Yudkowsky Sequences 日本語訳
非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

混沌への反転

Chaotic Inversion

最近、何人かの友人と、一時間ごとの生産性と意志力の維持について話していた。私が生涯にわたって苦闘してきた問題である。

難しい問題を初めて見た瞬間に逃げ出さないことはできる(秒単位の粘り強さ)。同じ問題に何年も取り組み続けることもできる。だが、何時間も働き続けることは、私にとって絶え間ない戦いである。言うまでもなく、助言ならすでに山ほど読んだ。そこから得た最大の助けは、ほかの創造的な専門職のかなりの割合が同じ問題を抱え、どの助言もいかにもっともらしく聞こえようと、その人たちも克服できないと知ったことだった。

「仕事ができないときは何をするの?」と友人たちは尋ねた。(会話はたぶん正確ではなく、ごく大まかな要旨である。)

私は、たいてい無作為にウェブサイトを見て回るか、短い動画を見ると答えた。

「それなら」と友人たちは言った。「しばらく仕事ができないとわかっているなら、映画か何かを見ればいい」

私は答えた。「残念ながら、ウェブを見るとか短い動画を見るとか、短い時間単位で済むことをしなければならない。いつ仕事ができるようになるかわからないし、いつそうなるか予測できないから――」

そこで私は言葉を止めた。今まさに啓示を得たからである。

私はいつも、自分の仕事の周期を混沌としたもの、予測不能なものと考えてきた。その言葉を使ったことはなかったが、私はそれをそのように扱っていた。

ところが、ここで友人たちは――何と奇妙な考えだろう――ほかの人々なら、いつ自分が再び仕事をできるようになるか予測し、それに応じて時間を組み立てられる、と示唆しているようだった。

そして私は初めて、忌々しいお決まりの心的投影の誤謬を、高尚な抽象の世界ではなく、まさに平凡な日常生活のなかで犯していたのかもしれない、と気づいた。

私の生産性が異常なほど混沌としていたのではなく、その予測に関して私が異常なほど愚かだっただけなのかもしれない。

愚かさを反転させると、このような姿、すなわち混沌に見える。扱いにくく、捉えにくく、予想しにくく、どうすることもできないものだ。これは人工知能のような高度に抽象的なものだけに使う表現ではない。日常生活にも当てはまり得る。

そして、私たちが「自分が愚かなのだ」という別の説明を考えない理由は、私の推測では、自分を高く評価しているからではない。ただ、自分自身についてまったく考えないからだ。環境の混沌とした特徴が見えるだけである。

そこで今、私の生産性の問題は混沌ではなく、自分自身の愚かさなのかもしれない、と思い至った。

それが何かの助けになるかどうかはわからない。少なくとも、問題をすぐ直してはくれない。「私は無知だ」と言っても、知識は増えない。

しかし少なくとも、「あまりに混沌としている」と言うのとは別の道である。