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アインシュタインやニュートンのような歴史上の人物に、超能力があったかのように話し、考える傾向は広く見られる。魔法のような、神聖な、日常を超えた何かだ。(何かを崇拝する方法は、その祭壇の周りにろうそくをともすほかにも、いくらでもあることを忘れないでほしい。)
私もかつては、とくにアインシュタインについて、無自覚にそう考えていた。ジュリアン・バーバーの時間の終わりを読んで、その見方が治った。1
バーバーは、随伴現象を排する物理学とマッハの原理の歴史を描き、マッハ以前の論争を説明した。アインシュタインが問題に取り組んだとき、その背後にあり、彼も知っていた、こうしたすべてのことを……。
私の思い込みかもしれない。バーバーの本に、自分自身を投影しすぎたのかもしれない。だが、礼儀正しい文章の行間で、彼がごく静かにこう叫んでいるのを聞いた気がした。
みなさん、アインシュタインがやったことは魔法ではない! ひざまずいて崇拝する代わりに、彼が実際にどうやったかを見れば、あなたたちにもできるかもしれないではないか!
(バーバーは実際には、こんなことを言っていない。本の本文にもない。ジュリアン・バーバーからの引用ではなく、彼の発言として扱わないでほしい。よろしく。)
間違っているか、推測を広げすぎているのかもしれない……だが私は、バーバーがかつて、アインシュタインの方向へさらに進めば、時間のない物理学にどうたどり着けるか説明しようとしたところ、相手に鼻で笑われ、「へえ、自分がアインシュタインだとでも思っているのか?」と言われたのではないか、と少し疑っている。
ジョン・バエズの「トンデモ指数」、第18項。
自分をアインシュタインと好意的に比較するたびに、あるいは十分な証拠もなく特殊相対論や一般相対論が根本的に誤っていると主張するたびに、10点。
第30項。
晩年のアインシュタインが、今あなたの唱えている考えへ手探りで近づいていたと示唆すれば、30点。
もちろんバーバーは、わざわざ自分をアインシュタインと比較しないし、時間のない物理学を支持するために彼の権威へ訴えることもない。トンデモ指数の項目を挙げたのは、自分をアインシュタインと比べる人がどれほど多く、社会が普通それをどう受け止めるかを示すためだ。
トンデモ論者はアインシュタインを魔法のような存在と見る。だから自分を彼に比べ、自分も魔法のようだと褒める。アインシュタインには超能力があり、自分にも超能力があると思っている。それで比較するのだ。
だが、アインシュタインは神聖で、トンデモ論者は神聖ではないのだから、自分を彼と比べるのは冒瀆だ、と考えるのも、同じコインの裏側にすぎない。
聡明な若い物理学者が「アインシュタインの仕事を尊敬していますが、個人的には、それ以上を目指したい」と言ったとしよう。誰かが驚いて、「何だって! 君はアインシュタインの仕事に近いことすら成し遂げていない。彼より賢いとなぜ思う?」と言うなら、その人はトンデモ論者と同じコインの裏側にいる。
根底にある問題は、社会的地位と、研究上の潜在能力を混同することだ。
アインシュタインの社会的地位は、きわめて高い。数々の業績があり、それをどう成し遂げたかがあり、一般の人々にさえ名を覚えられ、科学そのものに名誉をもたらした物理学者だからだ。
私たちは名声とほかの量を混同しがちで、人の行動を、状況よりも性質で説明しがちでもある。
だから、アインシュタインには有名になる前から、生まれつきアインシュタインになる性質があったと考えがちだ。名声と同じほどまれで、業績と同じほど魔法のような可能性が。すると、アインシュタインのしたことをする可能性が自分にあると言うのは、アインシュタインと同じ地位を名乗るのと同じことになる。集団の中で割り当てられた地位を、はるかに超えてしまう。
うまく言えていないが、混乱した考えを解剖しようとしているのだから、仕方がない。アインシュタインは別の領域、神聖な領域に属する。神聖な領域と日常の領域は別なので、正教授やCEOを目指すようには、アインシュタインを目指せない。神のような可能性を持つ存在だけが神聖な領域に入れ、しかもそれは、すでに与えられた運命を果たすだけだ。だから、アインシュタインを超えたいと言うなら、自分はすでに神聖な領域の一員だと主張することになる。王族として生まれる権利のように、彼が生まれ持ったのと同じ運命の後光が、自分にもあると……。
「でもエリエゼル」とあなたは言う。「誰もがアインシュタインになれるわけではないでしょう」
誰もがアインシュタインより優れたことをできるわけではない、と言いたいのだね。
「ええと……そう、そのつもりです」
まあ……現代の世界では、あなたは正しいかもしれない。私がトランスヒューマニストで、人を見ながら「誰もがアインシュタインを超える可能性を持っていないのは、まったくひどい話だ。しかも、これは直せそうな問題だ」と考えて歩いていることは、覚えておくべきだろう。そのことが私の見方にも影響している。
