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Less Wrongには、さほど隠されていない狙いがある。合理性が広まることで恩恵を受ける大義は数多い、というものである。というのも、そうした大義を支持すべき理由を理解するには――単に好意的な傍観者になるだけでも――普通より少し高い合理性が要るからだ。これは無神論のような分かりやすい大義に限らない。たとえばマリファナ合法化もそうである。人々が自分の動機やシグナリングの性質をもう少し自覚し、都合の悪い冷厳な事実にもう少し動かされてくれれば、と願わずにはいられない分野である。機械知能研究所は、この傾向が異例なほど極端に現れた一例にすぎない。何年も行き詰まった末、私はついに匙を投げ、合理主義者を生み出すという仕事そのものへ明示的に再帰するところまで来たのである。
だがもちろん、私が生み出す合理主義者の全員が私自身の計画に関心を持つわけではない――それでよい。自分が生み出した価値のすべてを回収することはできないし、回収しようとすれば悪い副作用が生じうる。
ほかの大義の支持者たちも、同じように考えられるほど啓発されているなら……。
そうすれば、合理性の普及から恩恵を受ける大義はすべて、支持者に示せるある種の標準教材を持てるかもしれない。労力を節約するために一元化された共通の仕事であり、自分たちは本来の活動のかたわら、合理性も少し広めているのだと考えられる。彼らは自分の生み出した価値をすべて回収するわけではない。それでよい。ほかの人々が生み出した価値の一部を、彼らも受け取ることになる。無神論とマリファナ合法化には、直接にはほとんど関係がない。だが無神論者も禁酒法反対派も、少し距離を置き、気持ちのよい正義の大演説を邪魔する不快な真実に向き合うという一般的・抽象的な原則について少し語る意志があるなら、無神論もマリファナ合法化も、双方の努力からいくらかずつ恩恵を受ける。
しかしそのためには――繰り返しになるのは承知しているが、重要なので言う――自分が生み出した価値のすべてを回収しなくてもよいと思えなければならない。合理性について語っている間は、自分の大義こそ史上最高の大義だとしても、それについて一時的に黙る能力を保つ必要がある。ほかの大義と自分の大義が、支持能力に限りのある一定数の合理主義者を奪い合っているのだと考えてはならないし、相手にもそう考えさせてはならない。そうではなく、合理主義者を増やし、その人々が支援できる能力を高めているのだと考えるべきである。自分の努力から刈り取れるのは一部だけだが、ほかの人々の努力からも一部を刈り取れる。
あなたと彼らの意見が何もかも一致するわけではないなら――とりわけ優先順位が一致しないなら――その不一致については黙ることに合意する意志が要る。(ただし、主流の議論から離れ、そのような不一致を明示的に争うための専門的な場なら別かもしれない。)
ある組織の代表に就任しようとしていたある人物が、かつてこう指摘した。その組織は「これはあなたにできる最善のことです」というメッセージでは、あまり幸運に恵まれてこなかった。一方、たとえばXプライズ財団は、富裕層に「ここに、あなたにできる格好いいことがあります」と伝えて大成功を収めている、と。
これは、信じられずに目をぱちくりさせたあと、どれほど理にかなっているかを悟る類いの洞察である。人間の脳は大きな利害を把握できない。人は期待効用最大化者には程遠く、たいていは利他的だがアクラシアに陥っている。「これは最善のことです」と言っても、「これは格好いいことです」と比べて、動機づけが大して増すわけではない。ただ立証責任がはるかに重くなるだけである。しかも、知っているほかの善いことすべてとの、意欲を削ぐ不愉快な比較を招く(ひょっとすると、すでに購入した道徳的満足を損ないかねない)。
誰もが初めから利他的なアクラシア持ち(もっと多くを行う選択ができればよいのに、と願う人)である――少なくとも、関心を持ちそうな潜在的支持者の大半がこの記述に当てはまる――と仮定しているなら、どの大義を支援するのが最善かをめぐって争うことは、利他主義の総供給量を減らす結果になりうる。
あなたは言うだろう。「だがドルには代替可能性がある。あることに使った一ドルは、たしかに別のことには使えない!」。それに対する私の答えはこうだ。だが人間は、認知システムとしては本当に期待効用最大化者ではない。ドルはそれぞれ異なる心の勘定から引き出され、状況によって異なる量の意志力(真の制約資源)を要する。人々は、一つの大義が失敗したときの後悔を最小化する心的会計の行為として、寄付先を分散させたがる。そして別の大義について知らせれば、援助してもよいと思う総額が増えることもある。
もちろん、この善意ある寛容の原則にも限界はある。ある人が心血を注ぐ計画がサルサダンスを教えることなら、その人は人類の進歩という新啓蒙の壮大な共通計画における価値ある下位課題に取り組んでいる、と言うのはいささか無理がある。
だが、あることが本当に、人類のために成し遂げられてほしいとあなたが願う課題である限り……その計画を「あなたのお気に入りの計画」と不愉快に比較しても、思うほど自分の計画の役には立たないかもしれない。ほぼあらゆる場で習慣として、「ここに格好いい合理主義者の計画があります」と言い、「私の計画だけが限界的な一ドルあたりの期待効用単位という点で最も収益率の高い計画です」とは言わないことを学ぶ必要があるかもしれない。感情面の副作用を顧みず、代替可能なお金の期待効用を最大化できるほど冷徹な人が明示的に尋ねてきたなら、専門的な小フォーラムへ案内してもよいだろう。そこでは、最優先だと主張する意志のある者たちが決着をつける。もっとも、すべてがうまくいけば、この種の資金不足を強く訴えられる計画には投資が増え、限界収益は下がり、競合する主張のどれが勝者かはもはや明白でなくなるはずである。
正気の水位を上げることから恩恵を受ける合理主義的な計画が数多くあるなら、互いに寛容であり、合理性の普及へ共同投資することは、コモンズの問題を呈するかもしれない。だが、これはさほど対処が難しくなさそうだ。自分たちが生み出した合理主義者を共有しようとせず、ほかにも新啓蒙の計画があるかもしれないと彼らに伝えようともしない集団があるなら、共通の一元化された合理主義の資源から、その集団の計画を格好いい選択肢として紹介する記述を削除すればよい。
これはどれも理想主義的で未来志向の考えではあるが、その恩恵として――私たち全員が――今まさに見落としている重要なものを見つけられるかもしれない。合理主義的な計画の多くは、支持者が少なく、各地に散らばっている。私たち全員が、人類の進歩という共通計画、すなわち新啓蒙を構成する要素だと自認できれば、どの都市でも私たちを十人見つけられる確率は大幅に高まるだろう。今のところ、こうした計画の多くにとって、支持者でいることは少しばかり孤独である。合理性は世界で最も重要なものではないかもしれない――もちろん、それは私たちが守るものである――だが、合理性は、私たちのさらに多くが共有している格好いいものではある。自分たちは合理主義者でもあると自認することで、私たちは多くを得られるかもしれない。