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以前、私は母に専門家の較正の問題を説明しようとして、こう言った。「つまり、専門家が99%確信していると言っても、実際に起きるのは70%くらいなんだ」。そこで少し間が空いた。突然、話している相手が自分の母親だと気づき、私は慌ててつけ加えた。「もちろん、その懐疑は、自分自身も含めて、公平に適用しなければならない。自分が同意しないものすべてへの反論に使うだけではなく――」
すると母は言った。「冗談でしょう? これはすごい! いつでも使うことにするわ!」
テイバーとロッジの「政治的信念の評価における動機づけられた懐疑」は、六つの予測が確認されたことを報告している。1
- 事前態度効果。ある問題に強い思いを持つ被験者は、客観的になるよう促されても、反対する議論より支持する議論を好意的に評価する。
- 反証バイアス。被験者は、支持する議論より反対する議論を貶めるために、多くの時間と認知資源を費やす。
- 確証バイアス。情報源を自由に選べる被験者は、反対する情報源より支持する情報源を探し求める。
- 態度分極化。賛成と反対の議論を一見して均衡よく揃えたものへ被験者を触れさせると、当初の分極化がさらに大きくなる。
- 態度強度効果。より強い態度を表明する被験者ほど、上記のバイアスに陥りやすい。
- 洗練効果。政治に詳しい被験者ほど、一致しない事実や議論へ反論するための弾薬を多く持つため、上記のバイアスに陥りやすい。
初めから非合理的なら、知識が増えることで害を受けることがある。真のベイズ主義者にとって、情報の期待効用が負になることは決してない。しかし人間はベイズを扱う完璧な使い手ではない。注意しなければ、自分を切ることがある。
私は、バイアスについての自分自身の知識によって、ひどくおかしくなった人々を実際に見た。嫌いなものすべてに反論するための弾薬が増えたのだ。そして、すぐ使える弾薬が多すぎるというこの問題は、精神的敏捷性が高い人々が、スタノヴィッチの言う「非合理症」という意味で愚かになる主な道の一つである。
この記述に当てはまる人を思い浮かべられるだろう。高いg因子を持ちながら、議論者として洗練されすぎているため、かえって有効性が低くなる人々である。古典的バイアスの一覧を教えるだけで、彼らを助け、より有効な合理主義者にできると思うだろうか。
較正と自信過剰の問題を学んだ人を覚えている。その直後、彼はこう言った。「まあ、専門家は信用できない。実験が示しているように、彼らはあまりに頻繁に間違う。だから私が未来を予測するときは、物事が歴史的にそうであったとおり続くと仮定するほうがよい――」。そして、この複雑で、誤りやすく、きわめて疑わしい外挿を延々と展開した。どういうわけか、自分が好む結論を信頼する段になると、あらゆるバイアスや誤謬は、ほかの誰かに反論する必要があるときよりも、ずっと目立たなくなり、ずっと思い浮かびにくくなった。
私はその人物に、反証バイアスと洗練された議論の問題について話した。すると驚くべきことに、次に私が彼の気に入らないことを言うと、彼は私を洗練された議論者だと非難した。特定の洗練された議論や特定の欠陥を指摘しようとはせず、私が自分の知性を使って自分自身を打ち負かしているらしいことに、ただ首を振り、悲しげにため息をついた。彼は、また一つ万能反論を手に入れたのだ。
「洗練された議論者」という概念でさえ、気に入らないことを言う、一見して知的な人物に出会ったとき、あまりにも容易に頭へ浮かぶなら、命取りになり得る。
私は自分の過ちから学ぶよう努めている。前回ヒューリスティックとバイアスについて講演したときは、連言錯誤と代表性ヒューリスティックを通じて、一般概念を紹介することから始めた。それから、確証バイアス、反証バイアス、洗練された議論、動機づけられた懐疑、その他の態度効果へ進んだ。続く30分間、できるだけ多くの異なる観点から紹介し直し、その主題を叩き込み続けた。
聴衆にこの題材への関心を持ってほしかった。まあ、連言錯誤と代表性を簡単に説明するだけで、その目的には十分だった。しかし、彼らが実際に関心を持ったとしよう。それからどうなるのか。バイアスに関する文献の大半は、認知心理学のための認知心理学である。その一度の講義で、聴衆に重大な警告を伝えなければならなかった。そうしなければ、彼らはおそらく二度と耳にしないからだ。
紙に書くときも、話すときも、今では、反証バイアス、動機づけられた懐疑、洗練された議論者、精神的に敏捷な人の非合理症について最初に話さないかぎり、較正と自信過剰に決して触れないよう努めている。まず、害をなすなかれ!
Charles S. Taber and Milton Lodge, “Motivated Skepticism in the Evaluation of Political Beliefs,” American Journal of Political Science 50, no. 3 (2006): 755–769, doi:10.1111/j.1540- 5907.2006.00214.x. ↩