非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

デコヒーレンスは反証可能で、検証可能である

Decoherence is Falsifiable and Testable

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「反証可能」と「検証可能」は同じ意味で使われることがある。この曖昧さは、英語で話す代償だ。ここでは確率論上の異なる二つの性質を論じたい。一方を「反証可能」、もう一方を「検証可能」と呼ぶことにする。それがいちばんよく合いそうだからだ。

数学の話は、多くの物事と同じく、次の式から始まる。

P(Ai|B) = P(B|Ai)P(Ai)
Σj P(B|Aj)P(Aj) .

ベイズの定理だ。私はこれをプリントした服を、少なくとも別々に2着持っている。だから重要に違いない。

手短におさらいすると、ここでBは証拠を、Aiは検討中の仮説を、Ajは競合する互いに排他的な仮説を表す。P(B|Ai)という式は「仮説Aiが真であるとき、Bを観測する確率」を意味し、P(Ai|B)は「Bを観測したとき、仮説Aiが真である確率」を意味する。

私が「反証可能性」と呼ぶ数学的な現象とは、仮説に科学上求められる性質、すなわち、特定の結果に確率質量を集中させることだ。これは、ほかの結果の一部には低い確率を割り当てなければならないということでもある。確率の合計は1でなければならず、配分できる量には限りがある。理想的には、その仮説の確率をほぼゼロにまで押し下げる観測が可能であるべきだ。仮説では説明できないこと、その理論とは両立しない実験結果が、考えられるはずなのだ。何でも説明できる理論は何も禁じず、したがって何を予想すべきかについて、何も教えてくれない。

P(Ai|B) = P(B|Ai)P(Ai)
Σj P(B|Aj)P(Aj) .

ベイズの定理で言えば、仮説Aiが説明できない観測Bが少なくとも一つあり、つまりP(B|Ai)がごく小さいなら、分子P(B|Ai)P(Ai)もごく小さくなり、事後確率P(Ai|B)も同様になる。あり得ないはずの結果Bを観測したことによるベイズ更新で、Aiの確率はほぼゼロまで押し下げられた。このように弱点をさらすことを拒む理論は、穴ができないよう確率を広く配らなければならない。少数の特定の結果に確率を強く集中できず、精密な助言もできなくなる。

こうして科学の規則が確率論から導かれる。

ここで示した「反証可能性」は、一つの仮説を見て評価するものだ。「可能な結果にわたる確率分布を、どれだけ狭く集中させているか? 何を予想すべきかを、どれほど絞り込んで教えるか? ある結果を、ほかの結果よりずっとよく説明できるか?」と問うのである。

量子力学のデコヒーレンス解釈は反証可能か? その確率をごく微小にまで押し下げる実験結果はあるか?

もちろんある。常に反対向きのスピンを示すはずの、もつれた粒子を測定して、十分遠く離して測ると、ときどき同じ向きになると判明するかもしれない。

あるいは、リンゴが上向きに落ち、太陽系の惑星がでたらめに飛び回り、明らかなエネルギー源もない原子が光子を放出し続けるとわかるかもしれない。そうした観測も、デコヒーレンスに基づく量子力学を反証する。デコヒーレンスに基づく量子力学が宇宙を支配するという仮説のもとでは、絶対に予想すべきでないことだからだ。

だから、P(B|Adeco)がごく微小で、それを観測するとP(Adeco|B)もごく微小になるような観測Bは存在する。

でも、それはデコヒーレンスに基づく量子力学も、やはり量子力学だからだろう! デコヒーレンスそのものと、収縮の公準とを比べたらどうなのか?

