非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

絶対的権威

Absolute Authority

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ある人がやって来て、偉そうに言う。「科学は本当は何も知らない。あるのは理論だけだ。正しいと確実に知ることはできない。科学者は重力の仕組みについて考えを変えたではないか。明日には進化についても考えを変えないと、誰に言える?」

この底知れぬ文化の隔たりを見てほしい。数文で越えられると思うなら、ひどく失望することになる。

十分にわかっていない人々の世界には、権威と、権威でないものがある。信用できるものは信用でき、信用できないものは捨ててしまってよい。よい情報源と、悪い情報源がある。科学者が歴史上、一度でも話を変えたなら、科学は真の権威ではありえず、二度と信用できない。矛盾を突かれた証人や、レジから金を盗んだ従業員のようなものだ。

そのうえ、その人は、考えを支持する者はあらゆる反論に対してそれを守り、何一つ非を認めないものだと、当然視している。すべての主張は、その分を割り引かれる。科学の支持者でさえ、科学は完全でないと認めるのなら、ほとんど無価値に違いない、というわけだ。

確実性に慣れて生きてきた人に、「科学は、ほかのあらゆる知識と同じく確率的だ」と言うだけではいけない。相手は前半を罪の告白として受け取り、後半は、裁きを免れるため他人まで責めようとする、必死のあがきとして退けるだろう。

信用できないと自分で認めたではないか。だから科学よ、去れ。もうわれわれを悩ませるな!

この思考様式の明らかな源の一つは、宗教だ。聖典は神から来たものだとされるので、どんな欠陥でも認めれば、権威は完全に崩れる。だからわずかな疑いも罪であり、確信していようといまいと、確信を主張することが義務になる。

だが、伝統的な学校の仕組みも関係しているのではないかと思う。先生が何かを教えたら、信じなければならず、テストではそのまま答えなければならない。だが、授業で生徒が何か提案しても、それに従う必要はない。賛成も反対も自由であるように見え、誰にも罰せられない。

この経験は、信念の領域を、権威、命令、法という社会的な領域へ対応づけてしまうのではないか。社会では、絶対的な法律とそうでない法律、命令と提案、権威と非権威に、質的な違いがある。厳格な規則と緩い規則のように、厳格な知識と緩い知識があるように思える。厳格な権威には従わなければならないが、緩い提案は個人の好みで従っても捨ててもよい。そして科学は、誤りの可能性を認めているので、後者に属するはずだ、と。

(ついでに言えば、授業で先生から紙に書かれた権威ある確率を受け取るか、似たような反論不能な源から授けられるのでなければ、自分の不確実さはベイズ確率論で扱うものではない、と考える人との類似も感じる。誰かが——なんということだ!——自分の事前確率の推定に異議を唱えるかもしれない。だから、まだ十分にわかっていない人には、ベイズ的な事前確率は、教師に命じられる信念ではなく、生徒が提案する信念の類に見える。まともな知識ではないのだ。)

権威の道と定量の道の、底知れぬ文化の隔たりは、合理主義者の側から向こうを見つめる私たちには、かなり腹立たしい。目の前にいる人は、科学の単なる確率的推測よりさらに信頼できる知識を自分はもつと信じている。たとえば、天文記録が始まって以来、観察した毎晩そうであったように、そして、以前の予測が小数点以下14桁まで確認された物理理論が予測するとおりに、明日も月が決まった位置と満ち欠けで昇るだろう、という推測よりもだ。では、その人々が私たちの知識より上に置く知識とは何で、理由は何か。おそらく、日曜も月曜も、いや毎日のように、ありとあらゆる方向から反証された、かび臭い古文書か何かだろう。それでも科学より信頼できるのだという。何度反証されても、決して間違いを認めず、考えを変えないからだ。彼らは「確実」という語をテニスボールのように投げ合い、羽のように軽々しく使う。一方の科学者は、誠実に疑う責任に重荷を感じ、わずかな確率さえ得ようと苦闘する。「私は完璧だ」と、彼らは何の心配もなく言う。「まだ改善しようと苦労しなければならないおまえたちより、はるかに上に違いない」。

相手に言える簡単な言葉はない。たちまち打ち砕く反論はない。公開討論なら、よく考えることで聴衆を味方につけられるかもしれない。残念ながら、いきなり「愚かな人間よ、定量の道はおまえの理解を超える。おまえが軽々しく『確実』と呼ぶ信念は、われらの強力な仮説のうち最も弱いものよりも確かでない」と言うわけにはいかない。それは、人生全体の捉え方の違いであり、そもそも言葉で説明しにくい。手短に説明するのは、なおさらだ。

