❦
私は何度も、認知科学について話しているはずの会話でさえ、定義をめぐる言い争いへ進んでいくのを見てきた。古典的な例として「森で木が倒れ、誰も聞いていなかったら、音はするのか?」を取り上げると、議論はしばしばこんな道をたどる。
森で木が倒れ、誰も聞いていなかったら、音はするのか?
アルバート:「もちろんするよ。何だ、そのばかげた質問は? 木が倒れるのを聞いたときは、いつも音がした。だから、ほかの木が倒れるときも音がすると思う。自分が見ていない間に世界が変わるとは思わない」
バリー:「ちょっと待って。誰も聞いていないなら、どうして音だと言えるの?」
この例では、バリーがアルバートと言い争うのは、何が音を構成するかについて、本当に違う直感をもっているからだ。だが、このお決まりの言い争いの始まり方は、一つではない。バリーには、アルバートの結論を拒みたい動機があるかもしれない。あるいは懐疑的なバリーが、アルバートの議論を聞き、論理的な欠陥がないか反射的に吟味し、反論を見つけると、その反論への反論をもう一段探すことなく、自動的に受け入れ、そうして、議論によって自らを反対の立場へ導いたのかもしれない。これには、バリーのもともとの直感——アルバートが話す前に尋ねていれば抱いていた直感——が、アルバートと違っている必要はない。
まあ、初めは違う直感でなかったとしても、今は確かに違っている。
アルバート:「音がしないって、どういう意味だ? 木の根が切れ、幹が倒れて地面に激突する。そこから、地面と空気を伝わる振動が生まれる。倒れるエネルギーは、熱と音になるんだ。人が森からいなくなると、木がエネルギー保存則に違反するというのか?」
バリー:「でも、誰も何も聞かない。森に人間がいなくて、議論のために言えば、『聞く』ことのできる複雑な神経系をもつほかのものもいなければ、音を聞く者はいない」
アルバートとバリーは、それぞれの立場を支持するように感じる議論を持ち出し、自分の「音」検出器が反応したり沈黙したりする原因となった考えを、さらに詳しく説明する。だが、ここまでは、話の焦点はまだ定義でなく森にある。そして、森で起きることについて、二人は実際には何一つ意見が違わないことに注目してほしい。
アルバート:「こんなくだらない議論は初めてだ。おまえなんか、ニドルウィッキンのファランフィンなピクルス配管工め」
バリー:「そうかい? おまえこそ、顔が燃えて、誰かにシャベルで消されたみたいな顔をしてるな」
侮辱は投げつけられ、受けて立たれた。これでどちらも、面目を失わずには引けなくなった。厳密には、合理主義者の捉え方では、これは論証の一部ではない。だが、お決まりの言い争いではあまりに重要な部分なので、やはり入れておく。
アルバート:「木は音響振動を生む。定義によれば、それは音だ」
バリー:「誰も何も聞いていない。定義によれば、それは音ではない」
議論の焦点は、定義へ移り始める。文字どおり純粋数学についての議論ではないのに、「定義によって」と言いたくなったら、思い出してほしい。「定義によって」真であるものは、すべての可能世界で真なのだ。だから、その真であることを観察しても、自分がどの世界に住んでいるかは、決して絞り込めない。
アルバート:「僕のコンピューターのマイクは、聞く人が近くにいなくても音を記録して、ファイルに保存できる。それを『音声ファイル』と呼ぶだろう。ファイルに入っているのは、空気の振動のパターンで、誰かの脳の神経発火のパターンじゃない。『音』とは振動のパターンのことなんだ」
アルバートは、「音」という語が特定の意味をもつことを支持するように感じる議論を持ち出す。これは、森で音響振動が起きるかどうかとは別の種類の問いだが、その切り替わりは、たいてい気づかれない。
バリー:「そうかい? じゃあ、辞書もそう言っているか見てみよう」
木が倒れる話には、好奇心を向けられることがたくさんある。森へ行って木を見てもいいし、空気圧の変化について波動方程式を導く方法を学んでもいい。耳の解剖学や、聴覚皮質の神経解剖学を調べてもいい。だが、どれもせず、どうやら私は辞書を引くことになっているらしい。なぜ? 辞書の編集者は、植物学、物理学、神経科学の専門家なのか。百科事典ならわかるが、なぜ辞書なのだろう。
