非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

知性があると信じること

Belief in Intelligence

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ガルリ・カスパロフがチェスでどんな手を指すか、私にはわからない。では、「カスパロフはきわめて知的なチェスプレイヤーだ」という私の信念には、どんな経験的内容があるのだろう? その信念は、現実世界でどんな経験を予期するよう私に告げているのか?実は、完全な無知を巧妙に隠しているだけなのだろうか?

この難問をさらに明確にするため、カスパロフが、世界王座を争うほどではない、一介のチェスのグランドマスター、G氏と対局するとしよう。私自身の棋力は低すぎて、この二人の水準の違いは見分けられない。カスパロフの次の手でも、G氏の次の手でも、推測しようとすると、私にできるのは、自分の乏しいチェスの知識で「最善手」を推測することだけだ。すると、どの局面についても、カスパロフが指す手とG氏が指す手に、まったく同じ予測をすることになる。では、「カスパロフはG氏より優れたチェスプレイヤーだ」という私の信念の経験的内容は、何なのだろう?

私の信念の経験的内容は、最後の局面が、引き分けやG氏の勝ちになる局面の集合ではなく、カスパロフの勝ちになる局面の集合に属するという、検証可能で反証可能な予測だ。(投了は、負けに分類される局面へ移行する合法手として扱う。)カスパロフがどの程度「優れたプレイヤー」だと思っているかは、「引き分け」や「G氏の勝ち」という結果の集合に対して、「カスパロフの勝ち」という集合に、どれだけの確率質量を集中させるかに表れる。これらの集合は、ありうる局面の広大な空間を指すという意味では、きわめて大まかだ。だが「カスパロフの勝ち」は、エントロピー最大の状態よりは具体的である。膨大な局面の集合によって、はっきり反証できるからだ。

カスパロフの対局の結果を予測できるのは、彼の目標を知り、理解しているからだ。チェス盤の内側に限れば、私はカスパロフの動機を知っている。成功の基準、効用関数、最適化過程としての標的を知っている。彼が最終的に未来をどこへ向かわせようとしているかを知っており、そこへ到達できるだけの力があると予想している。ただし、どうやってそれを成し遂げるのかについては、あまり予想できない。

私が遠くの街を訪れ、地元の友人が空港まで車で送ろうと申し出てくれたとしよう。私はその辺りの道を知らない。友人が交差点に近づくたびに、左に曲がるのか、右に曲がるのか、そのまま直進するのか、私にはわからない。個々の交差点へ近づいてからでさえ友人の動きを予測できないのだから、一連の動きのすべてを事前に予測することなど、なおさらできない。

それでも、友人の予測できない行動の結果は予測できる。私たちは空港に到着するだろう。たとえ友人の家が街の別の場所にあって、まったく違う曲がり方の連続になったとしても、同じくらい確信をもって空港への到着を予測するだろう。これは、車に乗るよりずっと前から予測できる。私の便はもうすぐ出発し、無駄にする時間はない。予測できない道筋を通って車が空港へ向かうと確信できなければ、そもそも車に乗らないだろう。

科学的な観点からすると、これは驚くべき状況ではないだろうか? 過程の途中の段階を何一つ予測できないのに、その過程の結果は予測できるのだ。

いったい、どうしてこんなことが可能なのか? 普通は、現在を思い描き、そのイメージを時間に沿って先へ進めることで予測する。惑星同士の摂動を考慮した、太陽系の精密なモデルが欲しいなら、主要な天体すべてのモデルを出発点に、時間を一段階ずつ進めてそのモデルを動かさなければならない。

もっと単純な問題には、閉じた形の解があることもある。時刻Tでの未来を計算するのに必要な作業量が、Tにかかわらず一定になるのだ。コインが机に置かれ、1分ごとに裏返る。最初は表を向いている。100分後には、どちらの面を向いているだろう? もちろん、あなたはこの問いに、途中の100段階を思い描いて答えたわけではない。結果の予測に使える、閉じた形の解を使ったのだ。それは、途中のどの段階の予測にも使える。

だが、友人が私を空港へ送ってくれる場合、私が結果をうまく予測するのに使うのは、途中の段階のどれ一つ予測できない、奇妙なモデルだ。このモデルは、初期条件を入力する必要すらない。街のどこから出発するのか、知らなくてもよいのだ!

ただし、友人についてはいくらか知っていなければならない。友人が、私を飛行機に間に合わせたいと思っていることを知る必要がある。また友人には、そうしたいと思えば私を空港へ車で送り届けられるだけの、十分な計画能力があると認めていなければならない。これらは友人の初期状態の性質だ。途中のどの曲がり角も予測できなくても、最終的な行き先を予測できるようにしてくれる性質である。

さらに、友人がうまく車を走らせられるだけの街の知識を持つことも、認めていなければならない。これは友人と街の関係、したがって両者の性質と考えられる。だがそれは、街そのものについても、友人が街について持つ知識についても、何ら具体的な知識を要しない、きわめて抽象的な性質なのだ。

これこそ、私が人生を捧げてきた対象を見る、一つの見方だ。私たちをこれほど奇妙な認識上の立場に置く、こうした驚くべき状況。そしてある意味、私の仕事は、私たちが持ちうる、その奇妙で抽象的な知識の正確な形を解き明かすことだと見なせる。行動はわからないのに、結果は正当な根拠をもって知ることができる、そんな知識である。

「知性」という言葉は、こうした驚くべき状況を、一般性を失わずにすべて記述するには狭すぎる。むしろ「最適化過程」と呼びたい。たとえば、生物の自然選択を研究するときにも、似た状況がある。次に観察する生物の正確な形は予測できない。

だが、私自身の専門は、「知性」と呼ばれる種類の最適化過程だ。さらに狭く言えば、「友好的人工知能」と呼ばれる、ある特定の種類の知性である。それについて、特に精密な抽象的知識を得られることを、私は願っている。