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物理学者たちへの書簡。
まだ幼い少年だったころ、物理学の博士号を持つ父は、物理学者の領分に口を出すなと、私に厳しく言い聞かせた。きちんとした数学なしに物理を理解しようとしても無駄だ、と。以上。それで終わり。例外はない。だが私はファインマンの一般向けの本で、物理を本当に理解しているなら、物理学者でない人にも説明できるはずだ、と読んでいた。私は父ではなくファインマンを信じた。ファインマンはノーベル賞を取っていて、父は取っていなかったからだ。
父が、ただ正直に真実を教えていたのだとわかったのは、後になってからだった。実際、『ファインマン物理学』を読んでいたときだ。数学なし=物理なし。
私の本業は物理学者ではなく、ベイズ主義者だ。それでも、物理学者の領分に口を出すなと育てられた私が、黙っていられなくなった。単純な、反証可能な、検証可能なという三つの言葉が、ときおりひどく誤用されるからだ。
ここまで前置きしたのは、「そんな言葉の意味くらい、もちろん知っている!」と笑わないでもらうためだ。ここにも数学がある。以下では、含意された見えないものを信じるの論点を、量子物理学へ適用して述べ直す。
この一連の考察を始めるきっかけになった発言から始めよう。いくつかの言い方を見たが、言い換えるとこうなる。
量子力学の多世界解釈は、私たちの世界と並んで、莫大な数の別の世界が存在すると仮定する。オッカムの剃刀によれば、実体を不必要に増やすべきではない。
ただし公平のために言うと、これを言う人も普通、次の点は認める。
しかし、このオッカムの剃刀の使い方が、万人に認められているわけではない。剃刀を当てるべきなのは、モデルの中の対象の数ではなく、モデルを支配する法則だ、という人もいる。
誰もが反論を認め、両側の言い分を伝えているのはよいことだ——。
だが、理論の単純さを計算しなければならないとしたら、どうだろう。
オッカムのウィリアムの元の定式化では、こう述べられていた。
Lex parsimoniae: Entia non sunt multiplicanda praeter necessitatem.
「節約の法則。実体は、必要を超えて増やすべきではない」
だがこれは定性的な助言だ。ある理論が別の理論より単純そうだ、あるいは複雑そうだと言うだけでは足りない。数を割り当てなければならないし、その数には意味が必要だ。適当に作ってよいわけではない。この隔たりを越えるのは、何が「速い」「遅い」かを目分量で見分けることと、速度を測定し計算し始めることの違いに似ている。
「単語を数えよう。それが理論の複雑さだ」と言ってみたとしよう。
ロバート・ハインラインはかつて、「いちばん単純な説明」はいつも「通りの先の女は魔女だ。彼女がやったのだ」だと主張した。冗談だったと思いたい。英語では11語。これに勝てる物理の論文は、そう多くない。
この難題に直面したとき、進める道は二つある。
第一に、「通りの先の女は何だって?」と尋ねられる。ある概念を指す英単語が一つあるからといって、その概念自体が単純とは限らない。魔女も女も通りも知らない宇宙人に話しているとしたら、理論を説明するのにどれほどかかるだろう? もっとよい問いはこうだ。仮説を具体化し、自分がその仮説の予測だと呼んでいるものを出力するプログラムを書かなければならないなら、どれほど大きなプログラムになるか? 課題は、丘を転がり落ちる石の位置の測定値を、時系列で予測することだとしよう。魔女を模擬するサブルーチンを書いても、石がどこを転がるかを絞る助けには見えない。余計なサブルーチンでコードが膨らむだけだ。一方、数を二乗するサブルーチンは、コードに必ず含まれるとわかるかもしれない。
第二に、「通りの先の女は魔女で、彼女が何をしたって?」と尋ねられる。手持ちの証拠で可能な限り正確に、ある出来事を記述したいとしよう。ここでも、丘を転がり落ちる石の距離と時間の系列を考える。説明の前に「通りの先の女は魔女だ」と付けることはできる。だが友人は「何をしたの?」と尋ね、あなたは「最初の1秒で石を1メートル、3秒後には9メートル転がした……」と答える。「通りの先の女は魔女だ」と前置きしても、残りの記述を圧縮する助けにはならない。結局、必要以上に長いメッセージを送るだけだ。「魔女」の前置きを省くほうが理にかなっている。一方、少し時間を取ってガリレオの話をすれば、その後に続く、丘を転がる石についての5千組の詳細な時系列を、大幅に圧縮できるかもしれない。
第一の道を進むと、コルモゴロフ複雑性とソロモノフ帰納法に行き着く。第二の道を進むと、最小メッセージ長(Minimum Message Length)というものに行き着く。
なるほど、では単純さの定義は、好きに選んでよいわけか?
