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一人の命を救う者は、全世界を救ったも同然である。
美しい考えではないだろうか。その心の温かさを感じてほしい。
一人を助けることが、全世界を助けるのと同じくらい気持ちよく感じられるのは、私自身の経験からも言える。ある日、力を使い果たしてインターネットで時間を潰していたときのことだ。少し込み入った話になるが、要するに、匿名でブログにコメントを残したことで、ある人の人生をすっかり好転させることができた。それほど大きな効果があるとは思っていなかったが、実際にそうなった。自分が成し遂げたことを知ると、ものすごい高揚感が湧いた。その陶酔感は一日中続き、夜になっても続き、翌朝になってようやく少し薄らいだ。それは――ここが怖いところだが――科学上の重大な洞察を得たときの陶酔感と同じくらい気持ちよかった。それまでは、薬物を使うとどんな気分になるのかを想像するうえで、科学的洞察による陶酔感が私のいちばんの手がかりだった。
一人の命を救うことは、おそらく、星が輝く仕組みを人類で初めて理解するのと本当に同じくらい気持ちがよいのだろう。全世界を救うのと本当に同じくらい気持ちがよいのだろう。
だが読者よ、もし一人の命を救うか、全世界を救うかを選ぶことがあったなら、世界を救ってほしい。頼むから。心の温かさの向こうには、途方もなく巨大な違いがあるのだから。世界を救うことは一人の命を救うよりはるかによいというのは、人によっては、60億ドルは1ドルより価値があるとか、6立方キロメートルの金は1立方メートルの金より重いとか言うのと同じくらい明白だろう。(子孫の期待価値を考慮しなくても、だ。)それが明白でないのは、どんな理由からだろうか。たとえば、救える命を救うという、量にかかわらない義務があるとしよう。それなら、世界を救う人も、一人の命を救う人も、同じ義務を果たしているにすぎない。あるいは、帰結主義ではなく、ギリシャ的な個人の徳という考え方に従うとしよう。世界を救う人は有徳だが、一人の命を救う人の60億倍も有徳なわけではない。あるいは、一人の命の価値がすでに理解できないほど大きく、葬式で感じる一時の悲しみなど、失われたものを無限小にしか捉えていないのかもしれない。そうだとすれば、対象が全世界になっても大して変わらない。
一人の命に想像を絶する高い価値があることには、私も同意する。それと同時に、二人の命には、その想像を絶する価値の2倍の価値があると考える。別の言い方をしよう。一人の命を救うことが全世界を救うのと同じなら、十人の命を救う者は十個の世界を救ったも同然だ。全世界を実際に救う者――言葉の上だけの『世界を救う』ごっこと混同しないでほしい――は、銀河間文明を救ったも同然なのだ。
耳の聞こえない子どもが二人、線路で眠っていて、列車が高速で近づいている。あなたはそれを見ているが、子どもたちを救うには遠すぎる。私は近くにいて手が届くので、飛び出して一人を線路から引きずり出す。そしてそこでやめ、もう一人に列車が迫るのを横目に、平然とダイエットペプシをすする。「早く!」とあなたは叫ぶ。「何とかしろ!」しかし私はこう叫び返す。もう一人を線路から救ったのだから、私の得点はすでに「想像を絶する」ほど高い。二人目を救っても救わなくても、私は「想像を絶する」善行をしたと評価される。だから、これ以上行動する動機はない。おかしいと思わないだろうか。
では、ある慈善家が、地球全体で100人しかかからない、まれだが恐ろしいほど致命的な病気の治療法の開発に1,000万ドルを費やす場合は、なぜ話が違うのだろう。同じ金額を使えば、10万人の10%を死なせる、もっと目立たない病気の治療法を、同じ確率で開発できるというのに。私は、話が違うとは思わない。人命がかかっているとき、私たちには、一定水準で満足するのではなく、救う命の数を最大化する義務がある。その義務は、もともとの命を救う義務と同じ強さを持つ。二人を救えたのに、承知のうえで一人を救うことを選ぶ者は――千人や世界全体を救える場合なら、なおさらだ――どんな殺人者にも劣らないほど、自らを断罪に値する者にしている。
お金を使って命を救うことは、認知的に簡単ではない。すぐ頭に浮かぶお決まりの方法は、役に立たないか、逆効果だからだ。(なぜそうなりがちなのかは、後で書く。)またスチュアート・アームストロングが指摘するように、命を救うためのお金を非効率に使う慈善家を軽蔑するのなら、筋を通して、命を救うためにお金を使えるのに使わない人を、もっと軽蔑すべきだ。