非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

科学はまだ厳しさが足りない

Science Isn’t Strict Enough

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昔々、若いエリエゼルは愚かな理論を持っていた。エリエゼル18は、教わった伝統的な合理性の教えを注意深く守り、自分の愚かな理論に実験で確かめられる帰結があることを確認した。エリエゼル18は、教わった科学者の美徳に従って、自分の愚かな理論を検証したいと公言した。

科学の道における美徳としてエリエゼル18が教わったところでは、徳を備えるのに必要なのは、それだけだった。

正しい答えを得るために必要だったはずの努力とは、桁違いにかけ離れていた。

科学の伝統的な理想は、あまりに簡単に花丸をくれる。否定的な実験結果も知識だから、参加者は全員ご褒美をもらえる。自分の理論を試す何らかの実験を考え、実際にそれを行い、結果を受け入れさえすれば、規則を守っている。あなたは良い科学者だ。

必ずしも正しい答えを得たわけではないが、科学の規則を守る善良な市民ではある。

(ここで断っておくが、私が話しているのは「科学」であって、実際の社会的な過程としての科学ではない。理由は二つある。第一に、私が道を誤ったのは科学の理想に従おうとしたからだ。恨みを持つ学術誌の編集者に潰されたわけでも、学界の欠点をまねようとしていたわけでもない。第二に、伝統的に説かれる理想の問題を私が指摘したからといって、現実の科学者まで同じように道を誤らざるをえないわけではない!)

科学は、壮大な哲学体系や机上の推論への反乱として始まった。だから、どんな仮説を検証してよく、どんな仮説を検証してはいけないかという規則は、科学にはない。それは個々の科学者に任されている。あらかじめそれを推測しようとすれば、何らかの壮大な哲学体系と、証拠に先立つ推論が必要になる。社会的な理想としての科学は、異端の仮説を思いついたからといって、あなたを悪人とは見なさない。誠実な実験と結果の受容が、科学者の美徳なのだ。

大半の科学者が、確定的で、見まがいようもなく、曖昧さのない実験的証拠を何とか受け入れられるかぎり、科学は進歩できる。遅すぎるかもしれない。本来より長くかかるかもしれない。年長者の世代が死に絶えるのを待たなければならないかもしれない。それでも、やがて知識のラチェットは、カチリともう一段先へ進む。一年ごと、十年ごとに、車輪は前へ回る。それで文明を支えるには十分だ。

つまり科学が本当に求めるのは、それだけである。現実を頭に叩きつけられたら、受け入れる能力だ。大した要求ではないが、科学の文化を保つには十分なのだ。

これを、確率論にある、厳密で定量的な合理的判断という考えと比べてほしい。通常の検診を受ける女性の1%に乳がんがあり、乳がんのある女性の80%はマンモグラフィーで陽性となり、乳がんのない女性の10%には偽陽性が出るとする。通常の検診でマンモグラフィーが陽性となった女性に乳がんがある確率は、いくらか。7.5%だ。「検査結果が十分に確定的ではないので、この人に乳がんはないと思う」と言ってはいけない。次のように言ってもいけない。

「悲観的であるほうが賢明だし、これまで唯一の検査がそう示しているようだから、この人には乳がんがあると思う」。この証拠からの合理的な見積もりは7.5%であり、7.4%でも7.6%でもない。確率の法則は、法則なのだ。

『十二の美徳』では、第三の美徳、身軽さについてこう書かれている。

証拠を束縛と見なし、そこから自由になろうとするなら、あなたは自分の気まぐれの鎖に、自分を売り渡す。寝室に座って目を閉じ、衝動に任せて紙に線を引いても、街の正しい地図は描けない。街を歩き、目にしたものに対応する線を紙に描かなければならない。街がはっきり見えないからと、気まぐれで線を少し右へ、少し左へ動かせると思うのも、まったく同じ間違いだ。

科学では、どの仮説を検証するかを決めるとき、科学の道徳は、何を信じるかについて個人の自由を認める。すでに実験で排除されておらず、検証に取りかかりさえすればよい。科学は、実験の前に、検証するのに最良の仮説について公式見解を出そうとはしない。それは個々の科学者の良心に委ねられる。