いや。実際には、最も発展した形で、この二つの形式体系は同値だと証明されている。
で、どちらの体系も「オッカムとは法則を数えることで、対象を数えることではない」という側につく、と言うんだろう。
だいたいはそうだ。最小メッセージ長では、友人が頭の中で手順どおりに進めて、転がる石の時系列を得られるよう、正確な手順を伝えられればよい。それをたどるのに、どれほど頭の働きが要るかは問わない。ソロモノフ帰納法で数えるのは、実行中に使うRAMのビット数ではなく、プログラムコードのビット数だ。「実体」とはコードの行であり、模擬される対象ではない。そして先ほど述べたように、この二つの形式体系は最終的に同値なのだ。
形式的な単純さをさらに詳しく論じる前に、少し脇へそれて、次の反論を考えたい。
それがどうした? 違うやり方をする自分独自の形式体系を作ってはいけないのか? そちらの分野でたまたま選んだやり方に、こちらが注意を払う必要がどこにある? そうすべきだと示す実験的な証拠はあるのか?
信じようと信じまいと、実はある。だが順を追って始めよう。
確率論の連言則は、こう述べる。
P(X,Y) ≤ P(X) .
どんな命題XとYについても、「Xが真、かつYが真」の確率は、「Xが真(Yが真かどうかは問わない)」の確率以下である。(大して深い話に聞こえないなら、人間が確率を判断するとき、この規則を破る例はいくらでも見つかる、と言っておこう。)
互いに排他的な仮説の対立に、連言則P(X,Y) ≤ P(X)を直接適用することは、普通はできない。直接使えるのは、左辺が右辺を厳密に含意する場合だけだ。しかも連言則はただの不等式であり、欲しい種類の定量的な計算を与えてはくれない。
だが連言則は、確率の単調減少という規則を与える。物語に細部を付け足し、その一つひとつが真にも偽にもなりうるなら、物語の確率は単調に下がる。確率は保存量だと考えよう。配れる総量は決まっている。物語の細部が増えると、ありうる物語の数は指数関数的に増えるが、その確率の総和が1を超えることはない。「XかつY」という物語があるたび、「Xかつ¬Y」という物語もある。「X」とだけ述べれば、Yと¬Yという可能性について、確率を足し合わせることができる。
Xに、それぞれ真にも偽にもなりうる細部を十個加えると、その物語は、同じだけ詳しいほかの210 − 1個の物語と、貴重な確率を奪い合わなければならない。逆に、Xとだけ言えば十分なら、210個の物語にわたって確率を足し合わせられる。
((XかつYかつZかつ…) または (Xかつ¬YかつZかつ…) または…)。
オッカムの剃刀が数える「実体」は、その一つひとつが確率の負担になるものであるはずだ。だから私たちは、それが少ない理論を好む。
最大100万枚のくじを売る宝くじを考えよう。同じくじは一度しか売られず、抽選の時点ではすべて売れている。友人は1枚を1ドルで買った。賞金は50万ドルしかないので、あなたには割の悪い投資に見える。だが友人は言う。「いや、『明日、誰かが宝くじに当たる』と『明日、私が宝くじに当たる』という対立仮説を考えてみよう。明らかに、オッカムの剃刀では後者のほうが単純だ。一人と1枚のくじにしか言及しない。一方、前者は100万人と100万枚に言及するのだから、より複雑だ!」
オッカムの剃刀が数えるのは法則だけで、対象ではない、と言うのは、厳密には正しくない。理論の不利になるのは、明示的に言及しなければならない実体だ。それらについては確率を足し合わせることができないからだ。友人と二人で、見事なビリヤードのショットを解こうとしているとしよう。台の初期状態と、どの球がポケットに落ちたかは教えられるが、どう突いたかは教えられない。あなたは、特定の十個の球の間で特定の十回の衝突が起きるという理論を出す。友人は、特定の五個の球の間で特定の五回の衝突が起きる理論を出す。理論の不利になるのは、球を支配すると主張する法則だけではない。モデルの予測が当たるために、特定の状態にある必要があった特定の球も、すべて数えられる。
