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誰かが「あ、蝶だ」と言うのを聞くと、「ちょう」という音素が私の耳へ入り、鼓膜を振動させ、蝸牛へ伝わり、聴神経を刺激する。聴神経は活性化スパイクを聴覚皮質へ伝え、そこで音素処理が始まり、それとともに単語の認識、統語構造の再構成(決して逐次的な過程ではない)、その他ありとあらゆる複雑な処理が進む。
しかし結局、一日の終わり――いや、一秒の終わり――には、友人が指すほうを見て、蝶として認識する視覚パターンを見るよう、私はプライミングされている。そして代わりにオオカミを見たら、かなり驚くだろう。
友人が蝶を見る。喉が振動し、唇が動く。圧力波が目に見えず空気を進む。私の耳が聞き、神経が変換し、脳が再構成する。すると驚くべきことに、私は友人が何を見ているか知っている。これは素晴らしくないだろうか? 空気中の圧力波について知らなければ、あらゆる新聞が報じる大発見になっただろう。人間はテレパシーを使える! 人間の脳は互いへ思考を転送できる!
実のところ、私たちはテレパシーを使える。しかし魔法が単に現実のもので、友人もみな使えるなら、わくわくするものではない。
テレパシーは単純だと思うだろうか? あなたとテレパシーできるコンピュータを作ってみよう。テレパシーでも「言語」でも、私たちの部分的な思考転送能力を何と呼んでもよいが、それは見かけより複雑である。
とはいえ、「さて、自分の思考のいくつかの特徴を、会話相手の中で似た思考を呼び起こす音素の線形列へ、部分的に変換しよう……」などと常に考えるのは、かなり不便だろう。
そこで脳は複雑さを隠す――いや、そもそも表象しない。そのため、人は言葉についていくつか奇妙なことを考える。
先ほど述べたように、大きく黄色く縞模様の物体が私へ飛びかかると、私は「うわっ! トラだ!」と考える。「ふむ……大きさ、黄色さ、縞模様という性質を持つ物体は、以前にも『空腹』や『危険』という性質をしばしば持っていた。したがって、論理的必然ではないものの、うわあああっ、バリバリ、ごくん」とは考えない。
同じく、誰かが「うわっ! トラだ!」と叫んだとき、次のように考える生物を自然選択が優遇することはない。「ふむ……私はいま、『タ』と『イガー』という音節を聞いた。仲間の部族民はこれを、私自身のトラ概念に対応する内的なものへ結びつけている。そして彼らは、ひいいいっ、バリバリ、助けて、腕をくわえられた、バリ、ごくんとカテゴリー化する物体を見た場合、そう発話する可能性が高い」
これを人間の認知構造に対する設計上の制約として考えるなら、聴覚皮質が「トラ」という音節を認識してからトラ概念が活性化するまでに、どんな余計な段階も入れたくはないだろう。
ブレッグとルーブの寓話と、高速かつ安価にカテゴリー化する中央集約型ネットワークへ戻ろう。「ブレッグ」という音節を認識するユニットから、ブレッグ・ネットワーク中央のユニットへ、直接接続が走っていると視覚化できる。仕分け主任のスーザンが「ブレッグ!」と言うのを聞くと、ほぼ同時に中央ユニット、すなわちブレッグ概念が活性化する。
あるいは、話すためにも――やはり何億年もかかるべきではない――青い卵形のものを見て中央のブレッグ・ユニットが発火すると、すぐスーザンへ「ブレッグ!」と叫ぶ。
そしてこのアルゴリズムが内側から感じられる仕方は、ラベルと概念がほとんど同一化されており、意味が言葉そのものに固有の性質であるように感じられる、というものだ。
ネットワーク3
事情通なら、これがE・T・ジェインズの「心の投影誤謬」の一例だと分かるだろう。言葉そのものの性質として、言葉が意味を持っているように感じる。赤さが赤いリンゴの性質であり、神秘性が神秘的な現象の性質であるのと同じである。
実際、ほとんどの場合、脳は言葉と意味をまったく区別しない。おそらく新しい言語を学ぶあいだだけ、わざわざ二つを分ける。そのときでさえ、スーザンが青い卵形のものを指して「ブレッグ!」と言うのを見て、「ブレッグ」は何を意味するのだろうと考えるのであって、スーザンは「ブレッグ」という聴覚ラベルを、どの心的カテゴリーへ結びつけているのだろうとは考えない。
この観点から、標準的な定義論争で、二人が「音」という言葉が本当は何を意味するかを論じる部分を考えよう。あるリンゴが本当に赤いか緑かを論じるのと、同じ仕方である。
アルバート:「私のコンピュータのマイクは、聞く人が誰もいなくても音を録音し、ファイルとして保存できる。そしてそれは『音声ファイル』と呼ばれる。ファイルに保存されるのは空気中の振動パターンであって、誰かの脳にある神経発火のパターンではない。『音』とは振動パターンを意味する」
バリー:「へえ、そうか? 辞書が君に同意するか、見てみようじゃないか」
アルバートは直観的に、「音」という言葉が意味を持っており、その意味は音響振動であると感じる。森で倒れる木が音を立てる(「音」カテゴリーへ一致する出来事を生むのではなく)とアルバートが感じるのと同じである。
同じくバリーは、次のように感じる。
音.意味 == 聴覚経験
森.音 == 偽.
次のようにではない。
私の脳.概念を探す("音") ==
概念_聴覚経験
概念_聴覚経験.一致(森) == 偽.
後者のほうが実際に起きていることへ近い。しかし人間はこれを知るようには進化していない。脳がニューロンからできていることを、人間が本能的に知ってはいないのと同じである。
アルバートとバリーの相反する直観は、「音」という言葉が何を意味するかを論じる段階で議論を続ける燃料になる。それは、空が青いか緑かを論じるのと同じく、ほかの事実と同様の事実を論じているように感じられる。
熱く論じている事実によって結果が変わる、検証可能な実験を述べるという合理主義者の儀式を行おうとするまでは、何かが道を誤ったことに気づきさえしないかもしれない……。