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答えようがない問い——答えを想像することさえ不可能に思える問い——に直面したとき、それを解ける問いに変える簡単な方法がある。
次を比べてほしい。
- 「なぜ私には自由意志があるのか?」
- 「なぜ私は、自分に自由意志があると思うのか?」
二番目の問いのよいところは、自由意志なるものが存在しようがしまいが、本当の答えがあると保証されていることだ。「なぜ私には自由意志があるのか?」「私には自由意志があるのか?」と問うと、物理法則の微細なところへ考えが向かう。肉眼で見ようもないほど、巨視的な水準からかけ離れたところへ。そして「なぜXなのか?」と問うているわけだが、そのXは、事実かどうか以前に、筋の通った考えですらないかもしれない。
対して、「なぜ私は、自分に自由意志があると思うのか?」には、必ず答えがある。あなたは実際に、自分に自由意志があると信じている。その信念は、つかみどころのない自由意志よりも、ずっと確かで捉えやすいものに思える。そしてその信念に至る、しっかりした認知上の因果の鎖が、現に存在している。
自由意志はもう卒業したというなら、代わりに次のどれかを選んでほしい。
- 「なぜ時間は後ろではなく前へ進むのか?」と「なぜ私は、時間は後ろではなく前へ進むと思うのか?」
- 「なぜ私は誰かほかの人ではなく、私として生まれたのか?」と「なぜ私は、誰かほかの人ではなく私として生まれたと思うのか?」
- 「なぜ私には意識があるのか?」と「なぜ私は、自分に意識があると思うのか?」
- 「なぜ現実は存在するのか?」と「なぜ私は、現実が存在すると思うのか?」
この方法の優れたところは、問いが混乱していようがいまいが、使えることだ。これを書いている今、私は靴下を履いている。「なぜ私は靴下を履いているのか?」とも、「なぜ私は、靴下を履いていると信じているのか?」とも問える。二番目を問うとしよう。因果の鎖をさかのぼると、次のことがわかる。
- 私は靴下を履いていると信じている。足に靴下が見えるからだ。
- 足に靴下が見えるのは、網膜が視覚野に靴下の信号を送っているからだ。
- 網膜が靴下の信号を送っているのは、靴下の形をした光が網膜に当たっているからだ。
- 靴下の形をした光が網膜に当たるのは、履いている靴下からその光が反射してくるからだ。
- 履いている靴下から光が反射してくるのは、私が靴下を履いているからだ。
- 私が靴下を履いているのは、自分で履いたからだ。
- 靴下を履いたのは、そうしなければ足が冷えると思ったからだ。
- 以下同様。
一段階ずつ因果の鎖をさかのぼると、靴下を履いているという信念は、靴下を履いているという事実によって、すっかり説明できることがわかる。これは当然で、正しいことだ。何かについて、それと相互作用することなく情報を得ることはできないのだから。
一方、砂漠で湖の蜃気楼を見たなら、その見え方についての正しい因果的説明には、砂漠に実際の湖があるという事実は登場しない。この場合、湖があるという信念は単に説明されるだけでなく、説明によって退けられる。
だがどちらの場合も、信念そのものは現実の宇宙で起きている現実の現象だ。心理的な出来事も出来事なのであり、その因果的な来歴はさかのぼれる。
「なぜ砂漠の真ん中に湖があるのか?」という問いは、説明すべき湖がなければ成立しないことがある。だが「なぜ私は、砂漠の真ん中に湖を知覚するのか?」には、いずれにせよ必ず因果的な説明がある。
ここで抜け目なく立ち回る好機を見つけ、こう言う人がいるかもしれない。「よし。私が自由意志を信じるのは、自由意志を持っているからだ。はい、終わり」。もちろん、そう簡単にはいかない。
足に靴下を知覚することは、視覚野で起きる出来事だ。視覚野の働きがよくわからないなら、認知科学によって調べられる。
網膜で光を受け取るのは神秘的な感知の手続きではない。説明できる理由もなく、靴下があると光る魔法の靴下探知機などではなく、生物学の言葉で理解できる仕組みがある。網膜に入る光子は光学で理解できる。靴の表面の反射率は、電磁気学と化学で理解できる。足が冷えることは熱力学で理解できる。
だから、「自由意志があると信じるのは、それを持っているからだ。はい、終わり!」と言うほど簡単ではない。因果の鎖をもっと小さな段階に分け、それ自体は不可解でない要素を使って、各段階を説明できなければならない。
私の網膜と靴下が機構としてどう相互作用するかは、実にはっきりしている。光子や電子など、不可解でない構成要素で記述できる。あなたの脳の自由意志センサーはどこにあり、自由意志の有無をどうやって検出するのか? センサーは感知される出来事とどう相互作用し、その相互作用の仕組みは詳しくはどうなっているのか?
あなたの信念が、実在する現象の妥当な観察から来ているなら、その信念から因果の鎖をさかのぼり始めれば、やがてその事実にたどり着く。
実際に見ているものが自分自身の混乱なら、因果の鎖をさかのぼると、現実とはずれた働きをするアルゴリズムが見つかるだろう。
どちらにせよ、問いには必ず答えがある。しかも、さかのぼり始めるための明確で具体的な場所がある。心の中にしっかり居座っている、あなたの信念だ。
認知科学は、形而上学ほど高遠で輝かしいものには思えないかもしれない。だが少なくとも、認知科学の問いは解ける。答えを見つけるのは簡単ではないかもしれないが、少なくとも答えは存在する。
ああ、それから、もう一つ。認知科学は形而上学ほど高遠で輝かしくないという考えは、単純に間違いだ。一部の読者はこのことに気づき始めていると願いたい。