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20世紀以前、「包括遺伝適応度」という、盲目の白痴の神がひたすら絶対的に執着するものを、明示的な概念としてもつ人間は、一人もいなかった。私たちには、コンドームやオーラルセックスに対する本能的な嫌悪がない。究極の生殖器官である脳は、性的快楽を与える前に、それが繁殖に有効かどうかを調べたりしない。
なぜだろう。なぜ私たちは、包括遺伝適応度に意識的に執着していないのか。人類進化の妖精は、なぜコンドームを発明する脳を作ったのか。「そんなの、とても簡単だったはずなのに」と、新しい複雑なシステムを午後のひとときで設計できる人間は考える。
ご存じのとおり、進化の妖精は包括遺伝適応度に執着している。どの遺伝子を集団全体へ広めるか決めるとき、その遺伝子が生み出すコピーの数以外、何一つ考慮しないようだ。(なんと奇妙な!)
だが、知性の作り手がそう執着しているなら、なぜ、同じように包括遺伝適応度だけを気にする知的エージェント——人間とは呼べないだろうが——を作らなかったのか。そのエージェントは生殖の手段としてしか性行為をせず、避妊を伴う性行為には関わらない。食べ物を食べるのも、味が好きだからではなく、生殖に必要だという明示的な推論に基づく信念のためだ。だから、飴が生存や生殖に有害になれば、食べない。閉経後の女性は、病気が重くなって資源を差し引きで食いつぶす側になるまで孫の世話をし、そうなれば自殺するだろう。
進化の妖精の視点からは、これほど明白な設計の改善もないように思える。
もちろん、十分に強力な帰結主義者を作るのは難しい。自然選択も、ある種、帰結に基づいて推論するが、実際の帰結に頼ることでしか行えない。人間の進化理論家は、適応と生殖成功のつながりを思い描くために、ひどく高尚で抽象的な推論をしなければならない。
だが、人間の脳は明らかに、タンパク質でそのつながりを思い描くことができる。それなら、進化の妖精は人間を作るとき、なぜわざわざ包括遺伝適応度以外の動機をもたせたのか。
タンパク質の脳が初めて自然選択という概念を表してから、まだ2世紀もたっていない。現代の「包括遺伝適応度」の概念は、さらに微妙で高度に抽象的だ。重要なのは、共通する遺伝子の数ではない。チンパンジーはあなたの遺伝子の95%を共有している。重要なのは、繁殖する集団の内部で共有される、遺伝的な変異だ。姉妹との血縁度が2分の1なのは、ヒトという種の中であなたのゲノムにある変異は、それぞれ50%の確率で姉妹と共有されるからである。
互恵的利他行動やコストのかかるシグナリングなど、生殖成功をもたらす原因の全体像を進化生物学者が本当に理解し始めたのは、この1世紀、見方によってはこの50年だけのことだ。これらの非常に詳しい知識なしに、知的エージェントが「包括適応度を最大化する」と取りかかっても、無様に失敗するだろう。
ならば、その知識をタンパク質の脳にあらかじめプログラムしておけばいいではないか。なぜ「包括遺伝適応度」の概念と、明示的な戦略のライブラリを、一緒に組み込んでおかなかったのか。そうすれば、強化子はすべて不要になる。生物は、脂肪の多い食べ物が高い確率で適応度につながると、生まれながらに知っている。後に、もはやそうでないと学べば、脂肪の多い食べ物を食べなくなる。システム全体を組み直せる。そして、コンドームもクッキーも発明しないだろう。
原理的には、これは十分可能に思える。私はときどき、帰結主義をよく理解していない人に会う。「でも、食べるための独立した衝動がなければ、飢えてしまい、繁殖できないではないか」と言う人だ。その生物がまさにその事実を知り、生殖に価値を置く効用関数をもっていれば、自動的に食べる。実際、これこそ自然選択自身が、自動的に食べる生物を作るために使った帰結主義的推論なのである。
好奇心はどうだろう。帰結主義者は、好奇心をもつべき具体的な理由を見たときだけ、好奇心をもつのではないか。そうすると、調べる具体的な理由のついていない重要な知識を、たくさん見逃すのではないか。これも、帰結主義者はまさにその同じ事実を知るだけで、調べることになる。人間の好奇心という衝動は、無差別でなく、問題の特定の特徴に反応する。その複雑な適応も、純粋にDNAによる帰結主義的推論の結果であり、知識の暗黙的な表現だ。この種の探究をした祖先のほうが、多くの子孫を残したのである。
だから原理的には、生殖だけを求める帰結主義者は可能だ。認知的な適応に暗黙的に表されている祖先の歴史すべてを、帰結主義的な中核の上で働く、明示的に表された知識へ変換できる。
だが、盲目の白痴の神は、それほど賢くない。進化は、コードの構造全体を一度にリファクタリングできる人間のプログラマーではない。腰を下ろして毎分60語で命令を打ち込める、人間のプログラマーでもない。
