非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

意味を感じる

Feel the Meaning

❦

誰かが「あ、見て、チョウだ」と言うのを聞くと、発音された「チョウ」という音素が耳に入り、鼓膜を振動させ、蝸牛へ伝えられる。聴神経が刺激されて、聴覚野へ活動電位を伝える。そこで音素の処理が始まり、単語の認識や構文の再構成(けっして単純な逐次処理ではない)など、さまざまな複雑なことが起きる。

だが、結局のところ——というより、ほんの一秒後には——私は友人が指さすほうを見て、チョウだと認識する視覚パターンを見る準備ができている。代わりにオオカミが見えたら、かなり驚くだろう。

友人がチョウを見る。喉が震え、唇が動く。目に見えない圧力波が空気を伝わる。私の耳が聞き、神経が変換し、脳が再構成する。すると、なんと、友人が何を見ているかわかる。素晴らしいではないか? 空気中の圧力波を知らなかったら、全新聞が報じる大発見だっただろう。人間にはテレパシーがある! 人間の脳は、互いに思考を伝えられる!

実際、私たちにはテレパシーがある。だが、魔法が単に現実で、友人もみんな使えるとなると、わくわくしないのだ。

テレパシーは簡単だと思うだろうか? 自分とテレパシーが通じるコンピューターを作ってみるといい。テレパシー、「言語」、あるいはこの部分的な思考伝達能力を何と呼ぶにせよ、見かけよりもずっと複雑なのだ。

だが、いつも「これから、自分の思考のいくつかの特徴を部分的に、音素の一次元的な系列へと変換し、会話相手に似た思考を呼び起こそう……」と考えるのは、ひどく不便だろう。

そこで脳は、その複雑さを隠す。というより、そもそも表象しない。そのせいで、人は言葉について妙な考えを抱くようになる。

前に述べたとおり、大きな黄色い縞模様の物体が飛びかかってきたら、私は「うわっ、トラだ!」と思う。「ふむ……大きく、黄色く、縞模様という性質を持つ物体は、これまでしばしば『空腹』『危険』という性質も持っていた。したがって、論理的に必然ではないが、ぎゃあああ、バリバリ、ごくん」とは思わない。

同じように、誰かが「うわっ、トラだ!」と叫んだとき、自然選択は次のように考える生物を優遇しないだろう。「ふむ……いま『ト』と『ラ』という音節を聞いた。部族の仲間は、その音を、私のトラ概念に対応する自分の内的なものと結びつけている。そして、それを発する確率が高くなるのは、彼らがある物体を何かに分類したときで、ぎゃああ、バリバリ、助けて、腕をくわえられた、バリバリ、ごくん」

これを人間の認知アーキテクチャの設計上の制約として考えるなら、聴覚野が「トラ」という音節を認識してから、トラの概念が活性化するまでの間に、余計な段階は一つも挟みたくないだろう。

ブレッグとルーブのたとえ話と、速く、少ないコストで分類する集中型ネットワークに戻ろう。「ブレッグ」という音節を認識するユニットから、ブレッグ・ネットワークの中心のユニットへ、直接のつながりが走っていると想像できる。熟練選別係のスーザンが「ブレッグ!」と言うのを聞くやいなや、中心ユニット、つまりブレッグの概念が活性化する。

あるいは話す場合も——これにも途方もない時間がかかってはいけない——青い卵形のものを見て、中心のブレッグ・ユニットが発火するとすぐ、スーザンに「ブレッグ!」と叫ぶ。

このアルゴリズムを内側から感じると、ラベルと概念は、ほぼ同一視される。意味は、言葉そのものに本来備わった性質のように感じられるのだ。

  図:中央のカテゴリーのノードに、色、明るさ、内部、表面、形の五つの周辺ノードがつながるニューラルネットワーク  

ネットワーク3

詳しい人なら、これはE・T・ジェインズの「心の投影の誤謬」の一例だと気づくだろう。言葉そのものの性質として、その言葉が意味を持っているように感じる。赤さが赤いリンゴの性質であるように、あるいは、謎めいていることが謎めいた現象の性質であるように。

実際、たいていの場合、脳は言葉と意味をまったく区別しない。わざわざ二つを分けるのは、新しい言語を学ぶときくらいかもしれない。そのときでさえ、スーザンが青い卵形のものを指して「ブレッグ!」と言うのを見たら、「ブレッグ」ってどういう意味だろうとは思っても、スーザンは「ブレッグ」という聴覚上のラベルを、どんな心的カテゴリーと結びつけているんだろうとは思わない。

この観点から、お決まりの定義争いで、二人が「音」という言葉の本当の意味を論じ合う場面を考えよう。あるリンゴは本当は赤いのか緑なのかを、論じ合うのと同じように。

アルバート:「僕のコンピューターのマイクは、周囲に聞く人が誰もいなくても音を録音し、ファイルに保存できる。それを『音声ファイル』って呼ぶんだ。ファイルに保存されているのは、空気の振動のパターンであって、誰かの脳内の神経発火のパターンじゃない。『音』は振動のパターンを意味するんだ」

バリー:「へえ、そうかい? 辞書も君と同意見か、確かめてみようじゃないか」

アルバートには直感的に、「音」という言葉には意味があり、その意味は音響振動なのだと感じられる。森で木が倒れると音がすると感じられるのと同じだ(音のカテゴリーに合致する出来事を引き起こす、とは感じない)。

バリーも同様に、次のように感じる。

sound.meaning == auditory experiences

forest.sound == false.

次のようには感じない。

myBrain.FindConcept("sound") ==
concept_AuditoryExperience

concept_AuditoryExperience.match(forest) == false.

こちらのほうが、実際に起きていることに近い。だが、人間はこれがわかるようには進化していない。脳がニューロンでできていると本能的には知らないのと、同じことだ。

アルバートとバリーの相反する直感が燃料となり、「音」という言葉の意味をめぐる段階でも、議論は続く。これは、ほかのどんな事実をめぐる争いとも同じように感じられる。空は青いのか緑なのかと争うように。

自分たちが熱く争っている事実によって結果が変わる、検証可能な実験を述べるという合理主義者の儀式を試みるまでは、どこかで道を誤ったことにすら気づかないかもしれない……。