アルバート:「ほら! メリアム・ウェブスターの定義2cだ。『音:空気などの物質的媒質中を、縦の圧力波として伝わる機械的な放射エネルギー』」
バリー:「ほら! メリアム・ウェブスターの定義2bだ。『音:聴覚によって知覚される感覚』」
アルバートとバリー、声をそろえて:「忌々しい辞書め! これじゃ何の役にも立たない!」
辞書の編集者は、言葉の使用法の歴史家であり、言語の立法者ではない。実際に使われる言葉を見つけ、人々がその言葉で意味しているらしいもののごく一部を、その言葉の隣に書き留める。使い方が複数あれば、定義も複数書く。
アルバート:「いいかい。森にマイクを置いて、木が倒れる音響振動のパターンを録音したとしよう。それを誰かに再生して聞かせたら、その人は『音』と呼ぶはずだ! それが普通の使い方なんだ。勝手に変な定義を作るなよ!」
バリー:「第一に、一貫して使うかぎり、言葉は好きに定義していい。第二に、僕の言った意味も辞書に載っていた。第三に、何が普通の使い方で何がそうでないか、おまえに決める権利を誰が与えたんだ?」
お決まりの言い争いには、合理性の誤りがずいぶんたくさんある。すでに扱ったものも、これから扱うものもある。対処法も同じだ。
だが今は、ただ、少し悲しい気持ちで指摘しておきたい。森の中で実際に何が起きているかについては、ほぼすべての問いでアルバートとバリーは一致しているようなのに、一致しているという感覚は、まるで生まれていないらしい。
定義をめぐる言い争いは、迷い道だ。行き着く先が初めから見えていれば、人はそこを進まない。まだ言い争っている理由をアルバート(バリー)に尋ねれば、おそらくこう答えるだろう。「バリー(アルバート)は、とんでもない悪党で、自分のばかげた主張を支えるため、『音』の独自の定義をこっそり持ち込もうとしている。僕は標準的な定義を守っているんだ」。
だが、私が時間をさかのぼり、議論が始まる前へ行ったとしよう。
(最初の映画『タイム・マシン』のタイムマシンそっくりの奇妙な乗り物に乗り、エリエゼルがどこからともなく現れる。)
バリー:「うわっ! 時間旅行者だ!」
エリエゼル:「私は未来から来た旅人だ! 私の言葉を聞け! 私ははるか過去へ旅してきた。およそ15分——」
アルバート:「15分?」
エリエゼル:「——この伝言を届けるために!」 (混乱と期待の入り混じる間が空く。)
エリエゼル:「『音』は、音響振動、つまり空気中の圧力波と、聴覚経験、つまり音を聞く誰かの両方を必要とすると定義すべきだと思うか? それとも、音響振動だけ、あるいは聴覚経験だけを意味すると定義すべきだと思うか?」
バリー:「それを聞くために時間をさかのぼって来たの?」
エリエゼル:「私の目的は私のものだ! 答えよ!」
アルバート:「うーん……それがなぜ重要なのかわからないな。一貫して使うなら、どんな定義を選んでもいいんじゃないか」
バリー:「コインを投げれば。ええと、2回投げれば」
エリエゼル:「私なら、その問題が起きたら、双方とも、音響振動や聴覚経験のように、曖昧でない下位の構成要素で出来事を描写するよう切り替えるべきだと言うね。あるいは、それぞれが以前『音』と呼んでいたものに、『アルバズル』と『バルグルム』のような新しい語を割り当て、両者がその新しい語を一貫して使ってもよい。そうすれば、どちらも引き下がったり面目を失ったりせず、それでいて意思疎通できる。そしてもちろん、その議論が実際に何についてのものなのか、検証できる命題を、いつでも見失わないようにすべきだ。これでよさそうかい?」
アルバート:「まあ、そうかな……」
バリー:「どうして僕らは、この話をしているんだ?」
エリエゼル:「君たちが今や知ることのなくなった、ある出来事から、友情を守るためだ。未来はすでに変わったのだから!」
(エリエゼルと機械は、ひと吹きの煙とともに消える。)
バリー:「何の話だったっけ?」
アルバート:「そうだ。森で木が倒れ、誰も聞いていなかったら、音はするのか?」
バリー:「アルバズルはするけど、バルグルムはしない。次の質問は?」
この対処法で、カテゴリー分けをめぐるすべての争いが消えるわけではない。だが、そのかなりの部分は消せる。