非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

熱と運動

Heat vs. Motion

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前の論考を書いたあと、還元主義が、種類が違うように見えるもの同士の隔たりを飛び越える例として、もっとずっと単純なものがあると気づいた。熱を運動へ還元することだ。

今では、熱と運動が同じだというのは、後知恵では当たり前すぎると感じるかもしれない。「熱は運動だ」と誰もが言う。だから「変な」信念のはずがない、と。

だが、熱の運動論が、熱い物体から冷たい物体へ流れる熱素という流体への信念と対立する、激しい論争の的の科学的仮説だった時代がある。さらに前、熱の主要な理論は「フロギストン!」だった。

運動の理論と熱素説を、別々に学んだとしよう。今、あなたは運動についていくらか知っている。衝突、弾性反発、運動量、運動エネルギー、重力、慣性、力を受けない物体の軌道などだ。それとは別に、熱についても知っている。温度、圧力、燃焼、熱の流れ、エンジン、融解、気化などである。

これは、ありそうな知識の状態というだけではない。実際、たとえばサディ・カルノーはそうだった。彼は厳密に熱素説の枠内で研究し、カルノーサイクルの原理を導いた。最大効率の熱機関であり、その存在から熱力学第二法則が導かれる。1824年のことで、そのころ運動の科学は高度に発達していた。

カルノーのように、運動も熱も、別々のものとしてよく知っているとしよう。つまり、知識の中で別々だということだ。脳には、運動についての信念と、熱についての信念を入れる、別々の書類かごがある。だが、内側からは、その知識の状態は、動くものと熱いもののある世界、運動と熱が物質の独立した性質である世界に住んでいるように感じられる。

そこへ「未来から来た物理学者」が現れ、こう言う。「熱のあるところには運動があり、その逆も同じです。だから、たとえば物をこすり合わせると熱くなるのです」

「熱のあるところには運動があり、その逆も同じ」というこの言葉には、少なくとも二つの解釈がありうる。

第一に、熱と運動は別々に存在する、つまり熱素説は正しいが、宇宙の物理法則の中に、物体が速く動くところには熱素が生じるという「橋渡しの法則」があると考えることができる。逆に、別の橋渡しの法則によって、熱素は物に圧力をかけて動かせる。だから熱い気体ほど容器に大きな圧力を及ぼし、蒸気機関は蒸気でピストンを動かせるのだ、と。

第二に、まだ分からない何らかの意味で、熱と運動は同じものなのだと考えることができる。

「ばかげている」と思索家1は言う。「『熱』と『運動』は意味が違う。だから言葉も二つあるのだ。観測した現象を『熱』と呼ぶのがいつかは分かっている。熱は物を溶かしたり、燃え上がらせたりする。物体が『速く動く』と言うのがいつかも分かっている。位置が変わり、ぶつかれば変形したり砕けたりする。熱は物質の変化に、運動は位置や形の変化に関わる。この二つの語が同じ意味だと言うのは、ただ自分を混乱させるだけだ」

「不可能だ」と思索家2は言う。「この世界では、熱と運動は橋渡しの法則で結びつき、運動が熱素を生み、熱素が運動を生むという物理法則があるのかもしれない。だが、こすっても物が熱くならず、温度を上げても気体の圧力が増さない世界なら、簡単に想像できる。熱と運動が結びつかない可能世界がある以上、両者は別の性質でなければならない。これは先験的に真だ」

思索家1は、引用表現と指示対象を混同している。2 + 2 = 4だが、「2 + 2」≠「4」である。「2 + 2」という文字列は空白を含めて5文字あり、「4」は1文字しかない。だが二つをPythonのインタープリターに入力すれば、同じ >>> 4 という出力になる。だから、文字列「2 + 2」と「4」を眺め、文字列が違うというだけで、Pythonインタープリターにとっての「意味」も違うはずだとは結論できない。

熱が運動へどう還元されるかを知る前でも、「熱」と「運動エネルギー」は同じものを「指す」と言える。指示対象が何かをまだ知らないだけで、実際には同じ対象を指している、という意味である。コマンド行に「熱」と「運動エネルギー」を入力すると同じ出力を返す、理想化された全知の「科学インタープリター」を想像してもよい。

