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若いころ、私はリチャード・ファインマンのQED――光と物質の奇妙な理論など、一般向けの物理学書を読んだ。光は波であり、音は波であり、物質は波だと知っていた。9歳だった私は、自分の科学的教養を誇りに思っていた。
もっと大きくなり、ファインマン物理学を読み始めたとき、「波動方程式」と呼ばれる珠玉のものに出会った。方程式の導出は追えたが、振り返ってみれば、その真理を一目で見抜くことはできなかった。そこで三日間、断続的に波動方程式について考え、ついに、それが恥ずかしいほど明白だとわかった。そしてとうとう理解したとき、私は気づいた。光は波、音は波、物質は波だという物理学者たちの誠実な保証をずっと受け入れてきたにもかかわらず、「波」という言葉が物理学者にとって何を意味するのか、私はまったくわかっていなかったのだ。
物理学者が「光は波でできている」と言い、先生が「光は何でできていますか?」と尋ね、生徒が「波です!」と答えたなら、その生徒は真なる言明をしたのだ、と本能的に考える傾向がある。それが公平というものだろう。物理学者の「波」は正解として受け入れるのに、生徒の答えなら退けるのは不公平ではないか。「波です!」という答えは真か偽か、どちらかに決まっている。そうだろう?
これもまた、学校で身につけ、後に捨て去るべき悪習の一つである。言葉には本来的な定義がない。「ビー・ヴァー」という音節を聞いて大きな齧歯類を思い浮かべるとしても、それは私自身の心の状態についての事実であって、「ビー・ヴァー」という音節についての事実ではない。「波でできている」(あるいは「熱伝導のせいで」)という音節の並びは仮説ではない。空気中を伝わる振動のパターン、あるいは紙の上のインクである。それは誰かの心の中で仮説と結びつくことはあっても、それ自体が正しいわけでも間違っているわけでもない。しかし学校では、「波でできている」と言えば、先生が金の星印をくれる。物理学者が同じ音の振動を発するのを先生が聞いたのだから、それが正解に違いないのだ。金の星印が与えられるのは言語行動(話したものでも、書いたものでも)なので、生徒は言語行動には真理値があると思い始める。結局、光は波でできているか、そうでないかのどちらかではないか。
そしてこれは、さらに悪い習慣へつながる。先生が、ラジエーターの横に置かれた金属板に関する不可解な問題を出したとしよう。ラジエーターから遠い側は、近い側より温かく感じられる。先生は「なぜですか?」と尋ねる。「わかりません」と答えれば、金の星印をもらえる可能性はゼロであり、授業への参加とすら数えてもらえない。しかし今学期、この先生は「熱対流のせいで」「熱伝導のせいで」「輻射熱のせいで」という表現を使ってきた。このうちどれかが、先生の求めている答えだろう。「ええと、熱伝導のせいでしょうか?」とあなたは言う。
これは金属板についての仮説ではない。本来の信念ですらない。これは、先生のパスワードを当てようとする試みである。
拡散方程式(熱伝導を支配する数学)の記号を心に描けたとしても、金属板についての仮説を形成したことにはならない。ここは学校ではない。拡散方程式を書けるかどうか、記憶を試しているのではない。これはベイズ術であり、私たちは経験への予期を採点している。温度計で数か所を測定し、次に測ったとき温度計が何を示すか予測しようとすることで、拡散方程式を使うなら、それは明らかに経験とつながっている。生徒が何かが流れているところを思い描くだけでも、そのために板の冷たい側の近くへマッチをかざして、熱がどこへ行くか測ろうとするなら、流れているという心像は経験につながっている。予期を制御するからだ。
拡散方程式を使っていないなら――数値を入れ、特定の経験への予期を制御する結果を出していないなら――地図と領土のつながりは、刃物で切ったかのように断たれる。残るのは信念ではなく、言語行動である。
学校制度では、紙に書くにせよ声に出すにせよ、すべては言語行動をめぐっている。言語行動によって金の星印をもらうか、落第点を取る。この悪習を捨て去るためには、説明とパスワードの違いを意識的に認識できるようになる必要がある。
これは厳しすぎるように思えるだろうか。不可解な金属板に直面したとき、「熱伝導?」は答えを見つけるための第一歩にはなり得ないのだろうか。なるかもしれない。ただし、自分が探しているのはパスワードだ、という思い込みの罠に陥らなければの話である。不正解だと告げる先生がいなければどうなるだろう。その場合、「光はワカリックスである」は良い説明であり、「ワカリックス」が正しいパスワードだと思うかもしれない。9歳の私に起きたのがそれである――私が愚かだったからではなく、何もしなければそうなるからだ。罠に陥らないよう訓練されないかぎり、人間はこのように考える。人類は、このような穴にはまったまま何千年も過ごした。
もし生徒たちに、言葉は勘定に入らず、予期を制御するものだけが勘定に入ると徹底して教え込めば、生徒は「熱伝導? 違う? じゃあ熱対流? これも違う?」で行き詰まらないかもしれない。ひょっとすると、そのとき、「熱伝導」という表現を考えたことから、次のような本当に役立つ道へ進める。
- 「熱伝導?」
- でも、それはただの表現だ――どういう意味だろう?
- 拡散方程式?
- でも、それはただの記号だ――どう適用すればよいのだろう?
- 拡散方程式を適用すると、何を予期することになるだろう?
- 少なくとも、ラジエーターから遠い金属板の側が、より温かく感じられるとは予期しない。
- 私は気づいている。自分が困惑していることに。ひょっとすると、近い側は断熱性の高い材料でできていて、手へ伝える熱が少ないため、冷たく感じるだけなのだろうか。温度を測ってみよう……
- よし、違った。そもそも、この金属板で拡散方程式が成り立つかどうか確かめられるだろうか。熱は普段と同じように流れているのか、それとも別の何かが起きているのか。
- 板にマッチをかざして、時間とともに熱がどう広がるか測ってみよう……
「ええと、熱伝導のせいでしょうか?」は偽の説明である、と厳格に扱わないなら、生徒はほぼ確実に何らかのワカリックス・パスワードで行き詰まる。何もしなければそうなる。人類という種全体に、何千年もの間そうしたことが起きた。