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進化の驚異とは、そもそも進化が機能することである。
これは文字どおりの意味だ。進化に驚嘆したいなら、驚嘆に値するのはそこなのである。
最適化は、宇宙で最初にどう生じるのか。知的な行為者が自然を設計したのなら、その知的な行為者を設計したのは誰か。設計者を持たない最初の設計はどこにあるのか。謎は、ブートストラップの第一段階がどうすれば超賢く、超効率的になれるかではない。それがそもそもどうすれば起こりうるかである。
進化が無限後退を解消するのは、超賢く超効率的になることによってではない。愚かで非効率なのに、それでも機能することによってである。これこそが驚異なのだ。
職業上の理由から、私は進化の遅さ、無作為さ、盲目さをしばしば論じなければならない。すると後で誰かがこう言う。「進化は同時に起きる変化を計画できず、突然変異はランダムだから進化はとても非効率だと、たった今あなたが言ったではないか。それは創造論者の言い分ではないのか。箱の中で部品を無作為に振っても、時計は組み上がらない、と?」
しかし創造論者への答えは、箱の中で部品を振れば時計を組み上げられる、というものではない。進化はそのようには働かない、というのが答えである。進化が竜巻によって747型機を組み立てるように働くと考えているなら、創造論者は生物学についてあなたへ誤った説明を植えつけることに成功したのである。藁人形を売りつけられたのだ。
本当の答えは、複雑な機構は漸進的に進化するか、以前からあった複雑な機構を新しい目的へ適応させることで進化する、というものである。リスは筋肉だけを使って木の梢から別の梢へ跳ぶが、跳べる距離は、ある程度まで身体の空気力学的特性に左右される。だから今では、短い距離なら滑空できるほど空気力学的な体を持つムササビがいる。鳥が絶滅したなら、一千万年後にはムササビの子孫がその生態的地位を再び占め、滑空膜は翼へ変わっているかもしれない。すると創造論者はこう言うだろう。「半分だけの翼に何の役に立つところがある? 落ちて潰れるだけではないか。リス鳥など、どうして漸進的に進化できたのか?」
このように、一つの複雑な適応が、新たな複雑な適応の端緒となりうる。複雑性は、一つの突然変異から始まり、漸進的に蓄積することもできる。
まず、単純だが、それ単独でも少なくともわずかには有用な遺伝子Aが現れる。そのためAは遺伝子プール全体へ広がる。次に遺伝子Bが現れる。これはAが存在するときにしか有用でないが、Aは遺伝子プールに確実に存在するので、Bを有利にする確実な選択圧がある。続いて、Bに依存しながらも、BがA/A∗に依存する関係を壊さない、A∗の変異版が現れる。さらに、A∗とBに依存するC、A∗とCに依存するB∗が現れる。やがて、どれか一つの部品を取り除くだけで壊れる「還元不可能なほど複雑な」機構ができあがる。
それでも、たった一つの部品へ戻る道筋を思い描くことはできる。機械全体を壊さずに、ある部品の別の部品への依存を弱める。これを何度か繰り返せば、機械を壊さずに部品一つを丸ごと取り除けるようになる。さらにこれを続ければ、時を刻む時計を粗末な日時計へ戻せる。
一例を挙げよう。DNAは、正確な複製が可能な耐久性のある形式で、情報を非常にうまく保存する。リボソームは、その保存された情報をアミノ酸の配列、すなわちタンパク質へ変換する。タンパク質は折り畳まれ、化学的に活性を持つさまざまな形になる。DNAとリボソームを組み合わせた系は、ありとあらゆるタンパク質機構を作れる。しかしDNA情報をタンパク質へ変えるリボソームがなければ、DNAに何の役に立つところがあるのか。どのタンパク質を作るか指示するDNAがなければ、リボソームに何の役に立つところがあるのか。
