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スティーヴ・オモハンドロは、ほぼ合理的な自己改変エージェントの内部では、何に資源を追加投入しても、その限界便益はほぼ等しくなるはずだ、という趣旨のフォーク定理を提案している。もう少し正確にいえば、エージェントの効用関数と、自分のアルゴリズムについての確率的な予想に照らして、どの二つの作業のあいだでも資源を1単位移したところで、期待効用は増えないはずだ、ということだ。
この資源配分の均衡原理から、自己改変する心の内部を含めた、ほぼ合理的なシステムの非常に広い範囲で、期待効用単位の共通通貨が存在し、やる価値のあることは何でもそれで測れる、ということになる。
私たちの社会では、この期待効用単位の共通通貨を「お金」と呼ぶ。それは、社会が何かをどれほど大切にしているかの尺度だ。
これは残酷だが明白な事実であり、多くの人が否定したくなる。
ここの読者なら、ただそう述べて先へ進んでもよいと思いたい。今の今まで、「社会」が知的で、慈悲深く、正気だと思っていたわけでもないだろう?
こう言うのは、多くの善い活動に共通する、ある点を伝えるためだ。あなたが一度でも好意的な言葉をかけたことのある慈善団体は、それを口にしたことがあるかどうかにかかわらず、あなたにこの点を理解してほしいと、きっと願っている。私は非営利の世界で働くほかの人々の話を聞いてきたので、ここで自分のことだけを言っているのではないとわかっている……。
多くの人は、やる価値があると思うものを見つけると、空き時間を数時間ボランティアに使うとか、5年前のノートパソコンと缶詰を送るとか、どこかの行進に参加するとかはしたいと思う。だが、いずれにせよお金は使いたくない。
本当に、その気持ちはわかる。お金を使うたび、ヒットポイントを失っている気がする。自分の純資産を一つの数で表せることの問題は、そこにある。その数値が下がるのを見るのは気持ちよくない。生きていれば普通に増減するものだとしてもだ。それを禁じる楽しさの理論の原則が、あってもよさそうなものだ。
だが、まあ……。
経済学には、実に古くから、こんな疑問、あるいは観察がある。炊き出しで1時間ボランティアをする弁護士の話だ。余分に1時間働き、そのお金を寄付すれば、炊き出しで5時間働く人を雇えるのに、そうしないのである。
「リカードの比較優位の法則」というものがある。「専門分化」という考えがある。「規模の経済」という概念がある。「交換の利益」という概念がある。お金が存在する理由そのものが、それぞれがもっとも得意なことをすることで得られる、莫大な利益を実現するためなのだ。
大人はそうする。何かを実際に成し遂げたいときは、そうするのだ。お金を使って、専業の専門家を雇う。
確かに、時間をお金に換える機会が限られている人もいる。不完全就業ということだ。そんな人は、普段ならお金と引き換えに提供するものを、直接寄付できるほうがよい。もし炊き出し側が弁護士を必要としていて、その弁護士が、法的業務にまとまった連続した時間を優先的に提供するなら、そのようなボランティアには意味がある。弁護士が通常お金と引き換えに提供するのと同じ専門的な能力だからだ。だが、わずか1時間の法的業務を「ボランティア」し、たびたび後回しにして、ほかの仕事の合間の数分ずつに分け、3週間かけるのはどうだろう。誰かが本当に大切にしていることは、そんなやり方では進めない。ほぼ同じことを言えば、お金が絡むときには、そうはしないのだ。
この原則を腹の底で理解していないと、人は、単に道徳的に望ましく見えることを進める場合、お金を使うかどうかは、どこか任意なのだと考えてしまうかもしれない。自分の食事を用意するような仕事とは違って。その望ましさは、奇妙にも別扱いされる。この要因だけでも、40人を超える集団で、共通の利益を追求できなくするには十分かもしれない。
交換や専門分化による経済的利益は、なんとなくよさそうだが不自然に聞こえる考え、といったものではない。この世界で何かが成し遂げられる唯一の方法なのだ。お金は紙切れではない。大切にする気持ちの共通通貨である。
だから、昔からこう言う。「お金が世界を回す。愛は世界が吹き飛ぶのを、かろうじて防ぐだけだ」
もちろん、アクラシア、つまり自分で決めたことを実行できない問題はある。この合理性の技の領域は、誰かほかの人に発展させてもらいたい。私の専門は、どちらかといえば不可能な問いを扱うことだ。それに、お金を使うほうがボランティアより苦痛なのも確かだ。銀行口座の数字が下がるのは見えるが、残りの人生の時間は目に見える数字になっていないからだ。だが、自分が食べる段になると、「うーん、牛を自分で育ててみるべきかな。牛肉にお金を払うより痛くないし」と考えるだろうか。リカードの法則に頼ることなしに、何でもできるわけではない。そして、その交換の向こう側にいる人々も、お金が減ると思えば同じ痛みを感じるのだ。
思いつくかぎりでも、ヒットポイントを失う痛みを和らげ、寄付と「よいことをした!」という実感との結びつきを強めるために、できることはありそうだ。私が今、お金の本質と力を強調し、お金を出すだけの人は自分から関わるほどには気にかけていないのだという有害なミームを非難することで、やろうとしているのもその一部だ。それは単に、狩猟採集の時代を超えた市場経済という概念を理解していない心の表れだ。寄付とは、小切手を書く一瞬の行為ではない。その小切手を書けるだけのお金を稼ぐために費やした、すべての時間の行為だ。まるで、その慈善団体で自ら、自分の専門能力を生かして、大人としての最大の効率で働いたのと同じなのである。
動機を保ち、なぜ今の活動をしているのか思い出すため、弁護士が炊き出しで1時間働く必要があるなら、それは構わない。だが、事務所で働いた時間の一部も、寄付すべきだ。そこに専門分化の力があるのだから。小切手は、炊き出しのボランティアをする権利を買うもの、あるいは炊き出しに費やした時間を正当化するもの、と考えてもよい。この話は後でもう少ししよう。
第一近似では、お金は、正の倍率の違いを除けば、大切にする気持ちの単位だ。つまり、相対的にどれほど大切にするかの単位である。倹約家で、何にでも使うお金が少ない人もいる。だが、実際にブリトーに5ドル払うなら、5ドル払おうとしないものは何であれ、ブリトーほどには大切にしていないということだ。ダイヤモンドの指輪に給料2か月分を使わなくても、パートナーを愛していないことにはならない。(「デビアス。それはただの石だ」)。だが逆に、パートナーのために少しでもお金を使うのをいつもためらうのに、薄型テレビに1000ドル使うことには心理的な抵抗がないようなら、そう、それは相対的に何を大切にしているかを確かに物語っている。
確かに倹約は美徳だ。確かにお金を使うのは痛い。だが結局、大切にする気持ちの単位を、少しも使おうとしないのであれば、それは大切にしていないということだ。