科学インタープリターの話をするのは、ポインターの参照先を取り出すには、認知の外へ出なければならないと強調するためだ。参照先は現実の中にあるもので、誰かの心の中にはない。だから「本当の指示対象」「実際の指示対象」と言うことはできても、その言葉を頭の内側だけで評価することはできない。本当の熱そのものを使って推論はできない。実際の熱を使って考えていたら、「百万ケルビン」と考えただけで脳が蒸発する。だが、熱についての自分の信念について、さらに信念を作れば、その信念について話せる。「熱についての私の信念は、本当の熱にあまり似ていないかもしれない」などと言える。頭の中だけで実際に比較を行うことはできないが、比較について話すことはできる。

したがって、「熱についての私の信念と、運動についての私の信念は同じではないが、実際の熱と実際の運動は同じものかもしれない」と言える。「明けの明星」と「宵の明星」は同じ惑星かもしれないと認めながら、自分の信念を調べるだけでは決められず、望遠鏡を持ち出す必要があると理解できるのと同じだ。

思索家2の誤りも同様だ。物理学者は「熱のあるところには運動がある」と言った。思索家2は、これを物理法則の主張、つまり熱素の存在が運動の存在を引き起こすという意味と取り違えた。物理学者が本当に言いたいのは、むしろ推論規則に近い。「熱」があると教えられたら、「運動」があると推論せよ、ということだ。

複数の階層を持つモデルを、複数の階層を持つ現実へ投影するこの基本的な誤りから、さらに別の誤りが生じる。概念上の可能性と論理的な可能性を混同することだ。サディ・カルノーには、熱と運動が結びつかない別の世界は想像できる。運動の方程式から熱の方程式を導く具体的な方法を知るリチャード・ファインマンには、この考えは想像できないだけでなく、頭が爆発しそうなほど支離滅裂である。

哲学者の名誉のために付け加えるが、こうしたことを述べた哲学者もいる。たとえばヒラリー・パトナムは、「双子地球」の思考実験について、こう書いている。1

現実の世界で水がH2Oだと分かれば、水がH2Oではない可能世界と見なせるものは、何もない。とくに、「論理的に可能」な言明とは、何らかの「論理的に可能な世界」で成立する言明のことなら、水がH2Oではないことは、論理的に可能ではない。

一方で、水がH2Oではないと私たちを納得させ、それを信じるのを合理的にもするような経験を持つことは、十分に想像できる。その意味で、水がH2Oではないことは想像できる。想像できるが、論理的には可能でないのだ! 想像可能性は、論理的可能性の証明ではない。

私には、この二段落で「水」は二つの意味で使われているように見える。一方では「水」という語が科学インタープリターへの入力を指し、他方では「水」と入力したときに得られる出力を指す。最初の段落でヒラリーは、実験をして水がH2Oだと分かれば、「水」は自動的にH2Oを意味するよう再定義されると言っているようだ。だが、用語を一貫して使うなら、今や「水」が意味するのは「H2O」なのか、「私の隣の瓶に実際に入っているもの」なのかについて、違う立場を首尾一貫して取ることもできる。

今の話も、すでに誰かが言っているのではないかと思う。ともあれ……。

外の世界には一つのものしかなくても、それが十分に違う形を取り、あなた自身がその還元について十分に無知なら、まったく異なる二つのものがある世界に住んでいるように感じることは、十分ありうる。この二つの現象についての知識が、別々の授業で教えられ、別々の学問分野で研究され、大学の別々の建物に置かれていてもよい。

熱と運動がかつてどれほど違って見えたか思い出すには、かなり昔へ戻り、その時代に実際にありえた心構えにならなければならない。もっとも、今どれほど知っているかによっては、慣習の圧力にとらわれずに見られれば、それほど難しくないかもしれない。「熱は運動だ」は変でなく、「熱は運動ではない」は変な信念だ、という圧力だ。たとえば明日、物理学者が現れて「私たちの一般向け科学解説には、いつも一つ嘘がありました。実は、熱は運動と無関係なのです」と言ったとしよう。彼らが間違っていると、あなたは証明できるだろうか。

「熱と運動は同じものかもしれない!」と言うのは簡単だ。難しいのは、どう同じかを説明することだ。二つの現象が別々に振る舞う世界を、もはや想像できなくなるまでには、大量の詳しい知識が必要になる。還元は安上がりではない。だからこそ、多くのものが得られるのだ。

あるいは、「還元主義は簡単だが、還元は難しい」と言えるかもしれない。それでも、還元を探しに行くとき、還元主義者であることは、いくらか役立つと思う。

ヒラリー・パトナム「意味の意味」、アンドリュー・ペシン、サンフォード・ゴールドバーグ編双子地球年代記所収(M. E. Sharpe, Inc.、1996年)、3–52頁。 ↩︎