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古典論理における同一性の操作的定義は、A = Bが定理であるときには必ず、Aを、Bが現れるどの定理においても、そのBの代わりに置くことができる、というものである。たとえば、(2 + 2) = 4が定理であり、((2 + 2) + 3) = 7も定理なら、(4 + 3) = 7も定理である。
これは、ふつう次のように表現される問題につながる。明けの明星と宵の明星は、たまたま同じ物体、すなわち金星である。ジョンは、明けの明星と宵の明星が同じ物体だと知っているとしよう。しかしメアリーは、明けの明星は神ルシファーであり、宵の明星は女神ヴィーナスだと信じている。ジョンは、メアリーが明けの明星をルシファーだと信じている、と信じている。それならジョンは(置換によって)、メアリーが宵の明星をルシファーだと信じている、と信じなければならないのだろうか?
あるいは、さらに簡単な形の問題を挙げよう。2 + 2 = 4という言明は真である。つまり、(((2 + 2) = 4) = 真)は定理である。フェルマーの最終定理も真である。したがって、私は2 + 2 = 4を信じる ⇒ 私は真を信じる ⇒ 私はフェルマーの最終定理を信じる。
そう、これが明らかに間違っているように見えることはわかっている。だが、「等しい項は常に置換できる」という原理を使って論理推論プログラムを書き、これが起きた人を想像してほしい。次に、その人が再発を防ぐ方法について論文を書くところを想像してほしい。さらに、別の誰かがその解決策に反対するところを想像してほしい。議論は今も続いている。
個人的には、ジョンは型エラーを犯していると言いたい。20メートルから5グラムを引こうとするようなものだ。「明けの明星」という表現は、明けの明星と同じ型ではなく、まして同じ物ではない。信念は惑星ではない。
明けの明星 = 宵の明星
「明けの明星」 ≠ 「宵の明星」
私の考えでは、この問題は、信念と物との型の区別を強制しなかったことに由来する。もともとの誤りは、メアリーが「明けの明星」について抱く信念についてのAI自身の信念を、明けの明星についてのAI自身の信念と同じ表現で保存するAIを書いたことだった。
メアリーが「明けの明星」をルシファーだと信じていても、それは、メアリーが「宵の明星」をルシファーだと信じていることを意味しない。「明けの明星」 ≠ 「宵の明星」だからである。このパラドックス全体は、適切な場所で引用符を使わなかったことに由来する。
型の規律を強制することについて私が語るのは、これが初めてではないと思い出したかもしれない。前回は、期待効用を効用と混同する誤りについて述べた。物理学を初めて学ぶとき、自分が使う単位を追跡する習慣を身につけるのは、計り知れないほど役に立つ。「cm」や「kg」などをいちいち書き留めるのは面倒に思えるかもしれない。だが、(a)答えの桁が間違っているように見え、(b)その答えが平方グラム当たり秒で表されている、と気づくまでの話である。
同様に、信念は惑星とは異なる物である。少なくとも人間の信念について話すなら、信念は脳に宿り、惑星は宇宙空間にある。信念の重さは数マイクログラムだが、惑星はそれよりはるかに重い。惑星は信念より大きい……もう趣旨はわかっただろう。
「明けの明星」を引用符で囲むだけでは、文字の見た目が似ているため、人々がそれを明けの明星と混同するのを防ぐには不十分に思える。そこで、目に見えて異なる符号化を用いれば、型の規律を強制するよりよい方法になるかもしれない。
明けの明星 = 宵の明星
13.15.18.14.9.14.7.0.19.20.1.18 ≠ 5.22.5.14.9.14.7.0.19.20.1.18 .
数理論理学を学ぶことも、引用表現と指示対象を区別する助けになるかもしれない。数理論理学では、⊢ P(Pは定理である)と、⊢ ◻⌜P⌝(ある符号化された証明体系において、符号化された文Pの符号化された証明が存在することは証明可能である)は、まったく異なる命題である。数理論理学で引用の階層を一つ落とすことは、物理学で計量単位を一つ落とすようなもので、「光速の長さは299,792,458メートルである」といった、目に見えて馬鹿げた結果を導けてしまう。
アルフレト・タルスキはかつて、無限個の文からなる族を使って「真」の意味を定義しようとした。
(「雪は白い」が真)であるのは、かつそのときに限り(雪は白い)
(「イタチは緑である」が真)であるのは、かつそのときに限り(イタチは緑である)
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このような文が意味をなすように思え始めたら、符号化された文と外界の状態を区別し始めたとわかるだろう。
同じく、真理という概念は、現実という概念とは大きく異なる。「真」と言うことは、信念を現実と比較することである。現実そのものは、現実であるために、いかなる信念とも比較される必要がない。次に誰かが、真であるものなど何一つないと主張したときには、これを思い出してほしい。