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名目上は正統派ユダヤ教徒である女性との会話について、以前述べた。彼女は、自分は神を信じているという主張を熱心に擁護する一方で、実際には神をまったく信じていないように見えた。
神を信じることで、どんな利益が得られると考えているのか尋ねる中で、私はタルスキの祈りを紹介した。実際には無限に多くの祈りの一群であり、その具体例はこうだ。
空が青いなら
「空は青い」と信じたい。
空が青くないなら
「空は青くない」と信じたい。
「それは私の哲学ではありません」と彼女は言った。
「そうだろうと思っていました」と私は答えた。「ただ、尋ねているんです。神が存在しないと仮定して、しかもそのことがわかっているなら、それでも神を信じるべきですか?」。彼女はためらった。本当に考えようとしているように見え、私は驚いた。
「つまり、反実仮想の問いなんですね……」と、彼女はゆっくり言った。
そのとき私は、神のいる世界に執着しているために、神のいない世界を思い描くことを自分に許せず、苦労しているのだと思った。
だが今は、彼女は、神がいる場合といない場合で、世界がどう違って見えるかという対比を思い描くのに苦労していたのだと思う。彼女の思考はすべて神を信じることに関するものだったが、世界をモデル化する彼女の因果ネットワークには、神というノードがなかったのだ。だから、「私が神を信じなければ、世界はどう違って見えるか?」には簡単に答えられても、「神がいなければ、世界はどう違って見えるか?」には答えられなかった。
そのとき、彼女はその問いには答えなかった。だが、タルスキの祈りへの反例を出した。
「私は、人は実際より親切だと信じています」と彼女は言った。
私は説明しようとした。「人は悪い」と言えば、それは人は悪いと信じていることになる。「私は人は親切だと信じている」と言えば、それは、人は親切だと自分が信じている、と信じていることになる。だから、「人は悪いが、私は人は親切だと信じている」と言えば、人は悪いと信じている一方で、人は親切だと自分が信じている、と信じていることになるのだ。
私は次の言葉を引用した。
もし「誤って信じる」を意味する動詞があったとしても、その一人称・現在・直説法には、有意味な用法がないだろう。
彼女はほほえんで言った。「ええ、人は実際よりも親切だと信じています。あなたには、こう言ったほうがいいと思ったんです」
「ウォルター、グラニーによく診てもらったほうがいいね」とナニーは言った。「あんたの頭の中は、落っことした糸玉みたいに、ぐちゃぐちゃに絡まっているよ」
私は、「まあ彼女は、自分の推論が振り返って吟味しても整合的であるべきだとは、信じていなかったのだろう」と文字にすることはできる。それでもなお、そのことを実感として飲み込むのに苦労している。
彼女の口から出てくる言葉のパターンは見えるが、その背後にある心を、共感する水準で理解することはできない。私は、赤ん坊を食べる異星人や第三代キリツグ女史の立場に身を置くことは想像できる。それなのに、彼女であるとはどういう感じか、想像できない。あるいは、ただそうしたくないだけなのか?