そこへ向かっている。要点は、今定義した判定法は、一度に一つの仮説について考えるものだということだ。それを「反証可能性」と呼んだ。デコヒーレンス対収縮を区別したいなら、一度に少なくとも二つの仮説を考えなければならない。

実際には、「反証可能性」の判定も、そこまで一つに絞られているわけではない。分母の和には、何らかの別の仮説が含まれていなければならないからだ。それでも今「反証可能性」と定義したものは、カール・ポパーが不満を述べていた問題を正確に捉える。彼は、フロイトの精神分析は、患者がどんな行動を取ろうとも等しくうまく説明をひねり出せるので「反証不可能」だと言っていた。

収縮の公準やコペンハーゲン解釈を一度も考案しなかった異星の種族の一員だったらどうか。聞いたことのある唯一の物理理論が、デコヒーレンスに基づく量子力学だったら。頭にあるものが、波動関数の時間発展を表す微分方程式とボルンの確率則だけだったとしても、宇宙に対して明確に絞られた予想を持つはずだ。何でも起こりそうな魔法の世界に住むことにはならない。

でも、(巨視的な)デコヒーレンスのない量子力学についても、まったく同じことが言えるだろう。

そのとおり! 波動関数の時間発展を表す微分方程式に加え、ボルンの確率に従い、重ね合わせが巨視的な規模に達する前に発動する収縮の公準を携えて歩く人も、リンゴが上ではなく下に落ちる宇宙で暮らしている。

でもデコヒーレンスは、それを検証できるような新しい予測を、どこでするのか?

何に比べて「新しい」予測なのか? 古代ギリシャ人の知識と比べてだろうか? 過去に戻り、デコヒーレンスに基づく量子力学を見せれば、彼らには以前できなかった多くの実験予測ができるようになる。

「新しい予測」と言うとき、「古い予測」を定める何らかの別の仮説に対して「新しい」と言っている。ここから、私が検証可能性と名付けたものの理論に入る。そのアルゴリズムは本質的に、一度に少なくとも二つの仮説を扱う。一つの仮説だけを切り離して考えても、あるものを「新しい予測」とは呼べない。

ベイズ流に言えば、片方の仮説をもう片方より支持し、両者を区別する証拠Bを探している。その証拠を生み出す過程を「検証」と呼んでもよいだろう。探しているのは、次を満たす実験結果Bだ。

P(B|Ad) ≠ P(B|Ac);

つまり、デコヒーレンス仮説が真という条件での確率と、収縮仮説が真の場合の確率とが異なる結果Bだ。これは、デコヒーレンスと収縮の事後オッズが、事前オッズと異なることを意味する。

P(B|Ad) ≠ 1 ならば
P(B|Ac)
P(Ad|B) = P(B|Ad) × P(Ad)
P(Ac|B) P(B|Ac) P(Ac)
P(Ad|B) ≠ P(Ad) .  
P(Ac|B) P(Ac)

この式は対称だ。確率がどれも文字どおり0ではないと仮定すれば、だが。一方のAjに「古い仮説」、もう一方のAjに「新しい仮説」と書いてあるわけではない。

この対称性は、確率論の欠陥ではなく長所だ! 人工的な推論システムを設計していて、証拠を提示する順番によって違う信念に到達するなら、それは「ヒステリシス」と呼ばれ、悪いことと見なされる。科学でも好まれないと聞いている。

確率論の立場からは、まずXで、次にYで更新しても、まずYで、次にXで更新しても、違いはないはずだとする自明な定理がいくつもある。少なくとも、人間があれほど頻繁に、あれほど気軽にそれに背かなければ、自明だったはずだ。

デコヒーレンスが収縮と比べて「検証不可能」なら、収縮もデコヒーレンスと比べて「検証不可能」だ。物理学の歴史が別の道をたどり、ヒュー・エヴェレットとジョン・ウィーラーがボーアとハイゼンベルクの位置を占め、逆もまたそうだったら? その世界の人々が収縮解釈を見て、鼻で笑い、「新しい予測はどこだ?」と言うのは、正しく適切なのだろうか?

いつの日か、収縮より先にデコヒーレンスを考案した異星種族と出会ったら? 互いに先に考案した理論を持ち続ける義務があるのか? 理性はこの問題について何も言えず、議論を決着させる手段は星間戦争しか残らないのか?