生物が必ず化石を残すとは限らず、進化生物学が漸進的な経路をいつでも解明できるわけではない。しかしこの場合、それがどう起きたかを私たちは知っている。RNAはDNAと同じく、情報を運び、自らを複製できる性質を持つ。ただしRNAは耐久性が低く、複製の精度も劣る。またRNAはタンパク質と同じく、折り畳まれて化学的に活性を持つ形になる能力を持つ。ただし、タンパク質をなすアミノ酸鎖ほど多用途ではない。ほぼ確実に、RNAこそ、相互に依存するA∗とBに先立つ、一つのAである。
RNAがDNAとタンパク質の仕事を合わせて下手にこなす点は、それをとにかくこなせる点と同じくらい重要である。たった一つの分子が情報を保存し、同時に化学反応を操作できるだけで、十分に驚くべきことだ。その仕事をうまくこなすとしたら、まったく不要な奇跡になってしまう。
かつて存在した最初の複製子は何だったのか。RNA鎖だった可能性は十分にある。というのも、何とも奇妙な偶然により、RNAの化学成分は、40億年前の生命誕生以前の地球で自然に生じたはずの物質だからである。注意してほしい。進化は生命の起源を説明しない。進化生物学は最初の複製子を説明することになっていない。最初の複製子は、別の複製子から生じるものではないからだ。進化が記述するのは、複製における統計的傾向である。最初の複製子は統計的傾向ではなく、純粋な偶然であった。進化が生命の起源を説明すべきだという考えは、まったくの藁人形であり、これも創造論者による誤った説明である。
最初の複製子が現れた日、地球を一変させたその日に原始スープを眺めていたとしても、最初の複製子がどれほどうまく複製するかに感銘を受けることはなかっただろう。最初の複製子はおそらく、LSDで酩酊した猿のように自らを複製した。現代の複製子に具現された、入念な微調整のしるしなど何一つ示さなかったはずだ。最初の複製子は偶然だったからである。その一本のRNA鎖、あるいは化学的ハイパーサイクル、あるいは粘土上のパターンが、巧みに複製する必要はなかった。とにかく一度起きるだけでよかった。それでも、個別の出来事として見れば、おそらく非常に起こりにくかった。しかし起きる必要があったのは一度だけであり、潮だまりは数多くあった。数十億年後、複製子は月面を歩いている。
最初の偶発的な複製子は、全時間の歴史で最も重要な分子であった。しかし、それをあまりに褒め称え、複製を助ける素晴らしい能力をあれこれ備えていたと考えるなら、あなたは要点を丸ごと見失うことになる。
進化論者と創造論者の政治的な争いで、進化を褒める者は誰でも科学の側にいる、などと考えてはならない。科学は、進化に何ができるかについて、きわめて正確な見解を持っている。そこから一ミリでも進化を高く持ち上げれば、創造論に対抗して「進化の側で戦っている」ことにはならない。ただ科学的に不正確なのである。それで話は終わりだ。そう、竜巻には747型機を組み立てる力があるのだ、と言い張って、創造論者の罠に落ちている。なんと驚くべきことだろう! 進化とはなんと見事に知的で、なんと称賛に値するのだろう! 見てくれ、私は科学への忠誠を誓っている! 進化を褒めれば褒めるほど、創造論者に対して進化の側に立っているに違いない!
しかし進化を褒めすぎれば、本当の驚異を壊してしまう。本当の驚異とは、進化がものをどれほどうまく設計するかではなく、自然に生じた過程が、とにかく何かを設計できることである。
だから、進化は素晴らしい設計者であり、種の運命を導く素晴らしい指揮者であって、私たち人間も見習うべきだ、という考えは捨てよう。人間の知性が設計者として進化を真似るのは、高度で現代的な細菌が、生化学者として最初の複製子を真似ようとするようなものである。「ダーウィンのブルドッグ」ことT・H・ハクスリーは、こう述べた。1
社会の倫理的進歩は、宇宙的過程を模倣することにかかっているのでも、ましてやそこから逃げることにかかっているのでもなく、それと闘うことにかかっている。このことを、きっぱりと理解しようではないか。
ハクスリーがそう述べたのは、進化を信じていなかったからではない。あまりにもよく理解していたからである。
Thomas Henry Huxley, Evolution and Ethics and Other Essays (Macmillan, 1894). ↩