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反ゾンビ論証から学んではならない一般的教訓の一つは、「見えないものは何であれ存在しない」というものである。
この一般則を結論したくなる誘惑はある。これを前提として使えるなら、今後、反ゾンビ論証はずっと簡単になるだろう。だが残念ながら、それはまるでベイズ的ではない。
私が一個の光子を、どの恒星にも銀河にも向けず、超銀河団の間に広がる巨大な空洞の一つへと、無限遠に向かって放つとしよう。言い換えれば、標準的な物理学に基づくかぎり、この光子が飛んでいく途中で何かに衝突するとは予想しない。光子は光速で動いているから、追いかけていって再び捕らえることもできない。
現在の宇宙論がいうように宇宙の膨張が加速しているなら、原理上さえも私がその光子と相互作用できるとは予想しない時点が、未来に訪れる。すなわち、その時点より先では光子の未来光円錐が私の世界線と交わるとは予想できなくなる。たとえ異星種族が光子を捕らえて、私たちに知らせようと大急ぎで戻ってきても、宇宙の加速膨張を埋め合わせられるほど速くは移動できない。
では、原理上さえその光子と相互作用できなくなった瞬間に、光子は消滅すると信じるべきだろうか?
否。
それはエネルギー保存則に反する。熱力学第二法則にも反する。そして、ほかのほぼあらゆる物理法則にも反する。おそらくロボット工学三原則にも反するだろう。それは、光子が私の関心を知っており、まさにいつ消えるべきかも知っていることを意味する。
これはばかげた考えである。
だが、実験によって自分には検出できなくなった光子が存在し続けると信じられるなら、これはなぜ、見えないもの全般を信じる許可を意味しないのだろうか?
(この問いを自分で考えたいなら、先を読む前にそうしてほしい……)
Googleで出典を見つけられなかったが、天の川が私たちの銀河である——夜空を流れるぼんやりした光の川は数百万個(ひょっとすると数十億個)もの恒星からできている——という説が初めて提唱されたとき、新しい仮説に反対してオッカムの剃刀が持ち出された、と読んだ覚えがある。なにしろ、その仮説は、信じられていた宇宙に存在する「実体」の数を途方もなく増やしたからである。あるいは、「星雲」——望遠鏡越しに見えるあのぼんやりした斑点——は恒星で満ちた銀河かもしれないという提案に対して、オッカムの剃刀が持ち出されたのかもしれない。
Lex parsimoniae: Entia non sunt multiplicanda praeter necessitatem.
これはオッカムによる元来の定式化、すなわち節約の法則である。「実体は必要を超えて増やすべきではない」。
これまで誰も信じたことのない何十億個もの恒星を仮定するなら、実体を増やしていることになるのではないか?
否。オッカムの剃刀には、二つのベイズ的な形式化がある。ソロモノフ帰納法と最小記述長である。そのどちらも、銀河が巨大だからといって罰しはしない。
そうでなければ困る! 歴史から得られる教訓の一つは、私たちが現実と呼ぶものが、より大きく、さらに大きく、なおも巨大だと判明し続けてきたことである。地球が宇宙の中心だった頃を覚えているだろうか? まだ誰もアボガドロ数を考案していなかった頃を覚えているだろうか? オッカムの剃刀が毎回、実体を増やすことに不利に働くのなら、それが一貫して誤りだったことになるため、私たちはオッカムの剃刀を疑い始めなければならない。
ソロモノフ帰納法では、モデルの複雑さとは、そのモデルをシミュレートするために書かなければならないコンピュータプログラムのコード量である。それが使うRAMの量でも、計算に要するサイクル数でもなく、コードの量である。何十億もの銀河を含み、それぞれの銀河が何十億もの恒星を含み、それぞれの恒星が10億×1兆×10の33乗個のクォークからできている宇宙のモデルは、実行に大量のRAMを要するだろう。しかしコードはクォークの振る舞いだけを記述すればよく、恒星や銀河には自ら動いてもらえばよい。ここでは半ば比喩的に述べている——宇宙にはクォーク以外のものも存在する——が、要点はこうである。銀河を一つすでに記述しているなら、さらに十億個の銀河を仮定しても、コードの大きさに対する不利には数えられない。必要になるのはRAMが少し増えることだけであり、オッカムの剃刀はRAMを気にしない。
なぜ気にしないのか? ソロモノフ帰納法とほぼ等価な最小記述長の形式体系を使うと、この原理はもっと明確になるかもしれない。宇宙のモデルがどう働くかを誰かに伝えなければならないとしても、各銀河の各恒星にある各クォークの位置を、個別に指定する必要はない。いくつかの方程式を書き下せばよい。方程式に従う「もの」の量は、その方程式を書き下すのにかかる長さに影響しない。方程式をファイルに符号化し、そのファイルが100ビットなら、ほぼ同じファイルサイズの別のモデルが2100個存在することになり、およそ100ビット分の裏づけとなる証拠が必要になる。確率質量は有限であり、アプリオリには、その質量を送信可能なすべてのメッセージに分配しなければならない。したがって、2100個の選択肢からなるモデル空間の中の一つのモデルを仮定するなら、2−100という事前確率上のペナルティを受け入れなければならない——しかし銀河が増えても、このペナルティには何も加わらない。
何十億もの銀河にある何十億もの恒星を仮定しても、それらすべての銀河の全体的な振る舞いを記述するメッセージの長さには影響しない。したがって、より多くのものを記述するのが同じ方程式であるなら、確率上の打撃は受けない。(ただし、モデルの予測上の成功が正確な初期条件に左右されない場合に限る。モデルが現にしているほど正確に予測するために、すべてのクォークの正確な位置を指定しなければならないなら、追加のクォークは不利として数えられる。)
あなたが見なくなったときに光子が消滅すると仮定するなら、それは宇宙モデルにおける追加の法則である。節約の法則のもとで代償のかかる「実体」とは法則なのである。追加のクォークはただである。
では結局、「どこへともなく飛び去る光子が存在し続けると私が信じるのは、消滅するより存在し続ける方が単純だと事前分布が告げているからだ」という話に帰着するのだろうか?