だが、新しい予測を生むという要件を取り消せば、科学は混乱に陥る。古い理論に検証できない複雑さを勝手に追加して、実験上同等の予測を得られてしまう。君の言う「ヒステリシス」を退けたら、クォークに「フレーバー」があるように電子には「香り」という新しい性質がある、と唱えるあらゆるトンデモ論者から、現在の理論をどう守ればいいのか?

まず言っておこう。こんなことを言いに来る人は退けるべきだという点で、私はまったく同意する。「すごい新しいアイデアを思い付いた! 荷電粒子を引っ張るのは、電磁場じゃないのかもしれない。実際に粒子を押しているのは小さな天使で、電磁場は天使に押し方を教えているだけかもしれない。ほら、こんなにたくさん実験予測が当たっている。君たちが自分たちのものと呼んでいた予測だ!」

そう、この驚異の新理論を受け入れるべきでないという点には同意する。だが問題なのは、新しいことではない。

人類の歴史がほんの少し違い、教会が科学研究の主要な助成機関だったとしよう。そして電磁気学の法則が初めて解き明かされつつあった頃、磁気という現象が、見えない霊、つまり天使の存在の証拠と受け取られたとしよう。ジェームズ・クラークは聖マクスウェルとなり、天使の行動を導く法則を記述する。

数百年後、教会が人々を火刑に処す権力が抑えられた後で、誰かが現れてこう言う。「ねえ、天使は本当に必要なのか?」

「必要だ」と皆が言う。「そうでなければ、電磁場のただの数値が、どうして粒子の実際の運動になるのか?」

新参者は言う。「根本法則なのかもしれないし、天使以外の何かで、あとから見つかるのかもしれない。私が言いたいのは、その数値を天使の行動として解釈しても、実際には何も加わらないのだから、数値だけを残して天使の部分は捨てよう、ということだ」

皆は顔を見合わせ、ついにこう言う。「だが君の理論には新しい実験予測がない。なぜ採用しなければならないのか? 天使はいないという主張をどう検証するのか?」

規範的に考えるなら、第一の場面でトンデモ理論の天使を、実験で両理論を区別できなくても退けるべきなら、第二の場面で確立した科学に登場する天使も、実験で両理論を区別できなくても退けるべきだと、私は思う。

ふつうは、科学者が最初からうっかり組み込むというより、トンデモ論者が新しい無用な複雑さを付け足す。だが問題は、その複雑さが新しいことではなく、新しくても古くても無用だということだ。

ベイズ主義者なら、理論に天使という余計な複雑さがあると、その理論の事前確率が低くなると言うだろう。二つの理論が同等の予測をするなら、最も短いメッセージ、最小のプログラムで記述できるほうを残す。コードのビット数を数えて各仮説の事前確率を評価し、利用できるすべての証拠にベイズの更新則を適用するなら、どの仮説を先に聞いたかも、証拠をどの順に適用したかも関係ない。

形式的な確率論を現実に適用するのは、たいてい不可能だ。量子場の理論を使ってテニスの試合の勝者を予測できないのと同じである。それでも、確率論が実践の指針になるとすれば、その教えはこうだ。新しいときだけでなく、一般に、無用な複雑さを退けよ。

そう、デコヒーレンスの多世界こそ、まさに無用なのだ! 私たちの世界と並んでいろいろな世界があるそうだが、私たちの世界には何もしない。それでも信じろというのか?

そうではない。デコヒーレンスによれば、信じるべきなのは波動関数を支配する一般法則だ。そして、この一般法則は十分に観察でき、検証できる。

私は別のところで、科学のお墨付きは、個別の出来事ではなく一般法則に与えるべきだと論じた。原理上、誰でも自分で検証しに行けるのは一般法則だからだ。これをタイプしている今、私はたまたま白い靴下を履いていると保証する。だから、あなたがこれを歴史上の事実と信じることは、おそらく合理的に正当化される。だが、科学の暫定的な信念として公認するような、特別に強い種類の主張ではない。あなたが自分で実験して真偽を確かめることはできず、私の権威に頼るしかないからだ。一方、電子一般の質量を教えたなら、自分で電子を一つ見つけて試し、その個別の場合について一般法則が真であることを、自分で確かめられる。

