非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

ヒューマニズムは宗教の成果に並べるか?

Can Humanism Match Religion’s Output?

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警察と税金によってでも、給料と管理職によってでもなく、成員からの自発的な寄付で結ばれた、現代世界でおそらく最大の自発的な組織は、カトリック教会だ。

狩猟採集民の集団で共同作業をするときのように、個人間の交渉でまとまるには大きすぎる。だが、感染先が多く、伝達も速い、より大きな世界では、もっと強烈なミームが現れると予想できる。旧約聖書は地獄を語らないが、新約聖書は語る。カトリック教会を結びつけているのは、その思想、制度、指導者をめぐる感情の死の螺旋だ。永遠の幸福と永遠の刑罰の約束だ。神学者はそれを本当には信じていないが、普通のカトリック信者の多くは信じている。また、教会で直接会い、周囲から圧力を受ける人々の、単純な同調もある。等々。

「合理主義者」を名乗る大胆さを持つ私たちは、そんな共同体のつながりに頼るほど、自分たちは低級ではないと思っている。

そのため、たとえばタイの津波被災者に食べ物や住まいを届けるような、単純で明白な慈善活動をしたい人は、リチャード・ドーキンスに無神論者を動かすよう頼むより、教皇にカトリック信者を動かすよう頼むほうが、はるかにうまくいくだろう。

これが真実である限り、カトリックが減って無神論が増えても、ほかにどんな恩恵があろうと、いささか空しい勝利になる。

確かに、カトリック教会は、エイズに苦しむアフリカでコンドームの使用に反対することもしている。確かに、集めたお金を、宗教がらみのあれこれに大量に浪費している。不明瞭な思考に浸ることは、無害ではない。祈りには代償が伴う。

有害な行動を控えることは、合理主義者にとって、確かに本物の勝利だ……。

ただし、それが唯一の勝利なら、少し空しい。

カトリック教会が与える害をすべて脇に置き、善いことだけを見るなら……平均的なカトリック信者は、単により活発だからという理由で、平均的な無神論者より多くの善を、差し引き前の総量としてなしているのだろうか。

もっと賢いが、意欲は低い人なら、効率の高い介入を探して、効用単位を安く買えるかもしれない……。しかし、いつかやろうと思うだけでなく、実際にそれをしている私たちは少ない。

ここであなたは、お手上げだと言うかもしれない。「脳の動機づけの回路を直接制御できない限り、従わなければ永遠に地獄で焼かれると本気で信じる人と同じほど、合理主義者に強い動機を期待するのは非現実的です」

もっともな指摘だ。合理的な主体は、非合理的な主体と少なくとも同じくらいよくやれるはずだ、という通説はどれも、勝っていると観測された「非合理的」方策を、合理的な主体もいつでもそのまま実行できる、という仮定に頼っている。だが、無限の心的エネルギーを持つことを選べないなら、ある誤った信念は、利用可能などんな正しい信念より、冷厳な事実として強い動機を与えるかもしれない。そして、私たちがみな、すべきだと思うほど人を助ける気になれないという、利他行動における意志の弱さを抱えているなら、善行の成果を競う勝負で、神を恐れる人が勝つこともありうる。

だが、これは動機づけられた継続だとしても、この問いをもう少し考えてみよう。

地獄への恐怖さえ、完璧な動機にはならない。進化の引き綱は、人間にそれほどの自由を与えていない。短時間なら動機に抵抗できるが、そのうち心のエネルギーが尽きる(情報提供:infotropism)。地獄に落ちると信じていても、脳の回路についてのこの厳然たる事実は変わらない。だから信者は罪を犯し、そのあと地獄へ行くと思って苦しむ。喫煙者が、やめられない自分を責めるのとよく似ている。

合理主義者の集団が何かをとても大切に思っていたら……信仰あるカトリック信者が実際に生み出す成果に並べないと、誰が言うのだろう。かかっているのは「無限の」幸福や「永遠の」刑罰ではないかもしれない。だが、脳は無限どころか3↑↑↑3すら思い描けない。「人類の成長と開花」、あるいは「津波に苦しむタイの人たち」のために脳が放出する、いわば何かを大切に思う神経伝達物質の量が、「天国での永遠の幸福」の場合より、ずっと少なくなければならないと、誰が決めたのか。100人を超える人に関わることなら、どれも思い描くには大きすぎる効用が関わる。ほかにも、よくあるバイアスがいろいろ働いている。それを知ることも、いくらか有利に働くのではないか、と期待してもよいだろう?

