非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

温かい満足感と効用は別々に買おう

Purchase Fuzzies and Utilons Separately

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以前、こう書いた。

経済学には、ずっと昔からある疑問、あるいは指摘がある。弁護士が1時間余分に働き、その報酬を寄付して誰かを雇う代わりに、炊き出しで1時間ボランティアをする、という話だ……。

意欲を保ち、自分がなぜこの活動をしているのかを思い出すために、炊き出しで1時間働く必要があるなら、それでいい。だが、事務所で働いた時間の一部に相当する報酬も寄付すべきだ。それこそが専門分業の力だからである。その寄付の小切手は、炊き出しに参加する権利を買うもの、あるいは炊き出しに使った時間を正当化するものと考えてもよい。この点は後で詳しく述べる。

私は、小柄なおばあさんのためにドアを開けて押さえておく。文字どおりこれを最後にしたのがいつかは、実は覚えていない。この1年ほどのどこかでやったのは確かだと思うが。だが、たとえばこの1か月以内には、散歩中に、家の車寄せに停まったステーションワゴンのトランクが全開で、車内へ自由に手が届く状態になっているのを見つけた。荷物を運び出しているところかと思って中を見たが、そうではなかった。周囲を見回して、その車で何かしている人がいないか確かめた。そして最後に家まで行ってノックし、それから呼び鈴を鳴らした。やはり、トランクをうっかり開けっぱなしにしていたのだった。

別の状況なら、これは単純な利他的行為だ。他人の幸福を本当に気にかけていること、不作為への罪悪感を恐れていること、自分や他人に信頼できる人間だと示したいこと、あるいは利他的に振る舞うことが心地よいことの表れかもしれない。ちなみに私は、これらはどれもまったく正当な動機だと思う。最初のものには加点してもいいが、ほかのものを減点する気はない。人が助かるかぎりは。

だが私自身は、すでに非営利の仕事をしているので、さらに問いが生じる。同じ60秒をもっと専門性の高い仕方で使い、他人により大きな利益をもたらせなかったか? つまり、ほかにもいろいろ信じていると公言することを踏まえて、これを時間の最善の使い道だと、本当に擁護できるのか?

明らかな擁護、あるいは明らかな合理化は、このような利他的行為が、たとえば音楽を聴くよりずっと効率よく、意志力を回復する役割を果たすというものだ。また、理屈の上だけで利他主義者でいられる自信もない。問題のそばを素通りし続けたら、自分の利他性が薄れ始める気がする。試して確かめるほど、その道を進んだことはない。危険を冒す価値はなさそうだからだ。

だが、それを擁護の理由にするなら、この行為を善行として擁護することはできないのではないか? 私が挙げているのは、自分に返ってくる利益なのだから。

いや、誰がこの行為を、無私の善行として擁護していると言った? これは利己的な善行だ。意志力が回復するなら、あるいは利他的でい続けられるなら、そこから間接的に他人へ向かう利益も生じる。少なくとも私はそう信じている。もちろん、他人のためになるという「裏の動機」を持つ利己的行為など信用しない、と返してもよい。だが、それなら私も同じくらい簡単にこう答えられる。同じ原則で、最初の善行も、その背後にあるとされる動機ではなく、行為自体を直接見ればいいのではないか。

こんなやり方は通用するのだろうか? つまり、「利己的な善行」と呼びながら、それが利己的であることに罪悪感を抱かず、なお意志力を回復できるのだろうか? どうやら私にはできる。そのようにうまくいくことに自分でも驚くが、実際そうなのだ。ノックしてトランクが開いていると伝え、相手が「ありがとう!」と言ってくれれば、私の脳は、今日のすばらしい善行を果たしたと感じる。

もちろん、あなたに同じように効くとは限らない。意志力回復の技を作ろうとするときの問題は、人によって効くものが違うように見えることだ。(つまり、私たちは表面の現象の水準を探っているだけで、その違いも予測できるはずの、もっと深い規則を理解していない。)

だが、この点で私と似ている、つまり利己的な善行でも効果があるとわかったなら、温かい満足感と、効用の単位であるユーティロンを、別々に買うことを勧める。同時にではない。同時に両方を得ようとすれば、どちらもうまくいかないだけだ。地位や評判が大事なら、それも別に買おう!

新たに億万長者になって慈善の世界へ入る人に助言するなら、私はこんなことを言うだろう。

さらに私は、その億万長者に、ユーティロンへ使う金額を、温かい満足感に使う金額の、たとえば少なくとも20倍にするよう助言するだろう。利他性を保つための間接費5%は、妥当に思える。そして、あなたを冷静に評価する私も、それほど大きな倍率があるなら、温かい満足感を正当化することに何の困難も感じない。ただし、もとの満足感を得る行為は、本当に役立つものでなければならず、害をもたらすものであってはならない。

(地位や評判を買うことは、私には本質的に利他主義とは無関係に思える。同じ価格のスピードボートを買うより、Xプライズに寄付したほうが友人を感心させられるなら、ボートを買う理由はない。そのお金は「友人を感心させる」の欄に入れ、それが「利他主義」の欄ではないとわかっていればよい。)

だが、主な教訓は、この三つ――温かい満足感、地位や評判、期待ユーティロン――は、一度に一つだけを最適化し、別々に買うほうが、はるかに効率よく手に入るということだ。乳がんの慈善団体へ1000万ドルの小切手を送ることは、同じ1000万ドルを、たとえばパーティーか何かに使うより、はるかに立派ではある。だが、一人の人生を好転させるその場に自分で立ち会うときの、凝縮された幸福感は得られないだろう。おそらく、それに遠く及ばない。また、Xプライズのような華やかなものへの寄付ほど、パーティーの話の種にもならない。ほかの金持ちに、少しうなずいてもらえるくらいかもしれない。そして、温かい満足感や評判への関心を一切捨てれば、その1000万ドルで桁違いに多くのユーティロンを生み出せる、支援が十分に届いていない既存の慈善団体は、おそらく少なくとも千はある。三つの基準を一度に最適化しようとすれば、どれもうまく最適化されず、三つの方向へぼんやり押し進むだけになる。

もちろん、あなたが百万長者でも、まして億万長者でもなければ、そこまで効率よくはできず、簡単にまとめ買いもできない。それでも私は、温かい満足感を得るなら、受益者が明瞭に生き生きと見え、できれば直接会って助けられる、比較的安価な慈善活動を探そう、と言いたい。炊き出しでボランティアをしよう。あるいは、小柄なおばあさんのためにドアを開けて押さえておくだけでもいい。ユーティロンを買うほかの努力によって、それが正当化されるようにしよう。だが、それをユーティロンを買うことと混同してはいけない。地位や評判は、よい服を買うほうが安く手に入るだろう。

そして、期待ユーティロンを買う話になったら、もちろん、黙って掛け算をしよう。