非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

毒ニンジンの寓話

The Parable of Hemlock

❦

すべての人間は死すべきものである。ソクラテスは人間である。ゆえに、ソクラテスは死すべきものである。

ソクラテスは毒ニンジンの杯を唇に運んだ……。

「これほど賢く善い人なら、毒ニンジンでも死なないのではないか?」と、見物人の一人が尋ねた。

「いや」と、そばにいた哲学の学生が答えた。「すべての人間は死すべきもので、ソクラテスは人間だ。死すべき者が毒ニンジンを飲めば、当然死ぬ」

「でも、もしソクラテスが死すべきものでなかったら?」と見物人は言った。

「ばかな」と学生は少しきつい口調で答えた。「すべての人間は、定義によって死すべきものだ。それは『人間』という言葉の意味の一部だ。すべての人間は死すべきもので、ソクラテスは人間だから、ソクラテスは死すべきものなのだ。単なる推測ではない。論理的に確実なことだ」

「そうなのだろうね……」と見物人は言った。「ああ、ほら、話している間にソクラテスがもう毒ニンジンを飲んでしまった」

「ああ、もうじき倒れるはずだ」と学生は言った。

そして彼らは待ち、待ち、待ち続けた……。

「ソクラテスは死すべきものではないようだ」と見物人は言った。

「なら、ソクラテスは人間ではないはずだ」と学生は答えた。「すべての人間は死すべきものだ。ソクラテスは死すべきものではない。ゆえに、ソクラテスは人間ではない。そしてこれは単なる推測ではなく、論理的に確実なことだ」

「定義によって」真だと論じることの根本的な問題は、定義を変えても、現実の成り行きを変えることはできないという点だ。

たとえば、こう推論することはできる。「私が観察した、服を着て、言葉を話し、道具を使うものは、空気を吸い、赤い血を巡らせるといった、ほかの性質も共通していた。このまとまりに属する『人間』が毒ニンジンを飲むのを観察した直近30件では、いずれも間もなく倒れ、動かなくなった。ソクラテスはトーガを着て、古代ギリシャ語を流暢に話し、杯から毒ニンジンを飲んだ。だから、ソクラテスは今後5分以内に倒れるだろうと予測する」

だが、それは単なる推測だ。そう、絶対に、永遠に確実というわけではない。科学以前の哲学者の大部分と同じく、ギリシャの哲学者たちは確実性がかなり好きだった。

幸い、ギリシャの哲学者たちには、あなたの疑問を粉砕する反論がある。「すべての人間は死すべきものである」の意味を誤解しているのだ、と彼らは言う。それは単なる観察ではない。「人間」という言葉の定義の一部だ。死すべきことは、それぞれが必要条件であり、合わせれば十分条件となって、「人間」というクラスへの所属を決める、いくつかの性質の一つなのだ。「すべての人間は死すべきものである」という文は、論理的に妥当な真理であり、絶対に疑う余地がない。そして、ソクラテスが人間なら、死すべきものでなければならない。論理的な演繹であり、これ以上ないほど確実なのだ。

だがそれでは、ソクラテスが死すべきものであると観察した後でなければ、ソクラテスが「人間」だと確実に知ることはできない。流暢なギリシャ語を話すことを観察しても、赤い血が流れていても、さらには人間のDNAをもっていても、役に立たない。これらの特徴はどれも、死すべきことと論理的に同値ではない。彼が人間だったと結論するには、死ぬのを見なければならないのだ。

(そして、それでも無限に確実ではない。死ぬのを見た次の晩、ソクラテスが墓からよみがえったらどうだろう。もっと現実的には、ソクラテスが人体冷凍保存を申し込んでいたら? 死すべきことを寿命が有限であることと定義するなら、誰かが人間だったかどうかを本当に知るには、永遠の終わりまで観察しなければならない。戻ってこないことを確かめるために。あるいは、ソクラテスが倒れるのを見たと思っているだけで、網膜走査装置で目に投影された幻だったかもしれない。もしかしたら、すべて幻覚だったかもしれない……。)

三段論法の問題は、いつでも妥当だということだ。「すべての人間は死すべきものである。ソクラテスは人間である。ゆえに、ソクラテスは死すべきものである」は、論理的な三段論法として扱えば、私たちの宇宙でも論理的に妥当だ。進化した生化学が少し違うため、毒ニンジンが毒でなくおいしいごちそうになっている隣のエヴェレット分岐でも、論理的に妥当だ。そして、ソクラテスが存在したことのない宇宙でも、それどころか、人間が存在したことのない宇宙でも、論理的に妥当なのだ。

仮説を支持する証拠のベイズ流の定義は、仮説が偽の場合より真の場合のほうが観察されやすい証拠、というものだ。三段論法が論理的に妥当だという観察は、どんな経験的な命題を支持する証拠にも決してならない。その命題が真でも偽でも、三段論法は論理的に妥当だからだ。

三段論法はあらゆる可能世界で妥当なので、その妥当性を観察しても、私たちが実際にどの可能世界に住んでいるかは、何もわからない。

これは論理が無用だという意味ではない。ただ、論理が教えられるのは、ある意味ではすでに知っていることだけだ、ということだ。だが、知っていることをいつでも信じているとは限らない。29,384,209は素数だろうか。十進法と算術の公理をどう定義したかによって、この問いに対する私の答えはすでに決まっている。それでも、私はまだ自分の答えを知らず、見つけるには論理を使わなければならない。

同じように、「人間は毒ニンジンに弱い」という不確かな経験的一般化と、「ソクラテスは人間だ」という不確かな経験的推測を立てるなら、論理は、それまでの私の推測が、ソクラテスは毒ニンジンに弱いと予測していることを教えられる。

論理的推論は、不可能な可能世界についての不確実性を解消するものと捉えられる、と提案されている。論理的に不可能だとは知らなかった、論理的に不可能な世界に割り当てた確率質量を、取り除くのだ。この意味では、論理的な議論を観察として扱うことができる。

だが、「ソクラテスは倒れて呼吸を止めるだろう」とか、「ソクラテスはジャンピングジャックを50回やり、来年はオリンピックに出場するだろう」といった経験的予測を語るとき、問題になるのは可能世界であって、不可能な可能世界ではない。

論理は、どの仮説がどの観察に対応するか、その仮説が未来について何を予測するかを教えられる。昔の観察と以前の推測を、新しい問題に適用できるのだ。だが論理は、「ソクラテスは今から呼吸を止めるだろう」と断言することは決してない。論理は経験的な問いの答えを決定しない。想像力を働かせれば、どちらに転ぶことも考えられる現実世界の問いには、決して決着をつけないのだ。

論理に抗する連祷を、覚えておこう。

どこへ行こうとも、論理は真のまま。
だから論理は、あなたがどこにいるかを教えない。