居間の温度を測って22℃だったとき、次のように言っても意味はない。「温度計が間違っているのだろう。20℃である可能性のほうがずっと高い。部屋の全粒子を考えると、実際に22℃なら、粒子が取りうる状態は指数関数的にずっと多くなる。だから個々の状態は、ますます起こりにくくなるからだ」。だが、22℃のどの厳密な状態に部屋があるとしても、その圧倒的大多数では、温度計が22℃を示すという同じ予測ができる。だから正確な初期条件に左右されない。室内の空気分子すべての正確な位置を指定する必要はなく、それは説明の確率の負担には数えられない。
一方、宝くじに戻って、友人が十回続けて当たったとしよう。この時点では、いかさまを疑うべきだ。「友人が毎回当たる」という仮説は、「誰かが毎回当たる」より複雑だ。だが前者は、データをはるかに正確に予測している。
最小メッセージ長の形式体系では、冒頭に「毎回宝くじに当たる一人の人がいる」と述べれば、その後の十回で誰が当たったかの記述を圧縮できる。「その人はフレッド・スミスだ」と言えば、メッセージは終わる。「最初はフレッド・スミスが当たった。二回目もフレッド・スミスが当たった。三回目は……」と比べてみよう。
ソロモノフ帰納法の形式体系では、「友人が毎回当たる」の事前確率は低い。宝くじを記述するプログラムに、友人を特別扱いする明示的なコードが必要だからだ。だがそのプログラムは、「誰かが毎回当たる」よりも、当選者候補について範囲を絞った確率分布を作れる。そのため、ベイズの定理によって、事前確率の低さを乗り越え、仮説として勝ち残ることができる。
オッカムの剃刀の形式的な理論は、どれも「実体」と「単純さ」だけでなく、「必要」の部分も定量的に定義するべきだ。
最小メッセージ長は、必要を「メッセージを圧縮するもの」と定義する。
ソロモノフ帰納法は、ありうる各プログラムに事前確率を割り当てる。その全プログラム上の分布の総和は、1以下だ。これは、たとえば停止符号を含めることで、どんな有効なプログラムも別の有効なプログラムの先頭部分にはならない二進符号、つまり「接頭辞なし符号」を使えば実現できる。すると、プログラムPの事前確率は単に2−L(P)となる。ここでL(P)は、Pの長さをビットで表したものだ。
プログラムPそのものは、長さがゼロでもよいビット列を受け取り、次のビットが1である条件付き確率を出力するプログラムでよい。このときPは、すべての二進列上の確率分布になる。この版のソロモノフ帰納法は、どの列についても、その列を最も正確に予測する最短のプログラムが大きな比重を占める、事後確率の混合を与える。その混合全体で和を取れば、次のビットの予測が得られる。
要するに、複雑な仮説を正当化するには、より多くのベイズ的証拠、つまり予測の成功を増やすか、予測の精度を上げることが必要だ。だが正当化はできる。事前確率の低さの負担は、無限ではない。コインを四回投げて毎回表でも、すぐに表しか出ないと結論はしない。だが二十回続けて表なら、その可能性を真剣に考えるべきだ。では、コインがhtthtt…という周期を繰り返すよう細工されている、という仮説は? これはさらに奇妙だが、百回投げた後でなお否定するなら、愚かだろう。
標準的な化学では、1グラムの水素ガスには6千垓個の水素原子がある。驚くべき主張だが、物理学者一般に、そしてあなた自身にも、それが真だと納得させるのに十分な量の証拠があった。
では、6千垓個の物理法則を一つずつ別々に指定する理論に納得するには、どれほどの証拠が要るだろうか。
ソロモノフの形式体系では、プログラムの事前確率に、使用するRAMの量や、総実行時間の尺度を含めないのはなぜか?
単純な答えは、「プログラムが使う空間と時間の資源は、互いに排他的な可能性ではないから」だ。ある位置には1か0の一方しか置けないプログラムの仕様とは違う。
もっと単純な答えは、「歴史的に、その経験則はうまく働かないから」だ。
星雲は実は遠くの銀河だという説にも、オッカムの剃刀を使った反論があった。宇宙の実体の数を、とてつもなく増やすように見えたからだ。あんなにたくさんの星が!
