非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

どこに境界を引くべきか?

Where to Draw the Boundary?

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誰かがやって来て、こう言う。

「芸術」という言葉の意味を長いあいだ考え続け、ようやく満足できそうな定義を見つけました。「芸術とは、受け手に反応を起こす目的で作られたものである」

「芸術」という言葉があるからといって、虚空のどこかにその意味が存在し、正しい定義を見つければそれを発見できるということにはならない。

そう感じられるが、そうではない。

言葉をどう定義するかと考えているなら、問題の捉え方が間違っている。実際には意思疎通のための信号にすぎないものの、謎めいた本質を探しているのだ。

さて、合理主義者が取り組んでよい、実質のある課題は存在する。ただしそれは、言葉の満足のいく定義を見つけることではない。本当の課題は、声を出さず、一人用のゲームとして取り組める。どんなものが互いに似ているか、どんなものがまとまりを作っているか、そして場合によっては、どんなものに共通の原因があるかを突き止めることだ。

「デムジキ」という言葉を定義して、稲妻と方位磁針は含め、光は除き、メスメルの「動物磁気」――今でいう催眠――は含めたとしよう。すると、「デムジキはどのように働くのか?」と問うのに苦労するだろう。一緒にすべきでないものをひとまとめにし、集合を完成させるのに必要なものを除いてしまったからだ。(この例は歴史的にもありうる。メスメルはファラデーより前の人である。)

デムジキは間違った言葉だと言える。事物空間の中で、まとまりを曲がりくねって横切る境界であり、現実を自然な継ぎ目に沿って切り分けることのできない切り口なのだ。

継ぎ目に沿って切り分けるには、現実のどこに切れ目を入れればよいか。それを見つけることこそ、合理主義者にふさわしい問題だ。言葉の宙に浮いた本質を探し始めるとき、本来取り組むべきなのはこちらである。

そして間違えてはいけない。呼吸と火を表す一つの言葉が必要だと気づくのは、科学的な課題だ。だから、辞書の編集者に相談しようなどと思ってはいけない。それは彼らの仕事ではない。

「芸術」とは何か? だが、その言葉の本質が虚空に浮かんでいるわけではない。

あなたは、「芸術」と呼ぶものと「芸術ではない」と呼ぶものの長いリストを持って、私のところに来るかもしれない。

そして、こう言う。「こう境界を引くのが直観的にはしっくりくるのですが、理由がわかりません。この外延に合う内包を見つけてくれませんか。この境界を簡潔に記述できますか」

そこで私は答える。「職人技への感嘆に関係していると思います。労力が注がれ、驚嘆が生まれるのです。含まれているものに共通するのは、それらが呼び起こす似通った美的感情と、そのような感情を生む意図で注ぎ込まれた、人間の意識的な努力です」

これは役に立つだろうか。それとも、言葉の使用禁止ゲームでずるをしているだけだろうか。人間の感情のうち、何が美的で何がそうでないかというリストは、芸術であるものとないものをすべて並べたリストより、はるかに簡潔だと私は考える。その感情による活動がfMRI画像に現れるのを見られるかもしれない。感情は実体のないものではないと強調するために、こう言っている。

だがもちろん、私の芸術の定義が本当の要点ではない。要点は、その定義の内包にも外延にも、十分異論を唱えられるということだ。

たとえば、こう言える。「これらに共通するのは、美的感情ではありません。共通するのは、どんな複雑な感情であれ、それを呼び起こすこと自体を目的として、呼び起こそうとする意図です」。これは私の内包、データ点を通る曲線を引こうとする試みへの異議になる。「あなたの式は、それらの点におおむね合うかもしれませんが、真の生成分布ではありません」と言っているのだ。

あるいは、こう言って外延に異論を唱えられる。「この中の一部は、確かに一緒にまとめるべきです。言いたいことはわかります。ただ、Python言語はリストから外すべきで、現代美術は入れるべきです」。(そんなことを言えば、芸術のわからない俗物だとばれるだろうが、主張することはできる。)ここでは、この似ているものと似ていないものの見かけ上のリストを生み出す、背後の曲線が実際にあると仮定している。それがどこから来るかはまだ述べていなくても、筋道と調子があるということだ。ただ、私が知らぬ間に調子を外し、別の生成源から来たデータ点を混ぜてしまったのである。

電気と磁気に何が共通するのかを知るずっと前でも、表面上の様子から、「動物磁気」はリストに入れるべきではないと疑うことはできる。

かつて「魚」という言葉にはイルカも含まれると考えられていた。ここで、やたらと賢しらな論者を演じて、こう言うこともできる。「リスト{サケ、グッピー、サメ、イルカ、マス}は、ただのリストです。リストが間違っているとは言えません。このリストが存在することは、集合論で証明できます。だから、単にこの外延的なリストから成る私の魚の定義が、あなたの言うように『間違っている』などということはありえません」

あるいは、言葉遊びをやめて、イルカは魚のリストに入らないと認めることもできる。

似ていると感じるものをリストにし、なぜそう感じるのかを推測する。しかし、それらに本当に何が共通するかをついに発見したとき、その推測は間違っていたとわかるかもしれない。リスト自体が間違っていたとわかることさえある。

定義上正しいという、安心できる盾に隠れることはできない。外延的定義も内包的定義も間違いうる。現実を継ぎ目に沿って切り分けられないことがあるのだ。

分類は推測を伴う営みであり、間違うこともある。だから、自分の定義という推測が「間違っている」可能性を、理論の上でも認められるようにしておくのが賢明だ。