ヒト科の帰結主義より何百万年も前から、強化学習はあった。報酬信号は、生殖と安定して相関する出来事だった。子どもが今、脂肪の多い食べ物を食べれば冬を越せるだろうと、ヒト科でない脳に予見させることはできない。だからDNAは、脂肪の多い食べ物を食べると報酬信号を出す、タンパク質の脳を作る。その後、どの獲物がいちばんおいしいかを学ぶのは、生物自身の仕事だ。
DNAが作るタンパク質の脳の報酬信号は、生殖適応度とは長い距離を隔てて相関するが、生物の行動とは短い距離で相関する。秋に甘い食べ物を食べると、カロリーを消化して脂肪に蓄え、冬を生き延び、春に交尾して夏に子を残せる、ということを理解する必要はない。リンゴはただおいしく、脳は木からもっと多くリンゴを手に入れる方法を考えればいい。
こうして生物には、食べること、巣を作ること、競争相手を追い払うこと、きょうだいを助けること、重要な真理を発見すること、強い同盟を作ること、説得的に論じること、そしてもちろん性行為をすることへの報酬が進化する……。
領域をまたいで帰結を推論できるヒト科の脳が現れ始めると、それらは既存の強化子を得る方法について帰結を推論した。これは比較的単純な継ぎ足しであり、「包括適応度の最大化装置」をゼロから作り直すより、はるかに単純だった。タンパク質の脳は、「包括適応度」を明示的な認知表現としてもたないまま、カロリーや性行為を得る方法を考えた。
人間の技術者なら、こう言っただろう。「おお、帰結主義者を発明したぞ! これで、どんな行動が適応度を高めるかについて、これまで苦労して得た知識をすべて、明示的に宣言できる! この複雑な強化学習の仕組み全体を、『脂肪の多い食べ物と性行為は、普通は包括適応度を高める』という単純な宣言的知識に変換できる。あとは帰結を推論すれば自動的に片づく。それに、コンドームを発明するという明らかな失敗も起きない!」
もっとも、人間の技術者なら、そもそも網膜を裏返しに作ったりもしなかっただろう。
盲目の白痴の神は、一つにまとまった目的ではなく、無数の破片に分かれた注意である。キツネはウサギを捕るよう進化し、ウサギはキツネを逃れるよう進化する。種の数だけ進化がある。だが、それぞれの種の内部では、盲目の白痴の神は、包括遺伝適応度だけに執着する。生殖適応度を高める場合を除き、生存さえ含め、どんな性質にも価値を置かない。鋼鉄の皮膚をもつ生物でも、そのせいで繁殖能力が1%下がるなら、何の意味もない。
それでも、盲目の白痴の神がタンパク質のコンピューターを作ったとき、包括遺伝適応度への偏執的な集中は、忠実には伝わらなかった。その最適化基準は、自分自身を出力することに成功しなかったのだ。進化の作品である私たちは、作り手が私たちにとって異質であるのと同じくらい、進化にとって異質だ。一つの純粋な効用関数は、千の欲望のかけらへ砕け散った。
なぜか。何よりも、進化は絶対的な意味で愚かだからだ。だがそれに加え、最初のタンパク質コンピューターは、盲目の白痴の神ほど汎用的では到底なく、短期的な欲望しか使えなかったからでもある。
結局、なぜ進化は包括遺伝適応度を最大化する人間を作らなかったのかと問うのは、なぜ進化は人間にリボソームを渡し、自分の生化学を設計しろと言わなかったのかと問うようなものだ。進化は、それほど速くコードを組み直せないからだ。だが、知性が愚かにも、この白痴の神の支配を続けさせたなら、自然選択がさらに10億年続くうちに、まさにそういうことが起きるかもしれない。
ニーヴンとパーネルの『神の目の小さな塵』は、生物のままでいる期間が少し長すぎた知的種族を描いている。ゆっくりと進化に本当に隷属するようになり、互いより多く繁殖することに執着する、本物の適応度最大化装置へと次第に変わっていく種族だ。だが幸い、そうはならなかった。ここ地球では。少なくとも、まだ。
だから人間は、砂糖と脂肪の味を愛し、息子や娘を愛する。社会的地位と性を求める。歌い、踊り、遊ぶ。学ぶことが好きだから学ぶ。
かつて生殖適応度と相関していた古い強化子に対応する、千のおいしい味。今では、生殖を高めようと高めまいと求められる。避妊を伴う性行為、チョコレート、とうの昔に死んだバッハの音楽を収めたCD。
そして、ようやく進化を知ったとき、私たちはこう思う。「一日じゅう包括遺伝適応度に執着する? それのどこが楽しいんだ?」
盲目の白痴の神の、ただ一つの偏執的な目標は、千の欲望のかけらへ砕け散った。私はそれでよかったと思う。そう言う私も人間なのだが。そうでなければ、未来で何をするのか。夜空の10億の銀河で何をするのか。最大限に効率的な自己複製子で埋め尽くすのか。子孫たちは、ほかのすべてをそのための手段としか見ず、包括遺伝適応度の最大化に、わざわざ執着すべきなのだろうか。
千の欲望のかけらであることは、いつでも楽しいわけではない。だが少なくとも、退屈ではない。どこかの段階で、私たちは新しさ、複雑さ、優雅さ、挑戦を好むよう進化した。その好みから見れば、盲目の白痴の神の偏執的な集中は、美的に満足できない。
そう、そのまさに同じ好みも、盲目の白痴の神が砕けたかけらから得たのだ。だから何だというのか?