非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

サバンナの詩人たち

Savannah Poets

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詩人たちは、科学は星の美しさを奪い、ただの気体原子の塊にしてしまうと言う。何ものも「ただの」ものではない。私も砂漠の夜に星を眺め、それを感じることができる。だが、私が見ているものは、少ないのか、多いのか。

天の広大さは私の想像力を広げる。この回転木馬に縛りつけられながら、私の小さな目は百万年前の光を捉えられる。巨大な模様、その一部が私だ。私を形作る物質も、忘れられたどこかの星から吐き出されたのかもしれない。あそこにある星が、今まさに吐き出しているように。あるいは、パロマーの大きな目で見てみよう。かつては一緒だったかもしれない共通の出発点から、すべてが離れていく。その模様とは、意味とは、理由とは何なのか。少し知ったところで、謎は損なわれない。

真実は、過去のどんな芸術家の想像よりも、はるかに驚くべきものだからだ! なぜ現代の詩人たちはそれを語らないのか。ジュピターが人間のようなら語れるのに、巨大なメタンとアンモニアの球が回転しているとなると黙ってしまうとは、いったいどんな詩人なのか。

最後の行にあるのは、本物の問いだ。神であるジュピターについては書けるのに、巨大な球である木星については書けないとは、どんな詩人なのか。ファインマンが修辞的な疑問のつもりで言ったかどうかにかかわらず、これには本当の答えがある。

ジュピターが私たちのようなら、恋をし、愛を失い、再び愛を得られる。

ジュピターが私たちのようなら、奮闘し、栄え、引きずり下ろされる。

ジュピターが私たちのようなら、笑い、泣き、踊れる。

木星が巨大なメタンとアンモニアの回転する球なら、詩人が私たちの感情を動かすのは、もっと難しい。

偉大な物語は時を超え、決して変わらず、ただ語り直されるだけだと言う詩人や語り手がいる。シェイクスピアとソフォクレスは、何世紀もの隔たりなどよりずっと強い、技芸の絆で結ばれていると、彼らは誇らしげに言う。この二人の劇作家は、時代を入れ替えても何の違和感もなかっただろう、と。

ドナルド・ブラウンはかつて、サンフランシスコからカラハリ砂漠のクン族に至るまで、調査した人間文化のすべて、または圧倒的大多数に見られる、二百を超える「人間の普遍的特性」を一覧にした。結婚、近親相姦の回避、母の愛、きょうだい間の競争、音楽、嫉妬、踊り、物語、美意識、病人を治す呪術の儀式、そして間を置いて区切る行を声に出して語る詩――。

進化心理学を少しでも知る人が、これを否定するとは思えない。最も強い感情は、私たちの血と骨、脳とDNAに、深く刻み込まれている。

少し手直しは要るかもしれないが、祖先のサバンナでたき火を囲みながら、「ハムレット」を語ることはおそらくできるだろう。

だから、「虹をほどく」と書いたジョン・キーツが、虹は雨粒で散乱した太陽光だと教わって、何かが失われたと感じた理由は分かる。雨粒は踊らない。

旧約聖書には、神がかつて全土を覆う洪水で世界を滅ぼし、恐ろしく罪深い男女と、その恐ろしく罪深い赤ん坊たちを、ことごとく溺死させたと書かれている。だがノアが巨大な木の箱舟を造り、等々。そして人類の大半を消し去ったあと、神は二度とそうしないしるしとして、空に虹を置いた。少なくとも、水では。

この美しい物語が現代科学に否定されて、キーツが衝撃を受けるのも分かる。とくに、前の論考で述べたように、虹を本当には理解しておらず、失われたドラマに代わる、それ自体で魅力的な「ああ、そうか!」という洞察を得ていなかったのなら――。

いや、数学を知っていたとしても、失望するキーツのほうが正しいかもしれない。聖書の虹の物語は、血に飢えた殺戮と、ほほえむ狂気の物語だ。雨粒や屈折についての何が、それに十分取って代われるだろうか。雨粒は死ぬときに叫ばない。

