❦
基礎物理学、つまりクォークだの何だのの世界は、手や指といった、私たちに見える水準から、はるかに遠い。よくても、手がほかのすべてと同じくクォークからできていると示す実験を再現する方法を知り、原子や電子雲や分子について、いくつかの方程式を導く方法を知っているくらいだろう。
悪くすれば、手の下の水準にクォークがあるというのは、ただそう教わっただけかもしれない。その場合、そもそもどんな意味で「知っている」と言えるのかは疑わしい。物理学者が別の物理学者に知識を伝えるときに使うのと同じ「クォーク」という言葉を、そのまま復唱できたとしてもだ。
いずれにせよ、水準の間の同一性を、実際に見ることはできない。アボガドロ数単位のクォークを思い描き、その中に手のパターンを認められるほど大きな脳を持つ人はいない。
だが少なくとも、手が何をするかはわかる。手はものを押し、力を加える。原子の話を聞くと、私たちは小さなビリヤードの球が互いにぶつかるところを思い描く。すると「原子」も、ぶつかることでものを押せるのは、当たり前に思える。
この原子像は、完全には正しくない。それでも人間の想像力にとっては、手が、渦巻くビリヤードの球の小さな銀河でできていて、「指」がものに触れたときにそれを押す、と想像するのは比較的簡単だ。デモクリトスは2400年前にこれを思い描いた。そして、およそ1803~1922年には、科学も彼が正しいと考えていた。
では、たとえば怒りはどうだろう?
小さなビリヤードの球が、どうやって怒るのか? 球に小さなしかめっ面でも付いているのか?
たとえば狩猟採集民の立場に身を置いてみよう。ただの物質を使って計算するなどという発想はおろか、文字の概念すら持っていないかもしれない人。ニューロンというものが存在するとは、まったく知らない人だ。そうすれば祖先が、ビリヤードの球と「グルル! ガアア!」の間に感じたかもしれない機能上の隔たりを想像できるだろう。
主観的経験はいったん脇に置き、怒りとビリヤードの球の、単なる振る舞いの隔たりを考えよう。小さなビリヤードの球が何をするかと、怒りによって人が何をするかの違いだ。怒ると、人は拳を上げて誰かを殴ったり、陰で嫌味を言ったり、夜中に相手のテントへサソリを忍ばせたりする。ビリヤードの球は、ものを押すだけだ。
情報処理について「ああ、そうか!」と気づいたことのない狩猟採集民の身になってみよう。ニューロンやコンピューターについての後知恵バイアスを避けようとしてほしい。そうして初めて、越えられない説明上の隔たりが見える。
怒った行動を、ビリヤードの球でどう説明できるというのか?
さて、明らかな唯物論的推測は、小さなビリヤードの球が腕を押して誰かを殴らせたり、舌を押して悪口を出させたりする、というものだ。
だが、その小さな球自身が怒っていないなら、どうすればそんなことができると知っているのか? 長期的な企みを遂行するよう、舌や指をどう導くのか?