何らかの個別の事例を作ることで、誰でも一般的な科学法則を自分で検証できる。このことが、一般法則への信念を特別に信頼できるものにしている。

デコヒーレンスの支持者が信じると述べているのは、波動関数の時間発展を支配すると観測される微分方程式だ。いつでも好きなときに自分で検証できる。水素原子を見ればよい。

宇宙の波動関数の、互いに分離した部分が存在するという信念は、追加の信念ではなく、ロンドンの金の価格を説明するはずのものでもない。波動関数の時間発展から演繹される帰結にすぎない。多くの個別の事例からの証拠によって、X → Yが一般法則だと信じる理由があり、ある個別の事例の証拠によってXを信じる理由があるなら、P(Y) ≥ P(X かつ (X → Y))であるべきだ。

別の見方をすれば、P(Y|X) ≈ 1なら、P(X かつ Y) ≈ P(X)だ。

つまり、すでに持つ一般的な信念の論理的な含意なら、細部を余計に信じても余計な確率は消費しない。もっとも、その一般的な信念自体は反証可能であるはずだ。そうでなければ、なぜわざわざ信じるのか?

これが、私たちに対する宇宙論的地平線を越えた宇宙船が、忽然と消滅するとは考えない理由だ。たしかに宇宙船が存在し続けても、私たちの世界には影響しない。ロンドンの金の価格を説明する助けにもならない。だが、質量とエネルギーの保存を含意する一般法則の帰結として、この見えない宇宙船は無料で手に入る。現在のモデルにおける物理法則から、宇宙船の存続が演繹されるのでなければ、そのときには追加の細部であり、余計な確率を消費する。なぜ理論にこの主張を含めなければならないのかを問う必要がある。

デコヒーレンスで検証可能とされるのは、多世界そのものではなく、波動関数を支配する一般法則だ。支持者が指摘するのは、この法則を普遍的に適用すれば、複数の世界が丸ごと重ね合わされて存在することが導かれるという点だ。この理論に向けられる批判はある。代表的なのは「では、ボルンの確率はどこから来るのか?」だ。しかしデコヒーレンスの内部の論理では、多世界は何かの説明として提示されているわけではなく、検証すべき理論の本体でもない。理論の本体をなす一般法則の、論理的帰結にすぎない。

A ⇒ Bなら、¬B ⇒ ¬Aだ。重ね合わされた世界の存在を否定することは必然的に、水素原子や調べられるほかのあらゆる事例を支配するものとして定式化された量子法則の、普遍性を否定することになる。支持者には、この否定こそが余計で検証不能な細部に見える。波動関数のほかの部分は見えない。なぜさらに、それらは存在しないという仮定を置くのか?

デコヒーレンス論争をめぐる出来事は、科学史で初めてのものかもしれない。歴史上の偶然によって、人類は天使を含んだ、強力で成功した数学的な物理理論を築いたのだと、真剣な科学者たちが名乗り出て言った、初めての事例なのかもしれない。収縮の公準という一つの法則全体をそのまま捨てれば、理論は厳密により単純になる、と。

この議論に私が加えたいのは、確率論を数学的に確固として理解するなら、デコヒーレンスはオッカムの剃刀によって排除されず、反証不可能でも、検証不可能でもない、という主張だ。

たとえばデコヒーレンスと収縮の公準を並べ、「デコヒーレンスは量子の確率が常に50対50になると、はっきり予測してしまうのでは?」「収縮は離れた場所への作用を含意して、特殊相対性理論に反するのでは?」といった批判を評価できる。経験との整合性や、物理法則が持つように見える性格を根拠に、これらの理論の相対的な長所を検討できる。

多世界そのものはオッカムの剃刀に反する「余計な実体」だから、あるいは多世界そのものは「検証不可能」だから、あるいはデコヒーレンスは「新しい予測」をしないから、と言って、デコヒーレンスには土俵に上がる資格すらないと主張する。これらはすべて、確率論の明白な誤りだと私は考える。そうした議論は捨て、先へ進むべきだ。