非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

真理の守護者たち

Guardians of the Truth

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合理主義者には、ときどきこういう批判が向けられる。「異端審問官だって、自分たちが真理をもっていると思っていた! 明らかに、この『真理』というものは危険だ」。

すぐ思いつく反論はいくつもある。「真理をもっていれば、拷問や殺人が許されるはずだと考えるなら、それは認識論とは無関係な間違いだ」とか。「では、今あなたが述べた異端審問についての歴史的な主張は、真なのか?」とか。

愚かさを裏返しても知性にはならない。「今のコンピューターが動かなくなっても、今の構成は何もかも間違っていて、AMDのプロセッサーもATIのビデオカードもない新しいシステムが必要だ、と結論することはできない……。今のシステムにそれらが全部あり、動かないとしてもだ。必要なのは、新しい電源コードだけかもしれない」。まずい結論に至るには、一歩間違えれば足りる。すべての歩みを間違える必要はない。異端審問官も2 + 2 = 4だと信じていたが、それが狂気の原因ではなかった。認識論的な実在論も、問題の原因ではなかったのかもしれない。

異端審問が、真なるものはなく、何も重要ではないと公言する相対主義者で構成されていたら、拷問への熱意は弱かっただろう、というのはもっともらしい。ロボトミー手術を受けていても、熱意は弱まっただろう。これは適切なたとえだと思う。

それでも……真理に対する異端審問の態度は、ある役割を果たしたと思う。異端審問官は、真理というものがあり、それは重要だと信じていた。まあ、リチャード・ファインマンもそうだった。だが、異端審問官は真理の探究者ではなかった。真理の守護者だったのだ。

以前、時代精神の重要な構成要素は、理想を未来に置くか、過去に置くかだ、という議論を読んだことがある。出典は見つからない。啓蒙時代以前のほぼすべての文化は、恩寵からの転落を信じていた。遠い昔には何もかも完璧だったが、災いが起き、その後すべてがゆっくり悪くなってきた、というのだ。

地上の生が満ちていた時代……人々は互いを愛したが、それが「隣人愛」であるとは知らなかった。誰も欺かなかったが、自分たちが「信頼できる人間」だとは知らなかった。頼りになったが、それが「誠実さ」だとは知らなかった。共に自由に暮らし、与え、受け取りながら、自分たちが寛大だとは知らなかった。このため、その行いは語り継がれなかった。彼らは歴史を作らなかった。

現在もっとも確かな人類学的証拠によれば、過去の完璧な時代など存在しなかった。だが、生が避けがたく下降していくと見る文化と、前人未踏の高みに到達できる文化とは、大きく違う。

(「社会」ではなく「文化」と言うのは、一つの社会の中に複数の下位文化がありうるからだ。)

たとえば、リチャード・ファインマンと異端審問の違いは、異端審問官が真理をもっていると信じていたのに対し、ファインマンは真理を探し求めたことだ、と言えるかもしれない。だが、この主張は完全には成り立たない。ファインマンにも、自分がもっていると思う真理は、間違いなくあったからだ。たとえば、「空は青い」や「2 + 2 = 4」である。

そう、科学には事実上確実な真理がある。一般相対性理論は、未来の物理学によって覆されるかもしれない。ただし、太陽が木星の周りを回ると予測するような形ではない。新しい理論は、古い理論の成功した予測を引き継ぐ必要があり、矛盾してはならない。だが進化論は、原子より高い組織の水準で成り立つ。クォークについて何を発見しても、ダーウィニズムや生物学の細胞説、化学の原子論、あるいは、その正しさが合理的な疑いを超えて確立された、ほかの幾多の見事な革新を覆すことにはならない。

これらは「絶対的真理」だろうか。文字どおり確率1.0という意味ではない。だが、科学が基本的に、真理を得たと思っている事例ではある。それでも科学者は、化学の原子論に疑問を呈する人を拷問しない。なぜか。確信があるからといって拷問が許されるとは信じないから? 確かに、それが表面的な違いだ。だが、なぜ科学者はそう信じないのか。