それに、あの恐ろしい「科学主義」に惑わされていなければ、一人称の視点から、この説明が明らかに誤りだとわかるはずだ。原子は腕を押せても、何かを望ませることはできない。
誰かが、ワインを飲むと怒りっぽくなることがある、と指摘するかもしれない。だが、ワインが小さなビリヤードの球だけでできていると、誰が言った? ワインには、ただ怒りを生む力能が含まれているのかもしれない。
還元主義など欠陥のある考え方にすぎないのは、明らかだ。
(初心者は道を誤って「この技に裏切られた」と言う。達人は道を誤って「この技を使いこなせなかった」と言う。)
この隔たりを越えるには、何が必要なのか? 「情報を処理する」「ニューロン」という考えだけでは足りない。それ以上のことを何も言わなければ、ビリヤードの球から思考へと水準を越える、魔法のような未説明の規則を、モデルの中に挿入するだけだ。
だが、ただの物質からチェスを指すプログラムを作る方法を知っているAIプログラマーは、この隔たりを越えるための本物の一歩を踏み出している。帰結主義、後向き推論、効用関数、探索木といった概念を理解すれば、単に因果的・機械的なシステムに、計画を計算させられる。
仕組みは、おおよそこうだ。指せる手の一つひとつについて、相手が指せる手、その手に対する自分の応手、その先……と計算する。見通せるいちばん先の局面を、何らかの局所的なアルゴリズムで評価する。単に駒の価値を数え上げるだけでもよい。そしてミニマックス法でさかのぼり、現在の盤面で最善の手を見つけ、それを指す。
もっと一般的に言えば、環境で起きることと何らかの対応、鏡像、反響を持つ因果の連鎖が心の中にあれば、想像が生み出す最終結果に効用関数を適用し、それが高く評価するものを達成する行動を見つけ、出力できる。環境に似た心の中の因果の連鎖は、志向性の小さな後光をまとったビリヤードの球でできている必要などない。ディープ・ブルーのトランジスターは、働くために小さなチェスの駒を刻まれている必要はない。「単純な真実」も参照してほしい。
これでもまだ、途方もなく単純化している。だが少なくとも、隔たりは短く見えるようになるはずだ。ここまで理解できれば、ただの物質からできた計画装置が、アルコールの影響で、怒った行動をより多く出力する仕組みもわかる。アルコールの中のビリヤードの球が、効用関数を構成する球を押すのだ。
だが、小さなAIを書く方法を知っていても、トランジスターとチェスの間で水準を越える過程を、思い描くことはできない。トランジスターも、調べるべき手も、多すぎる。
同じように、神経学の事実をすべて知っていても、ニューロンと怒りの間で水準を越える過程を思い描くことはできない。まして、原子と怒りの間なら、なおさらだ。手が指と親指と手のひらでできているのを思い描くようには、できない。
では、認知科学者から、ただ「怒りはホルモンだ」と言い渡されたら? その言葉を繰り返しても、隔たりを越えたことにはならない。自分はそれを信じていると信じるかもしれないが、小さなビリヤードの球と、誰かを殴りたいと思うことの関係を理解するのとは違う。
そこで、こんな解釈が出てくる。「怒りはただのホルモンで、小さな分子が原因なのだから、どんな道徳的な意味でも正当化されるはずがない。だからこそ、怒りを抑えることを学ぶべきなのだ」
あるいは、「怒りというものは本当は存在しない。幻であり、指示対象を持たない引用表現だ。砂漠の水の蜃気楼や、ガレージでドラゴンを探しても見つからないのと同じだ」と。
どちらも飲み込みにくい話だ。飲み込むべきだと言っているのではない。そしてそのため、信じるよりも口で唱えるほうが、ずっと簡単になる。
非還元主義者や非唯物論者は、還元的唯物論を批判するとき、自分はこうしたものを批判していると思っているのではないか。
だが唯物論は、そんなに簡単ではない。「怒りは原子でできている。はい、これで終わり」と言えば済むような、安易なものではない。それでは、ビリヤードの球から殴ることへ、どうたどり着くかを説明できない。説明上の隔たりを埋め始めるには、計算、帰結主義、探索木についての具体的な洞察が必要なのだ。
ここまでの話は、怒った行動に限ったので、現代の基準では比較的簡単な例だった。出力について話すだけなら、アルゴリズムが内側からどう感じられるかを理解する、つまり一人称と三人称の隔たりを越える必要もない。間違った問いを解きほぐして消す、つまり自分の心の内側が現実と食い違う箇所をほどく必要もない。
曲がり、壊れ、燃え、落ち、押し合う物質から、怒った行動へと進むことは、現代哲学の基準では練習問題にすぎない。だが、重要な練習問題だ。文字が発明される以前にこれを解くのは、どれほど難しかったかと気づいて初めて、その意味を十分に理解できる。かつて、ここには説明上の隔たりがあった。何世代も前に橋が架かった今、後から振り返ると、そうは見えないかもしれないが。
科学の助けを受け入れ、自分の心の内側からの眺めを信用しなければ、説明上の隔たりは越えられる。