当初は私もそう考えたが、よく考えてみると、完全には正しくない。(しかも、明らかな濫用への扉を開いてしまうからというだけではない。)
私はこれを、含意された不可視のものへの信念と、追加された不可視のものへの信念との区別に帰着させたい。
光子が無限遠へと飛び去りながら存在し続けると信じるとき、それを追加の事実として信じているわけではない。
あなたが信じる(確率を割り当てる)のは、単純な一組の方程式であり、その方程式が宇宙を記述すると信じている。その方程式を信じるのは、証拠を記述するために見つけられた最も単純な方程式だからである。これらの方程式は実験によって高度に検証可能である。過去に観察できた膨大な証拠を説明し、未来の多くの観測結果を予測する。
あなたはこれらの方程式を信じており、光子がどこへともなく飛び去りながら存在し続けることは、その方程式の論理的含意である。ゆえに、それも信じるのである。
あなたの事前分布も、さらにはあなたの確率も、光子について直接語ってはいない。確率を割り当てている対象は光子ではなく、一般法則である。私たちの知る物理法則に確率を割り当てるとき、信じていることの論理的含意も信じるなら、どこへともなく向かう光子が存在し続けることに、その同じ確率を自動的に与えている。
不可視のものについて推論し、不可視のものをそれ自体として信じているのではない。そうではなく、実験的証拠がある法則を支持し、その法則への信念が、相互作用できないある種の実体の存在を論理的に含意するのである。これが含意された不可視のものへの信念である。
他方、光子が空飛ぶスパゲッティ・モンスターに食べられて存在しなくなったと信じるなら——ひょっとするとこの一度だけ——、あるいは何の理由もなく、光子が飛んでいく途中で塵の粒にぶつかったと信じるだけでも、個別の追加的な不可視の出来事を、それ単独で信じることになる。この種のことが一般に起こると考えるなら、個別の追加的な不可視の法則を信じることになる。これが追加された不可視のものへの信念である。
含意された不可視のものについて、ときに考えたくなる理由を明らかにするため、ほぼ光速で航行する宇宙船を、遠くの超銀河団へ向けて打ち上げるとしよう。宇宙船が到着して植民地を築く頃には、宇宙の膨張があまりに加速しているため、彼らは二度とメッセージを送り返せない。その地に住んで幸福になるすべての人々のために、純粋に利他的な努力を払ってこの植民地を築くことには価値がある、とあなたは判断するだろうか? それとも宇宙船は、到着する前にぱっと消滅すると思うだろうか? これはいつの日か、きわめて現実的な問いになりうる。
相互作用できない実体の存在をただ一度できっぱり排除し、望遠鏡の届く端で宇宙の存在を止められるなら、確かに話全体はずっと簡単になるだろう。だがそれには、私たちがひどく愚かでなければならない。
不可視のものについて別個の追加的な信念を必要とすべきではない——それ自体が検証可能な一般法則の論理的含意である不可視のものだけを信じ、その場合でさえ、目に見えて検証可能な一般則の論理的含意ではないような、さらなる信念をそれらについて持たない——と言うなら、正しく適用するかぎり、不可視のものへの信念のあらゆる濫用を実際に排除できそうである。
「追加された不可視のものを信じてはならない」と言うより、「追加された不可視のものには、変更を加えないままの事前確率を割り当てるべきである」と言うべきなのかもしれない。だが信念を、証拠の面で何かを追加するもの、わざわざ追跡するもの、支持と反証をわざわざ数える対象と考えるなら、追加された不可視のものについて、追加の信念を持つべき場合がそもそもあるのか疑わしい。
理論上はこれを破る風変わりな事例もある。(たとえば、随伴現象的な悪魔たちがあなたを見張っており、あなたが「ニブリック」という語を一度でも口にすれば、出来事を決して検証できないどこかで、3↑↑↑3人の犠牲者を一年間拷問する、という場合である。)だが人間の実践において、この原理が破綻する事例を私は思いつけない。