化学は、化学の原子論を信じない人に、永遠の拷問という超自然的な罰を宣告しないから? だが、ここでもさらに「なぜ?」を繰り返して問う。なぜ化学者は、原子論を信じないと地獄へ行くと信じないのか。

地獄について確かな実験的観察を得るまでは、学術誌に論文が載らないから? だが、あまりにも多くの科学者が、懐疑的な反射を自在に抑え込める。そもそも多くがキリスト教徒なのだから、なぜ化学者は、化学者でない者は地獄へ行くと主張する私的なカルトをもたないのか。

こういう問いには、一つの要因で片づく答えはない。だが、要因の一つは、真理に対して生み出す姿勢を取るか、守る姿勢を取るかにある、と私は主張したい。

真理の守護者であるとき、真理に対して役立つ貢献は、それを守ることしかない。次のベンゼンやバッキーボールを発見してノーベル化学賞を目指すとき、原子論に異議を唱える人は、世界観への脅威というより、時間の無駄である。

真理の守護者にできるのは、真理から外れたものをことごとく打ち倒し、エントロピーへの不可避の転落を食い止めようとすることだけだ。エントロピーに逆らってくみ上げ、わずかな廃熱とともに新しい真なる信念を生み出す方法があれば、その同じポンプで、秘密警察なしに真理を生かし続けられる。化学では実験を再現し、自分で確かめられる。それが、暴力を必要とせず、大切な真理を生かし続けるのだ。

そして、どこかで一つ間違え、少しの間、少しの偽りを信じてしまっても、それほど恐ろしい脅威ではない。明日には、失った地歩を取り戻せるのだから。

だが、これがうまくいくのは、実験的方法が単なる「比較の基準」ではない、「よさの基準」だからだ。実験は権威を必要とせず真理を取り戻せるので、権威を覆し、それまで存在しなかった新しい真なる信念を生み出すこともできる。

比較の基準ではないよさの基準があるところには、脅威でなく改善となる変化がありうる。比較の基準しかなく、権威を越える方法がないところには、権威同士の不一致を解決する方法もない。相手を抹殺する以外には。大きな銃をもつほうが勝つのだ。

歴史のすべてを一つの要因で説明する、壮大な見方を示したいのではない。人生の大義を、保護すること、守ること、保存することと見るか、発見すること、創造すること、改善することと見るか、その深い心理的な違いを指摘したいのだ。時間の「上」向きは、過去を指すのか、未来を指すのか。この違いはすべてを色づけ、あらゆるところへつるを伸ばす。

だから私は、たとえば「AI倫理」を語り始めるなら、単にさまざまな問題が起きるのを防ぐだけでなく、AIを使って現状をどう改善するかを語るべきだと、いつも主張してきた。単なる比較の基準を採用すると、理想を見失い始める。正しいか間違っているかが見えなくなり、単に「違う」「同じ」だけが見えるようになるのだ。

また、この基本的な心理の違いは、積極的な進歩を止めた学問分野が、意地悪になりがちな理由の一つだとも思う。(少なくとも、科学の洗練された基準で言えば。評判を葬るだけなら、歴史的には穏やかなものだ。守りの姿勢を取る信念体系の大部分は、本当に人を殺した。)同調でなく実力によって若い科学者を定期的に引き上げられるほど、大きな変革が頻繁に起きなければ、その分野は、権威へとお決まりの退化をしていくことへの抵抗をやめる。発見があまり行われなくなれば、異端者の魔女狩りをする以外、一日じゅう何もすることがなくなる。

発見・創造・改善の姿勢が心の健康にもたらす恩恵を最大限に得るには、進歩を願うだけでなく、実際に進歩していなければならない。

Zhuangzi and Thomas Merton, The Way of Chuang Tzu (New Directions Publishing, 1965). ↩