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私たちは、他人の行動と、その人に内在する性質との間に、あまりにも直接的な対応を見てしまう。行動を説明できる実際の状況や、本人が思い描く状況を探る代わりに、異常な行動にぴたりと一致する異常な性質を見いだす。突然変異体を仮定するのだ。
誰かが実際に私たちの気に障ることをしたとき――私たちが、正当であれ不当であれ、よくないと考える行動をしたとき――対応バイアスは倍増するように見える。悪事の原因を、敵の異常で邪悪な性質に求める傾向は、非常に強いようだ。道徳的な問題としてではなく、厳密に事前確率の問題として、敵が自分の置かれた状況について何を信じていれば、その行動の見かけの奇妙さが減るだろうか、と問うべきだ。そうすれば、さほど特殊ではない性質を仮定でき、そのぶん、起こりにくさという重荷を軽くできる。
2001年9月11日、19人のイスラム教徒の男性が旅客機4機を乗っ取り、アメリカ合衆国に打撃を与えるため、意図的に自らの死を伴う行動に出た。さて、彼らはなぜそんなことをしたのだと思うだろうか。アメリカを世界に自由の光をともす国だと見ていたが、生まれつき突然変異的な性質を持ち、自由を憎んでいたからだろうか。
現実には、ほとんどの人は自分を悪役にして人生の物語を組み立てたりしない。誰もが自分の物語では主人公だ。敵自身の目に映る敵の物語は、敵を悪く見せるようなものにはならない。敵を悪く見せるような動機を考え出そうとすれば、敵の頭の中で実際に何が起きているかについて、まったく見当違いの結論に達する。
だが、政治は心を殺す。討論は戦争であり、論拠は兵士だ。自分がどちらの陣営にいるかわかったら、その陣営のすべての論拠を支持し、敵陣営に有利に見えるすべての論拠を攻撃しなければならない。そうしなければ、味方の兵士を背後から刺すも同然だからだ。
敵が邪悪な性質を持っていれば、それは自陣営に有利な論拠になる。そして自陣営に有利な論拠は、どんなに馬鹿げていても、すべて支持しなければならない。さもなければ、戦線のどこかで圧力を緩めることになる。誰もが隣人に負けまいと愛国的な非難を競い、誰も反論しようとしない。やがて敵には角とコウモリの翼が生え、火を吐き、牙からは腐食性の毒液が滴る。事実だけを根拠にしてこれを一つでも否定すれば、敵の側に立って論じていることになる。裏切り者なのだ。敵を擁護しているのではなく、真実を擁護しているだけなのだと理解する人は、ほとんどいない。
怪物じみた行為をするのに突然変異体である必要があるなら、人類の歴史はまったく違った姿になっていただろう。そんな人間はまれなはずだからだ。
あるいは、理解すれば許すことになるのを恐れているのかもしれない。邪悪な突然変異体なら、撃ち殺すのも気が楽だ。「死ね、凶悪なクズども!」と叫ぶほうが、「死ね、育った環境が違っただけで、私と同じだったかもしれない人たち!」と叫ぶより、戦意をかき立てる。純粋な闇そのものではない人を殺すと、罪悪感を抱くかもしれない。
私にはこれは、最善の方策には欠点が一つもない、一方にしか理のない政策論争への、根深い願望に見える。軍隊が国境を越えてきたり、狂った人間がナイフを持って襲いかかってきたりしたら、選べる方策は(a)身を守るか、(b)無抵抗に死ぬかだ。身を守るなら、人を殺さなければならないかもしれない。別の世界では友人だったかもしれない人を殺すなら、それは悲劇だ。そして、実際に悲劇なのである。もう一つの選択肢、無抵抗に死ぬことも悲劇だ。なぜ、悲劇でない選択肢がなければならないのだろう。選べる最善の方策には欠点があってはならないと、誰が決めたのか。誰かが死ななければならないのなら、暴力を先に仕掛けた者のほうがよいだろう。そうすれば将来の暴力を抑止し、死の総数を最小限にできる。
敵がごく普通の性質を持ち、暴力が人間の典型的な反応となるような状況認識に基づいて行動しているとしても、それは、その認識が事実として正しいという意味ではない。敵が正当化されるという意味でもない。自分の物語では主人公である人を撃ち殺さなければならず、その人の小説では80ページ目で主人公が死ぬことになる、という意味だ。それは悲劇だが、もう一方の悲劇よりはましだ。私たちの整った小さな世界が混沌へと崩れ去らないよう、すべての警察官が毎日している選択である。
敵の心理を正確に推し量るとき――敵の心に本当は何があるかがわかるとき――その知識は、敵陣営に痛快な一撃を決めたような気分をもたらさない。正義の怒りに心地よく浸る気持ちにもならない。自分は立派だという気分にもならない。自分の見立てが耐えがたいほど悲しく感じられるなら、世界をありのままに見ているのかもしれない。もっとまれには、正確な見立てが、真の恐怖で背筋を凍らせることもある。真のサイコパスや、神経学的には正常なのに、信念によって正気を完全に失った人々――サイエントロジストや、ジーザス・キャンプの参加者たち――を相手にしているときのように。
だから、はっきり言おう。9・11のハイジャック犯たちは、邪悪な突然変異体ではなかった。自由を憎んでいたのではない。彼らもまた、自分たちの物語では主人公であり、自分たちが正しいと信じるもの――真実、正義、そしてイスラムの道――のために死んだのだ。彼らがそう自認していたからといって、その信念が真実だったことにはならない。彼らがそう自認していたからといって、その行為は正当だったと私たちが認めなければならないわけでもない。彼らがそう自認していたからといって、ユナイテッド航空93便の乗客たちが手をこまねき、そのまま事を進ませるべきだったわけでもない。それが意味するのは、別の世界で、異なる環境に育っていたら、あのハイジャック犯たちは警察官になっていたかもしれないということだ。そして、それはまさしく悲劇である。地球へようこそ。