確定的な実験的証拠があるなら、科学は頑固な頭を下げて受け入れよと言う。それ以外は、あなた次第だ。科学は、実験的証拠の境界の内側で、気まぐれに歩き回る余地を与えてくれる。

これは、実験の前にも後にも、柔軟に変えたり気まぐれを差し込んだりする余地のない、ぴったり正しい確率の見積もりが存在する、というベイズ主義の考えとは、簡単には折り合わない。ベイズ主義は、科学が古くから存在する理由と、うまくかみ合わない。その理由とは、壮大な体系への不信、そして人は確定的で明白な実験的証拠がなければ正答に至れるほど合理的ではない、という前提だ。全員が完全なベイズ主義者なら、科学という社会的過程は必要ないだろう。

とはいえ、自分の大きな間違いに気づいたころ、私はカーネマン、トヴェルスキー、ジェインズも学んでいた。科学よりも厳しい、新しい道を学んでいたのだ。科学には決してできない仕方で、私の愚かさを批判できる道を。科学が前もっては決して言わないことを、言ってくれる道を。「検証する仮説の選び方を間違えたんだよ、まぬけ」

だが、ベイズの道は、科学よりもはるかに使いこなすのが難しい。科学は、頭に落ちてきた鉄床に気づけと求めるだけだが、ベイズの道は、ごく小さな音の狂いを聞き取る能力に、とてつもない負担をかける。

科学では、一つ二つ間違えても、また別の実験が現れて訂正してくれる。最悪でも、二十年ほど無駄にするだけだ。

だが、定性的にでもベイズを使おうとするなら、つまり科学があなたを信用して任せようとしないこと、圧倒的な証拠なしに合理的に推論することを試みるなら、数学と同じように、百段階のうち一つの誤りだけで、どこへでも飛ばされかねない。そこでは、身軽さ、公平さ、精密さ、完璧主義が求められる。

科学が、この種のことを科学者に任せず、手がかりと論理から正答を得たと誰かが主張したあとでさえ、さらに実験による証明を求めるのには、もっともな理由がある。

だが、間違った理論の証明に10年を浪費したくないなら、はるかに難しい問題に挑む必要がある。耳元で叫んではくれない証拠に、耳を傾けることだ。

ある問題の事前確率を化学・物理学便覧で引けなくても、事前確率を教える権威ある情報源がなくても、だからといって、自分の好きな事前確率を自由に選んでよいわけではない。それは、全力を尽くして取り組むべき、新しい推測の問題が生まれたということだ。

心が認知のエンジンとして、気まぐれに事前確率をいじって正しい見積もりを生み出せるなら、見ずに物事を知ることや、触れずに変えることさえできるだろう。だが、心は魔法ではない。事前確率が分からないように思えるときでも、合理的な確率の見積もりには、気まぐれによる決定が入り込む余地はない。

同様に、ベイズ的な答えを計算するのが難しいからといって、ベイズが適用できないわけではない。ベイズ的な答えをあなたが知らないということだ。ベイズ確率論は、統計手法の道具箱ではない。それは、法則である。あなたが知っていてもいなくても、計算できてもできなくても、使うすべての道具を支配する法則だ。

「これまでの物理実験すべてのデータがここにある。では、どんな万物の理論がよいだろうか?」というような、巨大で非常に一般的な仮説空間にベイズ的手法を使うことについて言えば、それを実際に行う方法を知っているなら、あなたは統計学者ではなく、汎用人工知能のプログラマーだろう。だが、だからといって、人間が人間の知性で宇宙をモデル化するとき、証拠なしに正しい推測を生み出して、物理法則やベイズの法則に違反しているわけではない。

ニック・タールトンは、こうコメントしている。

問題は、社会的な基準と同じくらい緩い、個人の認識上の基準を奨励することだ。

これは、私が指摘しようとした問題を、私よりはるかに的確に言い当てている。