認知行動療法と禅の瞑想は、実際の改善をもたらすことが実験で示された、二つの精神的鍛錬だ。私が重点的に開発してきた技法の領域ではないが、私を支える本物の合理性の武術があるわけでもない。心から大切にする価値のある目的に、認知行動療法と禅の瞑想から抽出した鍛錬を組み合わせれば、合理主義者が追いつけないと誰が言うのだろう。さらに一般的に言えば、実際に何が効くか実験して確かめる、証拠に基づいた意志の弱さとの戦い方があれば、神の怒りを恐れる、まとまりのない心より意欲が低くなければならないと、誰が言うのだろう。

それでも……これは、今は存在しない技法を開発できるかもしれないという、もっと先の未来についての推測だ。今すぐ使える技ではない。ここで述べたのは、合理性をそう簡単に見限らないという考えを示すためにすぎない。何がうまくいかないかを理解し、知的に改善を試み、効いたかどうかの証拠を集める。これは強力なやり方であり、最初の不利な点を見つけただけで、軽く捨て去るべきものではない。

実際、ここで効いているのは、永遠の刑罰の動機づけの力というより、同じ目的を持つ人と直接会うことの力なのではないか、と私は疑っている。つまり、実際に教会へ行き、信仰を持つ隣人がいることの力だ。

今の成長段階にある合理主義者の共同体にとって、これは問題だ。私たちは少なく、地理的にも、まったくばらばらの場所に散らばっているからだ。もしLess Wrongの読者全員が、互いに半径5マイル以内に住んでいたら、もっとずっと多くのことを成し遂げられるだろう。連携のためではなく、ただ意欲のために。

この問題については、長期的で、夢見がちで、理想主義的な考えを、あとで書こうと思う。私たちの数を100倍に増やすことに頼らない、もっと短期的な解決策があれば、そのほうがよい。特に気になるのは、最新の優れたビデオ会議ソフトで、直接会うときの動機づけの効果が、少しでも得られるかどうかだ。答えは「ノー」だろうと思うが、試す価値はあるかもしれない。

それまでは……短期的には、同じことを大切にする人がそばにいることによる後押しがほとんどないまま、意志の弱さと戦うしかない。「難しいが、できる」と言いたいところだが、それすら真実かどうか、私には確信がない。

カトリック教会の一人当たりの成果を生む力に並ぶために、合理主義者が取れる最大の一歩は、同じ課題に貢献する人たちが定期的に直接集まることではないかと思う。ただ、意欲を高めるために。

それがないなら……。

何かを強く大切に思うことが、隠さずに許されるどころか、称賛される集団規範を目指せる。そして、自分の人生で何か役立つことをするのが当然とされる規範もだ。この世界をよくするため、自分の分を担うのである。宗教は、実際に成し遂げる側面を、それほど強調しない。

そして、カトリック信者一人当たりの平均的な利他行動の努力の、半分にさえ並べるなら、より効率のよい活動を的確に選ぶことで、典型的な合理主義者が2倍の成果を上げられると考えるのは、まったく非現実的ではないと思う。

カトリック教会は、収入のどれほどを、実際に人を助けるのではなく、役に立たない宗教上のあれこれに使っているのか。思い切って言えば、50%を超えるだろう。ならば、私たちはこう言える。多少の皮肉はあるが、本来そんな気持ちで活動すべきではないにせよ、収入の最低5%を本当に役立つ活動に寄付するという集団規範を広めよう、と。(宗教の十分の一献金では、通常、最低10%が推奨される。)そのうえで、期待効用単位を桁違いに安く得られる活動を選ぶ技法もある。効用の市場が非効率である限りは。

しかし、そんな自慢を夢見始めるよりずっと前に、私たち世俗的ヒューマニストは、まず信仰する人々の一人当たりの善行の成果に、少なくとも並ぶ努力をしなければならない。