、そのまま都合よく探索を打ち切ったために、第三の選択肢を見逃した典型例だ。群選択主義者は、澄んだ新鮮な心で出発し、たまたま群選択の考えに出会い、結果を中立的に予測したのではない。ウサギの個体群が耐えられる範囲まで、キツネが自発的に繁殖を控え、自然が完全に調和するという美しい考えから出発した。それから、なぜそうなるのかという理由を探し、群選択の考えにたどり着いた。そして、群選択の結果がどうあってほしいかを知っていたので、群選択がむしろ促しそうな、もっと美しくない適応は探さなかった。もし本当に、飢饉に強い小規模な部分集団を選択した結果を冷静かつ中立的に予測しようとしていたなら、個体が繁殖を自制するという、進化上あまりにも異様なことを考えるずっと前に、他の生物の子の共食いや、同じように「醜い」結果を思いついただろう。

これは、「アインシュタインの傲慢さ」で私が伝えようとした点も示している。答えの空間が大きいとき、実際の仕事のほとんどは、一つの答えを、注目されるところまで押し上げることに費やされる。仮説が不適切な仕方で注意を引いたなら――美意識が自然の美しいあり方を示唆したのに、自然選択にはその美意識を共有する進化の妖精などいないのなら――、心を完全に白紙にしてやり直せない限り、それだけで破滅が決まってしまうかもしれない。

原理的には、世界一の愚か者が太陽は輝いていると言っても、それで外が暗くなるわけではない。LSDで正気を失った人が示した答えでも、賛否の証拠を中立的に計算し、必要なら信じるのをやめることができるはずだ。

実際には、群選択主義者の結論は美意識から最初に提示されたのに、自然の結論は自然選択から生まれた。そのため彼らは、初めから失敗する運命だった。この二つの過程の出力が相関する原理的な理由はなく、実際に相関しなかった。後からどれほど激しく議論しても、それは変わらなかった。

自然に何をしてほしいかという自分の願いから出発し、観察された自然の側の理由を考え、それから、自然自身の理由によって自分の望む結果が出るはずだという、極めて説得力のある理屈をこじつけても、残念ながら自然はやはり耳を貸さない。宇宙には心がなく、巧妙な政治的説得は通じない。重力によって水は坂を上るはずだと一日中議論しても、水は結局同じところに行き着く。まるで宇宙がまったく聞いていないかのようだ。J・R・モロイはこう言った。「自然は究極の偏屈者だ。自分の偏見に頑固かつ不寛容に忠実で、人間の最も説得力のあるこじつけにも、一切譲ろうとしないのだから」。

私が友人によく進化生物学を勧めるのは、現代のこの分野が、学生を後づけの理屈に陥らないよう訓練しようとしているからだ。誤りが訂正を呼び起こす。物理学者や電気技術者は、電子を擬人化しないよう入念に訓練される必要はない。電子は心らしい振る舞いを示さないからだ。自然選択は、人間には異質な目的らしさを作り出すため、進化理論を学ぶ学生には、その点の注意が与えられる。これはどんな思索者にもよい訓練だが、自分とは違う仕方で働く、他の奇妙で心らしい過程について明晰に考えたいなら、とりわけ重要になる。

David Sloan Wilson, “A Theory of Group Selection,” Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 72, no. 1 (1975): 143–146. ↩

Michael J. Wade, “Group selections among laboratory populations of Tribolium,” Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America 73, no. 12 (1976): 4604–4607, doi:10.1073/pnas.73.12.4604. ↩