だが、今の世界では、確かに、誰もがアインシュタインになれる可能性を持っているわけではない。それでも……どう言えばよいだろう。
どこで聞いたか覚えていないが、こんな言葉がある。「また一人、ユダヤ人の天才がいるだけだ」。若くして才気を示した詩人か作家か哲学者か誰かが、大きく見ればさほど重要でなく、影響も大きくない仕事をして、結局「また一人、ユダヤ人の天才がいるだけだ」と片づけられた。
アインシュタインが問題への切り口を間違えていたら、十分に重要な問題を選んでいなかったら、何年も粘らなかったら、数ある分かれ道のどこかで間違えていたら、あるいは誰かが先に解いていたら、愛すべきアルバートも、ただの「また一人のユダヤ人の天才」で終わっていただろう。
天才はまれだが、そこまでまれではない。「また一人のユダヤ人の天才」や「頭はいいが人生で何も面白いことをしなかった一人」と片づけられる程度の知力を持つ、と言うのは、それほどありそうもない主張ではない。これに伴う社会的地位は、神聖になるほど高くない。だから普通に評価できる主張に見えるはずだ。
だが、こういう人とアインシュタインになる人を隔てるのは、聡明さの生まれつきの不足ではないのではないかと思う。「面白い問題がない」といったこと、正しく責任を置くなら、「重要な問題を選べなかった」ということだ。キャッシュされた思考の問題があるので、ここは簡単に失敗する。重要な問題を選べと言われた人は、「重要な問題」で頭を検索して、最初に出てきた「地球温暖化」や「ひも理論」を選んでしまう。
本当に重要な問題は、しばしば、考慮にすら入れていない問題だ。不可能に見えたり、その、実際に難しかったり、何より悪いことに、どう解くか分からなかったりするからだ。何年も取り組めば、それほど不可能には見えなくなるかもしれない……だが、これは追加の、珍しい洞察だ。素朴実在論に従えば、解ける問題は解けそうに見え、不可能そうな問題は不可能なのである。
そして、新しく、しかも価値のある切り口を考え出さなければならない。新奇さにアレルギーのない人の大半は、逆方向へ行きすぎて、感情の死の螺旋に陥る。
さらに、楽な暮らしの誘惑に気をそらさず、何年もその問題と格闘しなければならない。「人生とは、別の計画を立てているあいだに起こることだ」と言う。別の計画を実現したいなら、しばしば、人生の誘いを断る覚悟が必要になる。
その仕事をしているあいだ、社会が支えてくれる仕組みになっているわけでもない。
要するに問題は、運命の後光が必要なのに、それが欠けている、ということではない。論文を発表する前のアルバートに会っても、後の高い地位に見合う運命の後光は、感じ取れなかっただろう。ただの、また一人のユダヤ人の天才に見えただろう。
それは、王族としての生得権が隠されていたからではない。そもそも、なかったからだ。必要ないのだ。重要なことをする人だけの別の領域など、存在しない。
こう言うのは、私は自分の人生で重要なことをしたくて、本当に重要な問題と切り口を持ち、何年も格闘し、それを支える仕組みも何とか作ったのに、何らかの形で「へえ? じゃあ、君の運命の後光を見せてみろよ、相棒」と言う人に、実に頻繁に会うからだ。
ジュリアン・バーバーに感銘を受けたのは、実際に持っていなければ、誰にもまね方が分からないだろうと思える資質だった。彼はアインシュタインを見通しているようだった。彼のしたことがすべて、完全に理解できる、普通のことだというように話した。
それに気づいていても、バーバーが「さて、ここでアインシュタインは自分自身の方法を適用し損ね、肝心の洞察を見逃した――」というようなことを言ったときには、やはり驚いた。だが驚きは一瞬だった。私は法則を知っていた。神も魔法もない。昔の英雄は、バックミラーに見ながら通過を確認する道標だ。
こうして見通すことは、達成しなければならないことであり、自分で発見すべき洞察だ。彼の仕事がまだ魔法に見えているのに、「アインシュタインは普通の存在だ!」と言うだけでは、彼を見通せない。それは、どうやるかも分からず、こう宣言するようなものだ。
「意識はニューロンへ還元できるはずだ!」。正しいが、それで問題が解けるわけではない。
アインシュタインはメディアが持ち上げすぎた普通の男だったとか、根っこではほかの人と同じ凡人だったとか、私は言うつもりはない。それははるかに行きすぎだ。この道を歩むには、人によっては……不自然だと考えるような能力を身につけなければならない。私は、人が「人間には不可能」と呼ぶことをするのが、とくに楽しい。自分が成長しているしるしだからだ。
だが、魔法の力を身につける方法は、生まれ持つことではない。それが本当にまったく普通のことなのだと、衝撃とともに気づくことだ。
これは、人生の一般原則である。
ジュリアン・バーバー、時間の終わり――物理学の次なる革命、初版(ニューヨーク:Oxford University Press、1999年)。 ↩︎