だから科学はロマンを奪い、返してくれるものは、もとのドラマには決して及ばない、とロマン派の詩人は言う――。

つまり、もとの思い込みのドラマには。

――たとえ方程式を知っていても、方程式は強い感情についてのものではないからだ。

これが、ロマン派の詩人がファインマンに返せる、私に思いつく最強の反論だ。実際に誰かが言ったのを聞いた覚えはないが。

私がロマン派の詩人に同意しないことは、想像がつくだろう。私自身の立場はこうだ。

ジュピターが人間のようである必要はない。人間が人間のようなのだから。木星が巨大なメタンとアンモニアの回転する球だからといって、宇宙から愛や憎しみが消えるわけではない。宇宙には今も、愛し憎む心がある。私たちだ。

最後に数えた時点で、私たちは60億人を超えている。木星まで主人公候補に入れる必要が、本当にあるのだろうか。

惑星や虹について、偉大な物語を語る必要はない。そうした物語は、世界中で毎日起きている。毎日、誰かが復讐のために人を殺す。毎日、誰かが誤って友人を殺す。毎日、十万人を超える人々が恋に落ちる。そうでなかったとしても、木星ではなく、人間についてのフィクションを書けばよい。

地球は古く、太陽の下で同じ物語を何度も繰り返してきた。そろそろ偉大な物語の一部は変わってもよいのではないかと、私は思う。少なくとも私には、「さようなら」という物語は、魅力を失った。

偉大な物語は時を超えて不変ではない。人類が時を超えて不変ではないからだ。人類の進化を十分にさかのぼれば、ハムレットを理解できる者はいなくなる。もっと時間をさかのぼれば、脳は一つも見つからなくなる。

偉大な物語は永遠ではない。人類という種、ホモ・サピエンス・サピエンスが永遠ではないからだ。今の姿のまま、あと千年を過ごすとは、私は心底思えない。悲しんで言っているのではない。私たちはもっとよくなれると思う。

未来に、偉大な物語のすべてが完全に失われるのは、見たくない。その結末と、太陽がブラックホールへ落ちることとの間に、私はほとんど違いを認めない。

だが、偉大な物語は今の形で、すでに何度も何度も語られてきた。その一部が形を変えたり、結末の種類を増やしたりしても、悪いことだとは思わない。

「そして、いつまでも幸せに暮らしました」は、少なくとも一度は試す価値がありそうだ。

人類が成熟するにつれて、偉大な物語も多様化できるし、そうなるべきだ。その倫理の一部には、未知の異質なものに出会ったら、それを尊重し、その物語をありのままに語るべきだ、という考えがある。詩を書くのが少し難しくなるとしても。

巨大なメタンとアンモニアの回転する球をたたえる頌歌を書けるほどの詩人なら、現実の宇宙の新たに発見された部分について、独創的な何かを書いていることになる。ハムレットほど劇的でも、人を引きつけるものでもないかもしれない。だが、ハムレットの物語はもう語られたのだ! 木星を人間のように書けば、宇宙の地図から複雑さを、さらに少し奪ってしまう。地球ですでに語られた物語すべての型に、木星を押し込めることになる。

ジェームズ・トムソンの「アイザック・ニュートン卿の追憶に捧げる詩」は、虹を、その本当の姿のままにたたえている。この詩が、愛され、失われたジョン・キーツのラミアほど心をつかむかどうかは、議論してよい。だが、愛、喪失、冷笑の物語は、遠い古代ギリシャで、そして疑いなく、それより前にも何度も、すでに語られていた。虹を、人間の形をした魔法の物語とは違うものとして理解するまで、虹の真の物語を詩にすることはできなかった。

SFとスペースオペラの境界は、かつて次のように引かれた。筋書きを変えずに西部開拓時代や中世へ移せる物語なら、それは本物のSFではない。本物のSFでは、科学が筋書きに本質的に組み込まれている。宇宙からサバンナへ物語を移せば、何かが失われずには済まない。

リチャード・ファインマンは尋ねた。「ジュピターが人間のようなら語れるのに、巨大なメタンとアンモニアの球が回転しているとなると黙ってしまうとは、いったいどんな詩人なのか?」

それはサバンナの詩人だ。一万年前のたき火の周りでも理解できたであろう物語しか語れない詩人たち。偉大な物語を古典的な形で語ることしかできず、それ以上は何も語れない、サバンナの詩人たちである。

リチャード・P・ファインマン、ロバート・B・レイトン、マシュー・L・サンズ、ファインマン物理学、全3巻(マサチューセッツ州レディング:Addison-Wesley、1963年)。 ↩︎