非公式日本語訳 — 原著者・発行元による公式の翻訳ではありません

Eliezer Yudkowsky — 非公式日本語訳

人間の悪と混濁した思考

Human Evil and Muddled Thinking

❦

ジョージ・オーウェルは、文明世界が全体主義へと転落し、国々が次々に転向し、あるいは腐敗していくのを見た。人間の顔を踏みつける長靴、それが永遠に続く。忘れないでほしい、永遠になのだ。全体主義の台頭は止められないように見え、次々に国が秘密警察と真夜中の轟くノックに屈し、その一方で自由な大学の教授たちがソ連の粛清を進歩とたたえた時代を、あなたは覚えていない。生まれるのが遅すぎたのだ。あなたには、それはフィクションのようによそよそしく感じられ、真剣に受け止めるのが難しい。なぜなら、あなたが生きる時間の枝では、ベルリンの壁は崩れたからだ。その石の一つにオーウェルの名が刻まれていないのなら、刻まれるべきである。

オーウェルは人類の運命を見て、それを進路から引きはがそうと、渾身の力を振り絞った。彼の武器は明晰な文章だった。曖昧で混濁した言葉は、混濁した思考だと彼は知っていた。人間の悪と思考の混濁が、DNAの相補的な鎖のように絡み合うと知っていたのだ。1

現代の政治的な演説や文章は、その大半が、擁護できないことを擁護するものだ。イギリスによるインド支配の継続、ロシアの粛清や強制移送、日本への原爆投下といったことも、たしかに擁護はできる。だが、それができるのは、大半の人が正面から受け止められないほど残酷で、政党が公言する目的とも一致しない論拠によってだけだ。だから政治の言葉は、その大半が婉曲表現、論点先取、ひたすら霞のかかった曖昧さでできていなければならない。無防備な村が空から爆撃され、住民は田園へ追い払われ、牛は機関銃で撃たれ、小屋は焼夷弾で火を放たれる。これを平定と呼ぶ……。

オーウェルは、自分の明晰さが何を目指すのかについても明晰だった。

英語を簡潔にすれば、正統とされる考えの最悪の愚かさから自由になれる。そこに必要な特殊な言葉遣いが一つもできなくなるし、愚かな発言をしたときには、その愚かさが、自分自身にすら明らかになる。

自分たちの愚かさを、自分たち自身にも明らかにすること。それこそがOvercoming Biasの核心である。

悪は心の暗がりを、身を隠して忍び進む。私たちは歴史の明晰さをもって振り返り、スターリンや毛沢東の計画的な飢饉によって数千万人が殺されたことを思い、涙する。これを悪と呼ぶのは、罪のない人間に苦痛と死を与えようとする、人間の意図によって行われたからだ。これを悪と呼ぶのは、歴史の明晰さをもって振り返るとき、私たちがそれに嫌悪を感じるからだ。悪をなす者が、それに当然起こる抵抗を避けるには、嫌悪は表に出ないままでなければならない。明晰さは、どんな犠牲を払っても避けなければならない。明晰な目を持つ人間が、目にした悪に抗おうとするのと同じように、人間の悪も、それがどこにあろうと、思考を混濁させようとする。

『1984年』は、このことをあからさまに描いている。オーウェルが描く究極の悪役は、写真を切り抜き、エアブラシで修整する者たちだ。実際にソ連で行われた切り抜きや修整が下敷きになっている。愛情省の闇の極みにおいて、オブライエンはウィンストンを拷問し、二足す二は五だと認めさせようとする。2

「覚えているか」と彼は続けた。「日記に、『自由とは、二足す二は四だと言える自由だ』と書いたことを?」

「覚えている」とウィンストンは言った。

オブライエンは左手を上げた。手の甲をウィンストンに向け、親指を隠し、四本の指を伸ばしていた。

「指を何本立てている、ウィンストン?」

「四本」

「では、党が四本ではなく五本だと言ったら、何本だ?」

「四本」

その言葉は、苦痛のあえぎになって途切れた。計器の針が55まで跳ね上がっていた。ウィンストンの全身から汗が噴き出した。空気が肺を引き裂くように入り、歯を食いしばっても止められない深いうめきとなって、また出ていった。オブライエンは四本の指を伸ばしたまま、彼を見ていた。レバーを引き戻した。今度は、痛みはほんの少ししか和らがなかった。

一見知的な人々――たとえばロビン・ハンソンの同僚のタイラー・コーエン――が、バイアスを克服することを重要だと思っていないのには、私はいつも愕然とする。話しているのは、あなたの心のことだ。あなたの人間としての知性のことだ。それがあなたを類人猿から分かち、それがこの世界を築いた。心がどう働くかは重要ではないと思うのか? 心に生じる系統的な機能不全は重要ではないと思うのか? 皆が理想的なベイズ主義者だったなら、異端審問官は魔女を拷問したと思うのか?

タイラー・コーエンはどうやら、バイアスを克服しようとすることも、バイアスと同じくらい偏っていると感じているらしい。「私はロビンのブログを、バイアスの実例であり、実際にバイアスが非常に役立ちうることを示すものだと見ている」。これはただ、気の利いたことを言おうとして抽象的に考えすぎた結果であってほしいと願う。タイラーは、人命の価値について規模に鈍感であることと、できるだけ多くの命を本当に救う計画を立てようとすることが、同じ水準にあると本気で思っているのだろうか?

オーウェルも、似た態度と戦わなければならなかった。何かを区別すること自体が、若者の世間知らずだという態度だ。

スチュアート・チェイスらは、抽象的な言葉はすべて無意味だと主張する寸前まで行き、それを口実に、ある種の政治的静観主義を唱えてきた。ファシズムとは何かがわからないのに、どうしてファシズムと戦えるのか、というわけだ。

バイアスを克服することを、単なる偶然の間違いとの戦いとして描けば、十分に心躍るものには見えないのかもしれない。対抗すべき明確な悪がなければ、熱意を持ちにくいのかもしれない。では、はっきりさせておこう。この世界に人間の悪があるところ、残虐行為や拷問や意図的な殺人があるところには、それを覆い隠すバイアスがある。明晰な目を持つ人々がそのバイアスに抗えば、隠された悪は反撃する。真実には敵がいるのだ。もしOvercoming Biasが旧ソ連の会報だったなら、Overcoming Biasの投稿者もコメント投稿者も全員、労働収容所へ送られていただろう。

人類の歴史を通じて、あらゆる大きな飛躍を動かしてきたのは、思考の新たな明晰さだった。少数の自然災害を除き、あらゆる大きな災いを動かしてきたのは、愚かさだった。最後の敵は私たち自身だ。そしてこれは戦争であり、私たちは兵士なのだ。

Orwell「政治と英語」。 ↩

George Orwell、『1984年』(Signet Classic、1950年)。 ↩