だから、知的な人が無神論者になるためには、限られた時間しかない。宗教について考えることに費やした、主観的な時間で測っての話だ。ある段階を過ぎると、賢く、宗教について考え、それを擁護することに時間を費やしてきたのに、まだ暗黒面の認識論の支配を逃れていない人の頭の中は、エッシャーの絵になってしまう。
(彼女が立ち止まって考えた、ほかの数少ない瞬間の一つも挙げておこう。あなたにも使う機会があるかもしれない。彼女は、自分が正しいことをするか間違ったことをするか、誰かが気にかけていると信じるのはよいことだ、と話していた。もちろん、自分の行いを気にかける神が実際にいるという話ではない。その命題は、彼女の宗教の一部ではないのだ――。
そこで私は言った。「でも、私は、あなたが正しいことをするか間違ったことをするか、気にかけていますよ。つまり、それでは足りず、人類の上にある何かが気にかけていると信じることも必要だ、とおっしゃるんですね」。これには彼女もしばらく立ち止まった。もちろん、そんな捉え方はしたことがなかったからだ。普通ではない道具箱の、ごく普通の使い方である。)
後になって、私は、神が確実に存在しないなら、何か一つでも違うことをしたほうがよいのか、と尋ねた。今度は彼女は「いいえ」と答えた。
「つまり」と私は信じられない思いで言った。「神がいるかいないかは、人々がどう考え、どう行動すべきかに、まったく影響しないのですか? それにはラビでさえ、少し眉をひそめると思いますが」
彼女の宗教は今や、崇拝を崇拝することだけでできているように見える。昔の真の信者なら、すべてを見通す父が自分を救ってくれると信じたかもしれない。それと同じように、今の彼女は、神を信じることが自分を救ってくれると信じている。
「人は実際より親切だと信じています」と彼女が言った後、私は尋ねた。「では、人があなたの期待を下回るたびに、いつも驚くのですか?」。長い沈黙があり、それからゆっくり答えが返った。「そうね……人が……期待を下回ったとき、私は驚いているのかしら?」
そのとき私は、この間の意味を理解していなかった。現実にいつも失望させられるなら、それは誤って信じることの不利益ではないか、と示唆するつもりだった。だが彼女はむしろ、驚いていないことの意味に、不意を突かれたようだった。
今はわかる。彼女の哲学の核心は、自分は自分をだますことに成功した、と信じていることだった。他人についての見積もりが実際には正確だという可能性は、「人は実際より親切だと信じることで、私は利益を得ている」といった信念の周りに築いた、暗黒面の認識論を脅かしたのだ。
彼女は古い偶像を玉座から降ろし、かつてその偶像を守るために考案された暗黒面の認識論への、明示的な崇拝を据えた。自らの自己欺瞞の試みを崇拝しているのだ。その試みは失敗したが、彼女は本当にそのことに気づいていない。
こうして、人類に形ばかり置かれた正気の守り手たち――標語は「エピクロス以来、あなたの狂った小さな宴に水を差し続けています」――は今や、自己欺瞞の積極的な崇拝と戦わなければならない。神の代わりに、信仰がもたらすとされる利益を崇拝することと。
実はこれで、以前はよく理解していなかった私自身についての事実も説明できる。人が自己欺瞞は簡単だとでもいうように話すと、私がいらだつ理由だ。そして、空は緑だと信じようと意識的に決めても、人が思うほど簡単にはうまくいかない、と論じる記事を丸ごと書く理由でもある。
なぜなら、空は緑だと信じることは、選ぶだけではできないのに、その事実に気づいていなければ、自分をだますことに成功した、と信じ込むよう自分をだますことは、実際にできるからだ。
そうなれば、自己欺瞞から得られると思う利益を、心から期待する。そのため、自己欺瞞が本当に成功した場合にもたらされるのと、同じ種類のプラセボ的な利益が得られる。
だから、自己欺瞞がいかに難しいかを説いて回る私は、実際には、自分をだましたと信じることで人が得るプラセボ的利益を直接狙い、神の崇拝だけを崇拝する新しい種類の宗教を、標的にしているのだ。
この戦いは、今度は、信じることではなく信じることを信じること自体がよいことだという、新たな理由の一覧を生み出すのだろうか? 自分の崇拝を崇拝することから、人が大きな利益を得る理由を? 次は、信じることを信じることを信じること、崇拝の崇拝の崇拝を相手に、同じことを繰り返さなければならないのだろうか? それとも、知的な有神論者たちは、ついにこの筋の議論を諦めるだろうか?
信じることを信じることを信じることを信じる人など、いるはずがないと信じたい。だが、哲学のゾンビ世界の議論は、これよりさらに絡まっているのに、その支持者はまだ諦めていない。