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「絶対的権威」で、私は無限の確実性は必要ないと論じた。
二つの選択肢AとBから選ばなければならないとき、何らかの方法によって、Aが絶対的かつ全面的に望ましく、Bがあらゆる邪悪で不快なものの総体であることについて、確実だと知りうる、適切に較正された100%の確信を確立するのに成功したなら、これはAをBより選ぶための十分条件である。しかし必要条件ではない……。相対的によりよい選択肢とより悪い選択肢について不確実な知識しかなくても、選択することはできる。実のところ、これは日常的なことであるべきだ。
2 + 2 = 4という命題については、地図と領土を区別しなければならない。物理法則には見かけ上、絶対的な安定性と普遍性があることを考えれば、宇宙の全歴史を通じ、局所的な光速限界を超えた粒子は一つもなかった可能性がある。つまり光速限界は、99%の時間、99.9999%の時間、あるいは時間の(1 − 1⁄グーゴルプレックス)だけ真なのではなく、単純にいつでも絶対に真なのかもしれない。
しかし、光速限界について私たちが絶対的な確信を持てるかどうかは、まったく別の問題である。地図は領土ではない。
ある学生が課題を盗用したことは、全面的かつ完全に真かもしれない。しかし、あなたがその事実について何らかの知識を持っているかどうか――まして、その信念に絶対的な確信があるかどうか――は別問題である。硬貨を投げ、その結果を見なければ、表が出ていることは完全に真かもしれないが、表と裏のどちらが出ているかについて、あなたはまったく確信を持てないかもしれない。不確実性の度合いは、真実性の度合いや発生頻度と同じではない。
数学的真理についても同じことが成り立つ。ペアノの公理と似た仕方で振る舞うように見える物理系を離れ、純粋に抽象的な意味で、「2 + 2 = 4」や「ペアノ算術ではSS0 + SS0 = SSSS0」という文を真だと言えるのかは疑わしい。そう断ったうえで、私は構わず突き進み、「2 + 2 = 4」が何らかの意味でそもそも真であるなら、これはいつでも厳密に真であり、おおよそ真(「2 + 2は実際には4.0000004に等しい」)なのでも、一兆回のうち999,999,999,999回だけ真なのでもない、と推測する。
この場合の「真」が何を意味すべきかについて、私は完全には確信していない。それでもこの推測は維持する。「2 + 2 = 4はいつでも真である」ということの信頼性は、上の文における「真」「いつでも」「である」が何を意味するかについての、いかなる特定の哲学的立場の信頼性をも大幅に上回る。
だが、これは2 + 2 = 4だと私が絶対的に確信しているという意味ではない。先ほど論じた「2 + 2 = 3だと私を納得させる方法」を参照してほしい。それは、そもそも2 + 2 = 4だと私を納得させたものと、ほぼ同じ種類の証拠によって可能である。以前の証拠をすべて幻覚で見ていたかもしれないし、記憶違いをしているかもしれない。神経学の記録には、これより奇妙な脳機能障害がある。
では、「2 + 2 = 4」という文に何らかの確率を割り当てるなら、いくつにすべきだろう? このような場合に達成を目指すべきなのは、よい較正である。「99%の確率」を割り当てた文は、百回のうち99回真になる。これは、あなたが考えるより、実際にはとてつもなく難しい。百人を集め、それぞれに「99%確信している」文を十個ずつ述べてもらう。その一千の文のうち、間違っているものはおよそ十個になると思うだろうか?
実際に行われた較正実験について、ここで論じるつもりはない。私の本の一章「Cognitive biases potentially affecting judgment of global risks」に載っている。適切な準備なしにこの話を人へいきなり教えると、その後、その人はこれを完全に汎用的な反論として使うことがわかったからだ。嫌いな相手の意見の確信度を割り引く必要があるときには、なぜかすぐ頭に浮かぶのに、自分自身の意見を考えるときには使えなくなる。だから私は、動機づけられた懐疑への警告を含む、構造化された合理性の説明の一部でないかぎり、較正実験について話さないようにしている。
しかし「99%確信している」と言う人間について、観察された較正結果は99%の正確さではない。
2 + 2 = 4だと99.99%確信している、とあなたが言ったとしよう。するとあなたは今、同じだけの確信を置く独立した文を一万個述べても、平均すれば一度ほどしか間違わないと主張したことになる。2 + 2 = 4についてなら、この途方もない確信度も可能かもしれない。「2 + 2 = 4」はきわめて単純であり、経験的であると同時に数学的でもあり、社会的にも広く信じられている(情熱的に肯定されるのではなく、ただ静かに当然視されている)。だから、この一件については本当に99.99%の確信に達せるのかもしれない。
「53は素数である」のような主張で、99.99%の確信に達することはできないと思う。確かに正しそうではある。しかし、この種の独立した文を一万個主張できるようにする手順――単に素数について一組の文を述べるのではなく、毎回新しい手順を使うということだ――を組もうとすれば、一回より多く失敗するだろう。ピーター・デ・ブランが、この点についておもしろい逸話を書いている。(私は彼に、二度とするなと言った。)
それでも、地図は領土ではない。2 + 2 = 4だと99%確信していると私が言っても、「2 + 2 = 4」が99%の精度で真だと思っているとか、「2 + 2 = 4」が百回のうち99回真だと思っている、という意味ではない。私が確信を置く命題は、「2 + 2 = 4はいつでも厳密に真である」という命題であって、「2 + 2 = 4はおおむね、たいてい真である」という命題ではない。
数学的命題について100%の確信へ達せるという考えに関しては――いや、まったく! 99.9999%の確信を主張するなら、同じだけ重大な文を百万個、次々と述べても、平均すれば一度ほどしか間違わないという意味である。二十秒ごとに一つ主張し、一日十六時間話せるとしても、ほぼ丸一年話し続ける量だ。
99.9999999999%の確信を主張すれば、一兆個まで引き上げることになる。今度は人間の寿命の百回分にわたって話し、一度も間違わないというのか?
(1 − 1⁄グーゴルプレックス)の確信を主張するなら、あなたの自我は、自分を神だと思う精神疾患の患者をはるかにしのぐ。
しかもグーゴルプレックスは、比較的小さい、想像不可能なほど巨大な数、たとえば3↑↑↑3よりも、ずっと小さい。しかし(1 − 1⁄3↑↑↑3)の確信でさえ、何かを90%確信している場合に比べ、確率1へそれほど近いわけではない。
ほかのすべてが役に立たなくても、今まさにこの文そのものに対するあなたの脳の信頼性評価を改変している、仮想上の「マトリックスの暗黒卿」たちが道を塞ぎ、無限の確実性という災厄から私たちを守ってくれる。
私はそのことを絶対に確信しているだろうか? もちろん、そんなことはない。
かつてラファウ・スミグロツキはこう言った。
ベイズの規則そのものを導くために必要な数学的概念にも、1未満の確実性の水準を割り当て、それでも実際に使えるべきだ、と私は言いたい。自分が常に確信を持てない状態でなければならないのか、私には完全な確信がない。何かについて正当に確信できることも、あるかもしれない。だが、ある命題に確率1を割り当てた瞬間、それを二度と取り消せなくなる。何を見ようと何を学ぼうと、その公理と食い違うものはすべて拒まなければならない。決して考えを変えられないという発想は、好きではない。