聴衆の前で、弁論として何を試せるだろうか。難しいが……たとえば、

だが、ある意味でもっと興味深いのは、聴衆の前ではないところで、その人に何を言うかだ。確実性のない宇宙で生きることを誰かに教える、その長い過程をどう始めればよいのか。

最初の一歩は、確実性なしでも生きられると理解することだと思う。仮にそうだとして、何も確実に知れないとしても、道徳上や事実上の区別をする能力が奪われるわけではない。ロイス・ビジョルドの言葉を言い換えれば、「もっと強く押すのでなく、抵抗を減らそう」。

絶対的権威をよくある仕方で擁護する議論に、私が「『灰色の議論』からの議論」と呼ぶものがある。こういうものだ。

愚かさを裏返しても知性にはならない。悪い結論に終わる議論の一行残らずを反転しても、正しい答えにはたどり着けない。それでは、愚か者に自分を細部まで操る力を与えすぎる。数学的な論証が成り立つには、すべての一行が正しくなければならない。そして、道徳相対主義者が「世界は白黒ではない」と言うからといって、それが偽になるわけではない。スターリンが2 + 2 = 4だと信じたからといって、2 + 2 = 4が偽にならないのと同じだ。誤りは一つあれば十分だが、ここでは、二色の見方から一色の見方へ飛躍し、すべての灰色は同じ濃さだとするところにある。

道徳的であるには、絶対的によい選択肢と絶対的に悪い選択肢について絶対の知識が必要だ、という前提に同意すれば、譲りすぎになる。実際、議論全体を譲ることになる。相対的によい選択肢と悪い選択肢について、不確かな知識しかなくても、選ぶことはできる。むしろ、それは大げさに騒ぐことでなく、当たり前であるべきだ。

確かに、二つの選択肢AとBのどちらかを選ぶ必要があり、何らかの方法で、Aは絶対的かつ全面的に望ましく、Bは邪悪で忌まわしいものすべての総体だと、確実にわかる、よく較正された100%の確信を得たなら、それはBよりAを選ぶための十分条件だ。必要条件ではない。

それから、これも。論理的誤謬:信念の帰結に訴えること。

さて、ほかには何を知る必要があるだろう。まず、疑い、問い、誤りを認めることは、恐ろしく恥ずべきことではないという、合理主義者の文化全体がある。

布教されるのでなく、物を見ることで情報を得るという考え方もある。よく見れば、最初にちらりと見たときの印象と違うとわかることもある。だが、それは自然が嘘をついたという意味でも、見るのを諦めるべきだという意味でもない。

そして、較正された確信という概念がある。「確率」は、考えへの感情的な入れ込み具合を測る、頭の中の小さな進捗バーと同じではない。むしろ、ある信念状態にある人々が、実際の現実生活で、どれほどの頻度で本当のことを言うかの尺度に近い。100人を集め、それぞれ「絶対に確信している」ことを一つ言ってもらったら、いくつ正しいだろう。100個ではない。

むしろ、人がひどく熱狂する主張は、「太陽は月より大きい」のように、当たり前すぎて興奮する気にもならない主張より、正しい可能性がはるかに低い。誰かが「絶対に確信している」主張を一つ見つければ、おそらくその反対を「絶対に確信している」人も見つかる。そんな熱狂的な信念の表明は、反対者がいないところには生まれないからだ。だから、信念への感情的な入れ込みを測る頭の中の小さな進捗バーは、較正された確信へうまく変換できない。一方が増せばもう一方も増すという、単調な関係さえないのだ。

「絶対の確実性」については、あることの確率が99.9999%だと言うなら、同じ強さの独立した主張を、丸1年ほどかけて次から次へと100万個行い、平均して間違いが1個ほどで済むと思っていることになる。これだけでも驚くべきことだ。(「汝、宝くじに当たることなかれ」には、その確信度を実際に得られると気づくのも驚きだ。)だから、確率1.0など持ち出すのはやめよう。生きていくのに確率1.0が必要ではないとわかれば、人間の脳で1.0へ到達できると考えるのが、どれほどばかげているかもわかる。確率1.0は、単なる確実性ではない。無限の確実性だ。

実際、誤解を防ぐため、科学者は「確信はない」ではなく、「無限の確信はない」と言って回るべきなのかもしれない。前者は日常会話では、疑う具体的な理由を知っていると受け取られるからだ。