非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

外延と内包

Extensions and Intensions

❦

「赤って何?」

「赤は色だよ」

「色って何?」

「色は、ものの性質だよ」

だが、ものとは何だろう? 性質とは何だろう? まもなく二人は、言葉を別の言葉で定義する迷路に迷い込む。スティーヴン・ハーナッドがかつて、中中辞典から中国語を学ぼうとすることにたとえて説明した問題だ。

別のやり方もある。「赤って何?」と私に聞いたなら、一時停止の標識を指さし、赤いシャツを着た人を指さし、ちょうど赤になっている信号機を指さし、うっかり切ったところから出ている血を指さし、赤い名刺を指さして、それからコンピューターに色相環を出して、赤い部分へカーソルを動かせる。それでおそらく十分だろう。ただし、あなたが「違う」の意味を知っているなら、本当に厳密な人は、空も指さして「違う」と言うべきだと主張するだろう。

この例はS・I・ハヤカワから拝借したのだと思う。もっとも、本当のところ自信はない。幼いころのぼんやりした記憶の中で聞いた話だからだ。(12歳のとき、父が誤って私のコンピューターのファイルを全部消してしまった。それ以前のことは、何も覚えていない。)

ともかく、内包的定義と外延的定義の違いを初めて学んだときのことは、そう記憶している。「内包的定義」を与えるとは、辞書のように、言葉や句をほかの言葉で定義することだ。「外延的定義」を与えるとは、大人が子どもに教えるときのように、例を指し示すことだ。いまの文は「外延的定義」の内包的定義を与えている。したがって、それは「内包的定義」の外延的な実例になる。

ハリウッド流の合理性や、一般に大衆文化では、「合理主義者」は言葉に取りつかれ、現実から切り離された果てしない言語空間に浮かんでいる者として描かれる。

だが、本物の伝統的合理主義者は昔から、経験との強い結びつきを保つことを訴えてきた。

化学の教科書でリチウムの定義を調べれば、原子量がほぼ7の元素だと説明されるかもしれない。だが著者がもっと論理的な心の持ち主なら、こう教えるだろう。ガラス状で、半透明、灰色か白色で、非常に硬く、もろく、不溶性の鉱物の中から、非輝炎を深紅に染めるものを探す。その鉱物を石灰または毒重石の殺鼠剤とともにすりつぶし、溶融させると、一部を塩酸に溶かせる。その溶液を蒸発させ、残留物を硫酸で抽出し、適切に精製すれば、通常の方法で塩化物に変えられる。それを固体として取り出し、溶融し、強力な電池6個で電気分解すれば、ガソリンに浮く、淡い桃色がかった銀色の金属の小球が得られる。そして、その小球をなす物質こそがリチウムの試料なのである。

これが、ハリウッドの脚本家ではなく、本物の伝統的合理主義者が述べる「論理的な心」の例だ。

だが注意してほしい。パースは、実際にリチウムのかけらを見せているわけではない。本にリチウムのかけらをホチキス留めしたわけではないのだ。代わりに、宝の地図を渡している。実行すればリチウムの外延的な例へと導いてくれる、内包的に定義された手順だ。これはリチウムの塊をぽんと投げて渡すのとは違うが、「原子量7」と言うのとも違う。(もっとも、目が十分に鋭ければ、「陽子が3個」と言うだけで、一目でリチウムを見分けられるかもしれない……。)

これが内包的定義と外延的定義、すなわち、ある概念で何を意味しているかを他人に伝える方法だ。ここまで「定義」と言っていたのは、概念を伝達する方法——「赤」「トラ」「人間」「リチウム」で何を意味しているかを他人に伝える方法——のことだった。では今度は、実際の概念そのものについて話そう。

私の「トラ」という概念の実際の内包は、視覚野から入ってくる信号を調べ、それがトラかどうかを判定する、側頭皮質内の神経パターンだろう。

私の「トラ」という概念の実際の外延は、私がトラと呼ぶものすべてだ。

内包的定義は内包の全体を捉えず、外延的定義は外延の全体を捉えない。一頭のトラだけを指して「トラ」と言った場合、相手が「危険な動物」「雄のトラ」「黄色いもの」を意味すると思えば、伝達は失敗するかもしれない。同様に、何も指ささず「黄色と黒の縞模様がある危険な動物」と言えば、聞き手は大きなスズメバチを思い浮かべるかもしれない。

あなたの心の中にあり、何かをトラかトラでないかと認識させる認知上の概念を、その細部まで言葉で捉えることはできない。大きすぎるのだ。また、これまで見たすべてのトラを指し示すこともできない。まして、あなたがトラと呼ぶだろうものすべてを指し示すことなど、できない。

最も強力な定義は、内包的な伝達と外延的な伝達の両方から狙いを定め、概念を固定する。それでも、伝えているのは概念へ至る地図や、概念を作るための指示だけだ。自分の心や世界にある実際のカテゴリーを、そのまま伝えているわけではない。

(確かに、十分に工夫すれば、この規則の例外は作れる。たとえば「2008年2月4日現在、エリエザー・ユドカウスキーが公表した、『huragaloni』という語を含む文」。たった今、この概念の外延全体を示したことになる。だが数学を除けば、定義はたいてい宝の地図であり、宝そのものではない。)

これが、「言葉は好きなように定義できる」とはいかない、もう一つの理由だ。他人の脳に概念を直接プログラムすることはできない。

定義こそが実際の概念だとみなすアリストテレス流の枠組みの中でさえ、内包と外延を同時に自由にはできない。火星を「巨大な赤い岩石の球体で、質量は地球のおよそ10分の1、太陽からの距離は地球より50%遠い」と定義したとしよう。この内包的定義が、経験の中のある特定の外延的なものに当てはまると示すのは、それとは別の問題だ。そもそも、何か実在するものに当てはまるかどうかさえ、別の問題だ。代わりに、夜空の赤い光を指して「あれが火星だ」と言えば、この外延的な光が、私の提案する何らかの内包的定義——あるいは私の抱く内包的な信念、たとえば「火星(マルス)は戦争の神だ」——に当てはまると示すことが、別の問題になる。

だが、内包を適用する脳の働きの大半は、意識的に熟考する水準より下で起きる。赤い光を「火星」と同定することが、「火星(マルス)は戦争の神だ」という言語的な定義とは別の問題だと、私たちは意識していない。火星を記述する内包的定義をどんなふうに考え出しても、私の心は「火星」がこの物体を指しており、それは太陽系の第4惑星だと信じている。

人間の心が実際にどう働くかを考慮すると、「言葉は好きなように定義できる」は、すぐに「決まった一群の対象について、何でも好きなことを信じられる」や「決まった所属判定の内側や外側へ、好きな対象を移せる」になる。概念の内包は、大きく複雑な神経的な所属判定なので、普通はその全体を言葉で伝えられない。それと同じように、それは意識的な熟考より下の水準で適用されるため、その全体を制御することもできない。だからこそ、XYZは「定義上」真だと論じるのが、あれほど人気なのだ。定義の変更が、本来そうあるはずの、経験的には何も変えない操作として働いていたなら、誰もわざわざ論じたりしないだろう。だが定義を少し悪用すれば、それは魔法の杖に変わる。もちろん、議論の中での話だ。現実ではない。

Charles Sanders Peirce, Collected Papers (Harvard University Press, 1931). ↩