人類の歴史で、宇宙は何度も何度も大きくなってきた。そのたび、より広い宇宙をよりありそうにないと判定する版のオッカムの剃刀は、人類の歴史的経験に照らして、成績が悪くなるだろう。
これが、先ほどほのめかした「実験的証拠」の一部だ。単純さの理論を数学的な根拠で正当化することはできるが、実際にうまく働くことも望ましい。(「実験的証拠」のもう一部は、統計学者、計算機科学者、人工知能研究者が、どの「単純さ」の定義なら、過去のデータから未来のデータを経験的によく予測するプログラムを作れるか試すことで得られる。ここではおそらく、現実の問題へ柔軟に適用できる考え方である最小メッセージ長の枠組みが、最も実り多かった。)
盛大な見送りとともに宇宙船が発進するのを、目撃したとしよう。船は加速して離れていき、すぐに0.9cで進むようになる。現在の宇宙論が予想するとおり宇宙の膨張が続けば、将来のある時点で、あなたの現実のモデルによれば、原理的にさえ船と相互作用できないと予想されるようになる。あなたに対する宇宙論的地平線を越え、船から出る光子は宇宙の膨張を追い越せなくなるのだ。
あなたに対する宇宙論的地平線を越えた瞬間に、宇宙船が文字どおり物理的に宇宙から消えると信じるべきだろうか?
オッカムの剃刀がモデル内の対象を数えると思うなら、そう信じるべきだ。船があなたの宇宙論的地平線を越えた後は、瞬時に消えるモデルと進み続けるモデルが与える予測は、区別できない。ベイズ的証拠の上で、どちらにも優位はない。だが一方のモデルには「実体」がずっと少ない。船を構成するクォーク、電子、場のすべてについて述べる必要がない。だから船は消えると考えるほうが単純なのだ。
あるいは、こう言える。「数多くの実験から、観測する粒子を支配する一定の法則を一般化した。宇宙船はそうした粒子でできている。その法則を適用すると、船は宇宙論的地平線を越えても、以前と同じ運動量とエネルギーで進み続けるはずだと導ける。そうでなければ、調べられるあらゆる場合で成り立ってきた保存則に反してしまう。船が消えると考えるには、『私の宇宙論的地平線を越えたものは即座に消える』という新しい法則を追加しなければならない」
量子力学のデコヒーレンス版、別名、多世界版では、測定も、ほかの物理過程と同じ量子力学の規則に従う。巨視的な対象にも微視的な対象とまったく同じように規則を適用すると、観測者も重ね合わせ状態になる。ここには、たとえば次のように、問えることがいくつもある。
「だがそれなら、異なる私たちが両方の結果を見るのだから、二つの結果を持つ量子測定はどれも、なぜ確率が50対50に見えないのか?」
しかし、モデル内の対象を増やすためデコヒーレンスはオッカムの剃刀に反する、という反論は、単に間違っている。
デコヒーレンスは、波動関数が何か複雑で厳密な初期状態を取ることを要求しない。多世界は、世界を一つずつ手で指定するのでなく、簡潔な量子力学の法則から生成する。量子力学を直接シミュレートして実験の予測をするプログラムは、実行に膨大なRAMを要するだろう。だが、量子力学のどの版でも、波動関数のシミュレーションには指数関数的な費用がかかる! デコヒーレンスでは、それがさらに多いだけだ。星から銀河まで、原子から量子力学まで、人類の歴史における多くの物理的発見は、私たちが宇宙だと考えているものの見かけのCPU負荷を、途方もなく増やしてきた。
原子仮説が無数の原子の数だけ複雑なわけでないのと同様に、多世界も無数の世界の数だけ複雑なわけではない。オッカムの剃刀を定量的に理解していれば、「複雑」という言葉は、そもそもそういう意味ではない。
銀河の歴史的な例と同じく、人々は、それほど大きな宇宙という考えに受ける衝撃を、確率上の不利と取り違え、それを正当化するためにオッカムの剃刀を持ち出したのかもしれない。だが、デコヒーレンスに確率上の不利があるとしても、その原因は決して、含意される宇宙の大きさそれ自体ではない!
デコヒーレンスで分かれた世界は、オッカムの剃刀で罰せられる追加の実体だ、という考えは、端的に間違っている。ある程度は合っている、というわけでもない。弱いが有効な議論でもない。さらに議論を足せば支えられる、擁護可能な立場でもない。確率論として完全に欠陥がある。修正はきかない。間違った数学だ。2 + 2 = 3。